6 この温度のためだけに
まさか、来るとは思いもしなかったのに。
「ようこそ」
私はドアの前に立った彼女ににっこりと微笑みました。彼女の制服姿と手に持ったカバンから、学校帰りだと推測できます。今日欠席したのにも関わらず平然とした態度を取る私に対して、きょとんとした顔。この人が、私のことを好きだなんて。不思議です。
「お邪魔します」
彼女は軽く頭を下げました。律儀な人です。ただすぐさま歩き出します。私と目を合わせようとしません。好きな人の家に来たことで緊張しているのでしょうか。その気持ちはよく分かりません。
私は彼女にココアを入れてあげました。キッチンにあるドッグフードの袋が一瞬目に入ります。どう処理すべきか悩みどころです。彼らがいい顔をしない前提で最上階まで持っていきましょうか。
日々の仕送りを無駄遣いしないで。
と、言われる予感がしますね。
そうだ、ついでに昨夜作ったマリネを食べてもらいましょうか。人が家に来たのですから、おもてなしをしなければいけませんよね。ええ、だってあの子は家に上がってくれなかったもの。一人で全部食べるのも寂しいし、結局冷蔵庫に入れて放置してしまいました。
「せめて皿洗いは私がやってもいい?」
彼女は頭を掻きながら、申し訳なさそうに私に聞きました。
「今度一緒にお料理を作ってくれた方が嬉しいかな」
そう答えると、照れたように目を逸らします。やはり、私のことが好きなのですね。理由が分かりません。彼女を褒めただけで好きになったのでしょうか。いえ、それとも外見でしょうか。外見だとちょっと嫌だなあ。
「あまり料理作るのうまくないけど」
「大丈夫、一緒に作るのなら簡単だよ」
彼女は黙りました。拒否しないあたり、かわいいです。これで私のことが好きでなければ、素直にかわいいと口に出しているところです。
それにしても、本当に家に来たのですね。密かに期待していた可能性が実現して、嬉しいのか嬉しくないのか微妙な気分です。きっと家に人が来たこと自体は嬉しいのでしょう。しかし、私が彼氏の存在を匂わせても学校を休んだ私を心配してくれるのは、嬉しくありません。そうなんです、嬉しいと思ってはいけません。
なのに、彼女なら本当に愛してくれるのではないかって、期待しそうになります。
彼女の選択が知りたいです。たとえ私に彼氏がいたとしても恋心を手放さないのでしょうか。それとも、諦めて、友達に戻るのでしょうか。
「探したら連弾の楽譜があったの。簡単だから、やってみない?」
私はどうしてもその口に吐き出させなければなりません。だから、きっかけを作るために連弾の楽譜を取り出しました。
わざと小さなピアノ椅子に座って、となりに腰掛けるよう仕向けました。
「一緒に弾いてくれる?」
首を傾げて、優しい微笑みを作ります。ごくりと唾を飲み込む動きを彼女の首に捉えました。私と座るだけでそこまで緊張するのですか。不可解です。
彼女の体がくっついてきました。熱いです。私は彼女にポイントを説明したあと、試しにきらきら星を一緒に弾いてみました。彼女は嘘をついていませんでした。確かに小さい頃に習った程度の技量です。それでいいのです。弾き方の指導を言い訳にして、彼女の両手に触れることができます。
私は手を彼女の手に重ねました。色は私より焼けていて、サイズは私より大きいのですが、フォルムは女性のそれらしく滑らかで、感触も柔らかいです。しかも、温かい。人間の手って、こんな温かいものなのですね。子どもの頭を撫でる母親の手も、こんな風に温かいのでしょうか。
人間の手というものに、もっと触れていたいと思いました。
ううん、それではいけません。私はあくまで目的を達成するためにやっているのです。
きらきら星の単純な音たちが、ピアノからリビングへ転がっていきます。
「ねぇ、今日は返事をくれるんじゃないの?」
心地よい彼女の手を操りながら、私は意地悪な質問を口にしました。
「私に彼氏がいたら、どうする?」
私に彼氏がいるだけで、私の頭を撫でていたかもしれなかったこの手を、引っ込めてしまうのでしょうか。
彼女は動かなくなりました。いつもの無表情から、感情を読み取ることができません。人間全体が停止したような印象を与えられます。きっと、大丈夫ですよね。ええ、彼女はきっと私から離れてしまいます。そうすれば、私も彼女も愛の頼りなさを知ることができて、ウィンウィンの関係になれます。
私は彼女の手で演奏しながら、黙って答えを待ちました。
すると、彼女は思い切り乗せられた私の手を追い払ったのです。
何の迷いもなく、拒絶されました。
「あんたに彼氏がいたらどうするかって、答えはとっくに知ってるんでしょう」
何で。
「明日からもう構ってこないで。赤の他人として祝福してあげるよ」
何で。
彼女は立ち上がって、私を見下ろしました。浮かべているのは出会った頃の冷たい笑み。自嘲するときによく現れる、冷酷な表情です。切れ長の目、冷徹な瞳。一切の迷いがありません。先程の手の温もりに反して、鋭い視線が瞬時に凍てつきました。
