5 寂しい

 エレベーターに乗って、忌々しい最上階に向かいました。掛けすぎた冷房で凍りついた空気が肺を圧迫します。いくら所有しているビルとはいえ、最上階をまるごと自分の家にするのはどうなんでしょう。よくもこれでバレませんね。バラしましょうか。

 いけない、これからモカちゃんに会うのです。犬は人間の機嫌にとても敏感です。彼女とのやり取りで混乱した気持ちをちゃんと整理しなければなりません。私はきっとうまく立ち回れるはずです。

 ドアのロックは既に解除されていました。取手を引いて、暗い玄関に入ります。

「失礼します。モカちゃんを受け取りに来ました」

 私は明かりをつけないまま、扉の隙間から光が漏れるリビングに声を張り上げて言いました。リビングの扉がゆっくりと開きます。まだ四歳ほどの男の子が顔を覗かせていました。

「おねえちゃんだぁ!」

 彼は楽しそうに私に駆け寄りました。会社の後継者くんです。あなたのお母さんがあの男と結婚できましておめでとう。そんな皮肉しか思い浮かびません。彼は何も悪くありませんが、彼の親は私にとっての裏切り者です。だから、心の中で嫌うのだけは許して下さい。

「こんにちは、僕は元気?」

 清々しいほどに嘘臭い笑顔で話し掛けました。

「げんきー! おねえちゃんは?」

「私も元気だよ」

 家族も居場所も会社もあなたに横取られましたが、まだ元気です。

 今日の私は本当にダメですね、一向に優しい言葉が出てきません。普段なら、子ども相手にもう少し優しくなれるはずです。彼は何も悪くありません、悪いのは根本的に私なんです。まだ道理が分からない四歳児にいちいち噛みつく私が落ちぶれているだけです。

 後継者くんと他愛もない会話をしているとたん、お義母さんがクリーム色の小犬を腕に抱きながら出てきました。モカちゃんは私を見つけるなり目を輝かせて、下ろしてもらいたそうに暴れ出しました。お義母さんの方は、まるでゴミを見ているかのような目つきで私を注視しています。あなたも、あの男と結婚できましておめでとうございます。もちろん心の中でしか言いませんので、どうか口が悪いのは許して下さい。

「こんにちは。いつもお世話になっています」

 ぺこりとお辞儀をしました。何でお辞儀をしなきゃいけないのでしょう。

「モカです。十時までには返して下さい。お世話の仕方は分かりますよね?」

 あなたよりは分かります。言いませんけど。

 彼女の手からモカちゃんを受け取ります。かわいい、しっぽをぶんぶん振りながら早速私の頬をペロペロ舐めてくれています。モフモフした感触。あの誕生日からずっと、私はモカちゃんのことが大好きだよ。でも、モカちゃんは世話をしてくれるお義母さんの方が好きなのかな。犬だもん、仕方ない。モカちゃんのせいじゃないんだ。

「用件はもう済んだでしょう」

 冷めた声音で、とっとと去れ、と言いたげに私を睨みつけてきました。まあ、チョコくんに会わせてあげるあたり良心はあると思いますが。

 シワばっかり寄せてしまうと老けて見えますよ。それで不倫されても仕方がありませんよ。言いませんけど。

「ありがとうございます。では、十時までにまた渡しに来ますね」

 もう一度お辞儀をして、さっさと出ていきました。後継者くんは残念そうな顔で私に小さく手を振ってくれました。幸せな家庭で育っただけあって、とてもいい子ですね。私にもそんな頃がありました。

「きゅーん」

 モカちゃんは甘い声で鳴きました。私はその背中をよしよしと撫でます。大丈夫です、これから一緒にチョコくんを迎えに行きましょうね。

 モカちゃんは本当に優しいです。私の気持ちを察したのか、私の腕を一生懸命舐め始めました。まるで慰めてくれているみたいです。

「永遠があったらいいのにね」

 ぽつりと呟きました。何の飾りもない素の私は、犬の前でしかさらけ出せなくなったのです。


 チョコくんと三年ぶりの再会を果たしたあと、二匹を空っぽのリビングで遊ばせました。根だけが優しいKは、チョコくんのかごの中に犬のおもちゃをたくさん詰め込んでくれていました。お陰で、すっからかんのうちでも楽しく時を過ごせました。

 チョコくんは昔のようにモカちゃんのしっぽを追い掛けて、ぐるぐる回っています。時々思い出したように私に抱っこをせがみました。深い茶色の美しい毛並み。あの日と何一つ変わりません。再び触れたときは、感動で泣きそうになりました。

 私は銀色のお皿に選び抜いたドッグフードを入れます。自分で調理するのもできますが、もしかすると趣味が昔と変わったかもしれませんので、挑戦しませんでした。おいしくご飯をいただく白いモカちゃんと黒いチョコくん。正反対の二匹ですが、いつも仲良しでした。いえ、同じ甘えん坊さんという意味では、似た者同士かもしれませんね。

