5 きらきら星
次の日、彼女の席は空いたままだった。彼女にしては珍しい欠席。周りの同級生たちが、風邪なのかな、とざわめいている。中の何人かは、高校に上がっていつも彼女と仲よくしていた私に欠席の理由を聞いた。
「ごめん、私にも分からない」
心当たりがあるからこそ、素知らぬ顔で嘘をつく私に罪悪感が押し寄せる。しかし、彼女との会話を他人に話していいはずもなかった。
彼女は、あなたが恋人だったらよかったのにね、と私に言った。
あの発言が何を意味していたのかさっぱり分からない。私が恋人だったら? 彼女にとって私はただの女子校の友達ではないのか? それに、よかったのに、ということは、彼女にはやはり彼氏がいたのだろうか。
うまくいっていた彼女との関係がいとも容易く揺らぎ始めて、微風だけでも崩れ落ちそうな架け橋みたいに震えている。
私はどんな顔をして彼女に会えばいい。もしも私が一般的な女子校の友達なら、「昨日は冗談がすぎたよ」と軽く受け流すべきだろうけれど、私は昨日の衝撃を経て、自分の恋心が果たして淡白なものであるか疑問視せざるを得なくなった。私の気持ちが強烈な色を呈していなかったのは、濃くある必要がなかっただけで、綺麗な彼女に雑物が入ろうとした瞬間に、それがひどく変色する。
どうしてここまで彼氏の存在が許せないのだろう。いない方がおかしいと頭では分かっているのにな。
駅の近くにそびえ立つ青いビル。見上げてざっと数えると三十階以上はあるが、目当ては地面に立つ私との距離がさほど長くない三階だった。
結局、放課後、私はここに訪れてしまった。
受付のインターホンに彼女の部屋番号を入力する。何の返答もなかったが、扉が開いた。このままラウンジを通ってエレベーターに入る。中の鏡に対峙すると、表情は消沈していて、人前で心掛けて伸ばしていた背筋も今や曲がってしまっている。このままじゃいけないと首を横に振った。勝手に散るなら、せめて堂々と散りたい。まるでドラマの主人公気取りだ、と自嘲してしまう。
こうして私は三階に着き、記憶をたどって一度入ったことがあるドアの前に立つ。取手を引っ張ると、やはりロックは解除されていた。
彼女は玄関にちょこんと座って私を待っていた。白いTシャツを着ていて、中から肌の色が少し透けて見える。
「ようこそ」
彼女は晴れた笑顔になる。
「お邪魔します」
私は小声で答えて、軽くお辞儀をしてから玄関に踏み出した。
リビングに入ると、彼女は私にソファで待っているように指示をした。しばらくキッチンから水の流れる音がして、彼女が出てくると、その両手にはそれぞれ白いマグカップが握られていた。
「外、寒かったでしょ? ホットココアだよ」
彼女は慎重にマグカップを食卓の上に置いた。体の芯まで温まるような優しい香り。いただきます、と言って、私は適当な一つを取って、口に近づける。彼女はもう片方を手に取った。彼女の家ではなぜか、時の流れがゆっくりになる。私たちは他愛のない会話をした。
ココアを飲み終わったあと、彼女は空になった私のマグカップを一緒に洗ってくれた。そして、蓮根とキノコの入ったマリネを冷蔵庫から取り出した。
「学校帰りはお腹が空くからね」
さすがに料理まで振る舞ってもらうのはバツが悪い、と私はその好意を退けようとしたが、彼女はにっこりと笑って言う。
「こんな機会はめったにないから、食べてくれた方が嬉しいの」
結局私は、彼女の作ったマリネまで食べてしまった。彼女は料理の腕が立っていて、甘酸っぱいマリネは間食にちょうどいい分量だった。恐る恐る、
「せめて皿洗いは私がやってもいい?」
と彼女に聞く。
「今度一緒にお料理を作ってくれた方が嬉しいかな」
「あまり料理作るのうまくないけど」
「大丈夫、一緒に作るのなら簡単だよ」
彼女が欠席した理由も彼氏のことも、触れるタイミングをつくづく逃してしまった私は、現在の話題を遮ってでも勇気を出して聞くべきだろうと考えた。しかし、彼女を訪問したときの決意が、手厚いもてなしによってどんどん流されていく。彼女はそわそわする私の様子を気にも留めない。私たちはいつもの穏やかな私たちだった。
この方が余程居心地がいい。私は、本当に彼女に踏み込むべきだろうか。
「そうだ、この間ピアノを習ったことがあるって言ってたよね」
私が思考に耽っていた間、彼女は部屋の中に入って、大声でリビングの私に話し掛けた。
「探したら連弾の楽譜があったの。簡単だから、やってみない?」