私は正解をきちんと踏めているはずなのに、何もかもがおかしい。
何で誰もいないの。何で誰も側にいてくれないの。何で誰も私を愛してくれないの。何で私を置いていくの。
私は正解をきちんと踏めているはずなのに、どうしてショックを受けているのでしょう。
分からない。分かりません。見えるのは遠ざかっていく彼女の背中です。これから私の家を出ようとしています。こうして私も彼女も、好きが嫌いに変わることがどれだけ簡単なことか、もう一度知ることができるのです。期待することがどれだけ愚かなことか、人の気持ちはどれだけ容易に変化するものか、人の温もりを求めるのはどれだけ惨めなのか、彼女の行動が証明しているのではありませんか。
私に彼氏がいるならば、彼女はもう私を愛してくれないと言うのです。
永遠なんてありません。ずっと続く愛なんてありません。人間は簡単に掌を返して、簡単に人を裏切ります。世の中の摂理です。そうやってできているのです。彼氏がいるなら身を引くのが倫理的にも摂理的にも正解です。それこそが正しい道徳観です。間違いとは、今の私のことなんです。
「ねぇ、たったそれだけ?」
神様、お願いですから私を止めて下さい。私はもう二度と傷つきたくありません。彼女の答えはもう私に届きました。それを捻じ曲げることは許されないのです。私は深く踏み入ってはいけません。
ダメ、口が止まらない。
「例えば、私をあなたのものにする、って素敵だと思うの」
もし罪人は楽園から追い出される運命にあるならば、私は最初から楽園の優しさを知りたくありませんでした。もしいつか愛が滅びる運命にあるならば、私は愛を味わいたくありませんでした。
私は欲張りだから、裏切り者でありながら裏切られたくありませんでした。
私は弱虫だから、いつか失うべき小犬たちを飼うのがとても怖かったです。
「あなたは私のことをどうしたい?」
早く帰って下さい。私を無視して帰って下さい。私はもうコントロールを失いました。
彼女は戸惑っています。あってはならないはずの誘いを口にする私からリビングの片隅へと視線を動かしています。先程の冷たさは、半分ほど溶けて、半分ほど不信感として張りついているようです。確かに、こうなるはずですよね。今までずっと彼氏のことを曖昧に匂わされてきたのに、今更「恋人になろう」と言われても疑わざるを得ません。
「私の考えはもう言ったから、あなたがどう思うのかも聞かせてほしいの」
無理やりにでも、彼女に吐き出させると言うのですか。
私は笑顔を保つほどの余裕をもなくし、ただ祈るように彼女の瞳を注視しました。一言だけでいい。あなたは私から離れないと言って下さい。
怖い、愛されるのが怖いのは愛されなくなる瞬間が怖いからです。
「私はあんたのことが好きだよ」
彼女はぽつりと言いました。
「そりゃ、あんたに彼氏がいたとしても好きだし、できれば横取りして自分のものにしたいと思うよ」
表情を和らげて、小さな笑みを覗かせてきます。まるで、夏休みに初めて笑ってくれたような優しい笑顔でした。それが、切なげに歪められて、唇が噛み締められて、くるりと廊下に背けられます。歩行のリズムに合わせて、黒髪が揺れました。
私は間違った人間です。これが恋ではないことを知っていながら、あなたの温もりを利用しようとしています。ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも寂しい。誰でもいいから、誰でもいいから私を包み込んでいてほしい。
――人と距離を置く方が正解なのに、好いてもらいたいなんて、本当にかわいいのね。
――容易に変質する人の温もりを求めてしまうのは正直、少しだけですが、ほんの少しだけ、がっかりしました。
私は彼女と何ら違わないのです。そうやって彼女を蔑まなければいけなかった理由は、私自身が誰よりも人に愛してもらいたくて、温もりを与えられたいからなのです。
「だったら、私とつき合おうよ」
私はピアノの鍵盤に視点を定めました。罪悪感に押し潰されそうです。彼女が私に向けるのは正真正銘の恋愛感情、だから面に向かって言えないのです。ごめんなさい。本当にごめんなさい。
私は冷静さ、いいえ、少なくとも冷静そうに見える顔を維持するために、白鍵を一つ押しました。私はきらきら星のメロディを押していきます。意識をこちらに集中させることで、何とか気持ちが楽になりました。決して、私の内面を悟られてはいけません。私は脆い中身を守らなければならないのです。
そうです、思い出しました。私はきちんと笑えるはずです。立ち回ることは、最も得意としていることではありませんか。
「鈍感だけど、優しい人ね」
今は余裕を演じなければなりません。さながらに私がずっと前から彼女に好意を抱いていたかのように。だからこそわざと彼女に自分の気持ちを吐き出させたかのように。私に弱みなどないかのように。