 八時を少し越えた時刻になると、インターホンが押されました。ドアのロックを外します。

「こんばんは」

 元弟が一人で来た模様です。

「あなたのお母さんとお父さんは?」

「仕事だっつってんだろ。言っとくけど、お前の母親でもあるからな?」

「そうでしたっけ」

 くるりと身を翻って、リビングに入ります。楽しく遊んでいたところのチョコくんを抱き上げました。もう、幸せな時間はおしまいです。ごめんなさい。私はいいから、モカちゃんの姿をそのくるりとしたつぶらな瞳に留めておいて下さいね。

 どうにか、私に許された時間を引き延ばせないのでしょうか。

「よければ上がったらどうですか? 会うのは久しぶりですよね。ご飯もありますし、ココアも入れますよ」

「これから家に帰って夕食を作るから無理だ。早くチョコを渡せ。……でも、モカを一目だけ見させて」

 私が呼びに行かなくても、抱き上げられたチョコくんを追い掛けてモカちゃんがひょこひょことついてきました。元弟の顔が一気に明るくなりました。私とめったに会わないのもあり、久しぶりに彼のいい笑顔を見た気がします。

「モカー! お前に会いたかったよ!」

 私への態度とは格段に違います。でも、モカちゃんも嬉しそうにしっぽを振っているので、よしとしましょうか。

「外食はあまりしないんですか?」

 話を振って、小犬たちが一緒にいられる時間を引き延ばそうとします。屈んでモカちゃんと遊んでいた元弟は、憎しみを込めたような鋭い視線を私に突き刺してきました。

「お前なんかと一緒にすんなよ。金目当てでこっちについた裏切り者が」

「そう」

 軽く受け流しました。別にあの男の財産が目的でここに留まった訳ではありませんが、金銭面で恵まれているのは確かです。ただ、やられてばかりじゃ不愉快なので、ちょっと突っついてみます。

「お金に困っているのですか?」

 薄い笑みを口元に浮かべました。

「おまっ……そうだよ。バイトも始めたけど、足りねえんだ。お前が一番分かるだろ、母さんがやらかしたことなのに間違いはねえからな。仕送りが足りねえ、母さんもあっち行ってから仕事が大変で、家にいるのは俺とチョコしかいねえ」

 意外にも、素直に状況を述べてくれました。彼はなかなか大変なようです。もしかすると、私が共感してあげると思っているかもしれません。お前もいつも一人だろ、と言いたいのかもしれません。

 共感なんかしませんよ。あなたにはチョコくんがいるんじゃないですか。

 黙り込んでいると、彼はいよいよチョコくんをかごの中に入れて、家を出ていこうとしました。私には引き止める権利なんてありません。

「まあ、今回は俺が頼んだことだからさ、モカも一緒に返しに行くよ」

 彼だって、もっと長くモカちゃんと一緒にいたいのでしょう。クリーム色の小犬を胸に抱き寄せて、愛おしそうに背中を撫でました。私は口を開きません。今の沈黙は、同意を表しています。モカちゃんとチョコくんは、まだ遊びたげに私を見つめていました。ドアが開きます。

 じゃあね。

 ガシャン、と閉まる音。前方はいつもの無機質なドアです。私は玄関で立ち尽くしました。もう戻ってくる気配はありません。そんなの、分かっています。

 何歩か足を動かして、明るいリビングに戻りました。明るくて、清潔で、綺麗なリビングです。私が住み込んできた頃と変わらない風景です。食卓はソファのあたりに移動されています。目の前には、すっからかんの空間です。小犬たちのための空間です。残り僅かなドッグフードが、二つのお皿に入っています。全部は、食べなかったのですね。

 私は、また一人になりました。

 我慢していた涙がポロポロと落ちていきます。

 途切れ途切れに空気を吸うせいで、喉から掠れた汚い声がこぼれました。

「さび、しい」

 本心はとても滑稽です。でも、これが私の本当の気持ちです。傷つかないためには、最初から人を愛さなければいいって分かっているのに。頭では、理性では分かっているのに。

 何で誰もいないの。何で誰も側にいてくれないの。何で誰も私を愛してくれないの。何で私を置いていくの。何で、何で、何で!

 天井が、不本意に目にたまった水のせいで揺らいでいます。白い。ただ白いだけ。

 お母さん、お父さん、K。もう一度、やり直すことができたかもしれません。どうして私が、それを壊してしまったのでしょう。どうして私が、皆を離れ離れにしたのでしょう。どうして私が、モカちゃんとチョコくんを離れ離れにしたのでしょう。彼らはもう二度と会えないかもしれないのに。

 寂しい。すごく寂しい。誰かに側にいてほしい、ぎゅっと抱き締めてほしい、大丈夫って囁いてほしい。

 強く願ってしまう。私は誰かを愛し、誰かに愛されたかった。私はたったそれだけの人間です。

 こんなのいけませんよね。ごめんなさい、私。一人になった日、もう二度と裏切られないとあなたに誓いました。なのに、今更こんな弱音を吐いてはいけませんよね。

 私は本当に、意気地なしです。

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