「連弾?」
自分の世界から引きずり出され、意図せず彼女の言葉を繰り返す。部屋から出てきた彼女は、サイズの大きい一冊の本を手に持っている。おそらく楽譜なのだろう。ピアノにまで歩いて、本を開いてから譜面台に乗せた。
彼女が手招きをしたので、近づくと、楽譜の名前が目に入る。きらきら星。極めてシンプルな譜面で、難易度が低いのは一目瞭然だった。
「一緒に弾いてくれる?」
彼女は首を傾げた。柔らかな黒髪が揺れると、リビングの照明を反射してできた光沢がゆらりと動く。肝心な本題を口にできないまま、私は抗えず彼女のとなりに腰を下ろした。
一人用の狭いピアノ椅子に座った二人の腕は密着していた。まさに彼女の熱が、腕に拡散する。恥ずかしくて俯く私と、明るい声で楽譜のポイントを説明する彼女。あまりにも対照的で、私の思いがどれだけ独りよがりなのかがよく分かる。
「せーの」
そう言って、彼女は手を動かし始めた。慌ててそのリズムに合わせて鍵盤を押していく。しかし、いくら簡単な楽譜でも、初見の私はところどころ間違えてしまっていた。そうするたびに彼女は手を止めて私を待った。自分の下手さを晒すことになって、焦りが増大すると、ミスが余計に多くなっていく。彼女はどう思っているのだろう。たかがきらきら星に手こずる自分が歯がゆい。
「手、貸して」
突然、彼女の透き通る小さな手が私の手と重なる。冷たい。でも柔らかい。砕け散りそうなほど頼りない彼女の指が、私の指に絡みつく。これ以上触れるのが怖くて、手を引っ込めようとした。なのに、彼女は強引に私の手をピアノの上に留まらせた。
白鍵、白鍵、間を置いて、黒鍵。順番に、一つずつ押して、白黒の板が振動する。他人との触れ合いによる異物感と、好きな人との触れ合いによる緊張。こわばった私の手を、優美な手のひらが優しく、しかしがっしりと包み込んでいる。まるで、抱き締められているみたい。
きらきらとした音が、不器用に途切れ途切れにピアノからこぼれた。熱いリビングの空気に溶け込んで、そして、
「ねぇ、今日は返事をくれるんじゃないの?」
彼女は私の手を操りながら、平常時と変わらないトーンで言った。
「私に彼氏がいたら、どうする?」
何の狂いもなく、旋律が奏でられていく。
馬鹿にされている。
馬鹿にされている。もしかすると、最初から嵌められていたのかもしれない。ここまで来て、ようやく彼女の意図が見えてきた。普通の女子校の友達に対して、ここまでこの問題を引っ張る必要なんてない。素直に彼氏がいるかどうか答えればよいのだから。そうせずに、私に「どうするか」と聞く理由は――彼女はとっくに、私を友達のカテゴリから外したのだろう。
私は思い切り彼女の手を振り払った。演奏が止まる。
どうして今までできなかったのか不思議なくらい、彼女の手はか細く、弱々しくて、振り払うのは簡単だった。瞬間、彼女の呆気に取られた顔。その手を痛めてしまったかもしれないという罪悪感がある一方、やっと我を持てたことによる解放感が胸を這い上る。
「あんたに彼氏がいたらどうするかって、答えはとっくに知ってるんでしょう」
既に、彼女から見た私は友達ではなく、彼女に恋した人間だというのなら。
「明日からもう構ってこないで。赤の他人として祝福してあげるよ」
私は、彼女に手を差し伸べられる半年前の自分に戻るだけだ。
胃の底から笑いが込み上げてきた。負け惜しみかもしれないし、自嘲かもしれなかった。泣きたい訳がない。惜しむ訳もない。私は――そう、忘れていたが、私は皆が望んでいるような、完璧な人間として生きていきたいのだった。彼女の前で、ボロボロに、惨めに弄ばれて、それでも幸せな半年間を送った。初めて成績以外のことで人に褒められて、好きだと言ってもらえた。努力しなくたって、友達が私のことを好きでいてくれる。そんな夢を半年も見られたのだから、私はきっと、もう目覚めてもいい頃合いだった。
くるりと身を翻した。床はとても冷たかった。リビングの温度は涼しかった。外の世界も同じくらい涼しいだろうな。今更そんなどうでもいい情報ばかりが頭に入ってくる。邪魔、すごく邪魔。考えなくてもいい。独りでいるのは、慣れている。
「ねぇ、たったそれだけ?」
背後からあの人の声が響いてくる。
「例えば、私をあなたのものにする、って素敵だと思うの」
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