私はきらきら星変奏曲を弾き出しました。連弾のきらきら星ではなく、かなりの難易度を誇るバージョンです。独学で頑張って練習したものなので、私も集中をしなければ終わりまで流暢にこなせません。三階に移り住んだばかりの匂いが思い出されます。独りに慣れることに必死で、自分をコントロールする方法を昼に習得しながら、毎晩泣いてばかりでした。この曲は、二度と裏切られないと誓ったあの頃を象徴しているのです。
鍵盤を素早く順序よく鳴らしていくとたんに、後ろから腕を掴まれました。曲が途切れます。
「私とつき合ってくれるの?」
振り向くと、彼女の瞳が真剣に私を捉えています。黒曜石のように深い瞳の中に、動揺が外面に漏れてしまった私の表情が映り込んでいました。彼女には冷めた顔が似合います。しかしそれ以上に、期待に満ちていながら抑えようとする今の顔が似合います。初めてこんなに近くで見ました。彼女は常に冷淡なので、こんなに近くまで迫ってくることは一度もありませんでした。いつも凛とした彼女が少女として切なげに答えを求めてきたら、どうしても彼女の期待に応えたくなります。
そして、力強く私の腕を握る手はとても熱いです。これが、彼女の温度。柔らかくて、でもきちんと重みがあって、あったかい。まるでどくどくと熱い血液をそこから流してくれているようで、頭まで熱くなって、ぼうとします。人間に触れられるのはこんな気分なのですか。どうしてこんなに気持ちいい。
彼女に恋をしてあげられないのに、この温度のためだけに引き止めるのですね、私。
「うん。やっと言ってくれたのね」
私はいい笑顔を咲かせました。私はいつもこうやって皆を騙しています。笑顔とは、私はあなたを害するものではありません、と伝えるための動作です。だから皆騙されていきます。しかし、騙されていた方がいいこともあります。裏切りが見破られない限り、それは真実であり続けるのです。彼女にとっても、私の愛は真実になります。
彼女は胸を撫で下ろして、私の腕を離しました。
ごめんなさい、裏切り者でごめんなさい。私はどうしようもない裏切り者です。でも、あなたの手は病みつきになるほど気持ちよかったの。
「手、繋いだりしてもいいの?」
彼女は喜びを隠しません。普段の声より遥かに大きくて、高いです。私は手のひらを彼女に見せました。その上に彼女のすらりとした手を乗せられます。やはり、あったかい。あったかくて、ドキドキしている。私は、人間に触れられている。
私が手の感触に夢中になっていると、彼女は爽やかな笑顔を私に見せて言いました。
「何か、私にしてほしいことはない?」
瞬時に血の気が引きました。
私と彼女の関係が相互的なものではないと思い出したのです。私は彼女にしてほしいことがたくさんあります。誰もいない夜に電話をしたい、その手で私を抱き締めてもらいたい、共に空っぽのリビングにいてもらいたい。家の事情を全部打ち明けたい、人の前で泣きたい、永遠に一緒にいたい。彼女ではない別人でもいいこれらのこと全てをしてほしいのです。
逆に、相手に何かをしたいという気持ちは全く感じませんでした。私は人に求められるままに適切な行動をとってきましたので、人を喜ばせる方法をよく理解しています。しかし、それはあくまで円滑な人間関係を築くための手段でしかありません。私はあなたに害を与えませんので、あなたも私に害を与えないで下さい。そんな協定を結ぶだけです。
ああ、やはり、私は踏み違えました。私は誰よりも渇望している永遠の愛を、私自身が決して他者に与えることができません。一時的な人恋しさで、彼女の純粋な気持ちを裏切り続けるなんて。もし彼女がこの家を出ようとしたときに呼び止めなければ、せめて、せめて一瞬だけの裏切りで済むのに。
だから、
「あなたがしたいことだけでいいの」
私は彼女にそう言わざるを得ませんでした。
彼女から目を逸らして、窓の外を眺めます。既に夜空が広がっていて、月の細い光とビルの明かりだけが世界を照らしていました。
私は、誰かと深く関与してはいけません。それは、永遠が存在しないからです。人間の気持ちは簡単に変質します。人間の体は簡単に朽ちます。裏切り、別れ、死。私たちは容易く引き裂かれるのです。愛が深いぶん傷が深くなります。幸せになったぶん大きな不幸せが訪れます。
どうして、私は縋りついてしまったのでしょう。彼女に優しくされるほど、その気持ちが私から離れた際に、私は更に深い痛みを味わうことになるのです。今からどうすればいいでしょう。私は人からの愛を享受してはいけません。たとえこれが恋ではなくても、私は彼女を好いてしまうんじゃないですか。彼女を信じてしまうんじゃないですか。まるで私があの女を信じたように。まるで私がお母さんを信じたように。
どうしましょう。どうやって別れればいいでしょうか。彼女を引き止めなければよかったのに。私は私が思っているほど器用ではありませんでした。コントロールが、これほど容易に外れてしまうなんて。
早くこの幸せを手放さなければなりません。
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