4 彼氏

 私はすんなりと状況を受け入れた方だと思う。

 今まで人を好きになったことがないので、前例と比較して今度の恋に戸惑うことはなかった。更に、彼女は私にとって初めてできた友達だった。元々輝いて見えた彼女に恋情を抱くことは、友達の延長線上にある出来事にすぎなかった。

 私は彼女とどうなろうとも思わなかったし、綺麗な彼女に対する憧れも潔白なままだった。もし彼女と離れることになったとき、私は友達として悲しむだろう。しかし、恋した相手だから惜しむ訳ではなかった。そういう意味で、この恋心は非常に淡くて、冷たくて、限りなく友情に近いものだった。私は彼女の言っていた通り、綺麗なものに弱いから、綺麗な彼女を慈しむ気持ちで見ていたいと感じただけ。

 高校を卒業したら、簡単に色褪せて消えてなくなるだろうと予想した。


 肌寒くなってきた十月の頃、携帯に一通のメッセージが届いた。

『Kくんが行きたいところならどこでもいいよ』

 メッセージの送信元は彼女だった。

 何度もチェックしたが、送信元が彼女で、宛先が私であることに間違いはなかった。私の指はせわしなく携帯の画面を滑るが、メッセージに前置きも続きもない。

 Kくんって誰だ? 彼氏、な訳がない。何の根拠もないけれど、彼女に彼氏がいる訳がなかった。となると、親戚か。確かに、一人暮らしの彼女を訪ねるために東京にやってきたとか、そんな理由かもしれない。

 そう、親戚かもしれないのだ。だとしたら、誤送信だと教えないと。「送信ミスだよ」と彼女に教えなければ。

 なのに、私の手は動かない。

 それもそんなはずだった。彼女に彼氏がいない方がおかしい。ただでさえ自分には恋愛経験がないのに、もしも彼女の言うKくんが彼氏なら、彼女に淡い思慕を寄せる私はどんな文章を打てばいい? 文章ではなく、声でなら。いや、しかしメッセージでも伝える勇気がないのだから、電話で話すなんてもってのほかだ。

 背筋に悪寒が走った。万が一彼女に彼氏がいて、綺麗なはずの彼女が既に彼氏のものとなっていたならば。駄目だ。そうであってはならない。彼女を手中に収めたいなんて身の程知らずな欲望は決して抱いていないが、彼氏だとすると話は別だ。彼女が男の所有物になることが、どうしても許せない。

 もしも本当に彼氏だと発覚したならば、私は彼女と友達でい続けられるだろうか? きっと無理だろう。それでも、今の関係を壊したくない。この感情がただのわがままであり、いずれ取捨選択をしなければならないと知っていても、私は信じたくなかった。生まれて初めて、誰かを本心から友達だと思い、その人から友達だと思われることができたのだ。彼女を失えば、私はまた、誰にも本当の自分を好いてもらえなくなるのではないか。

 真実が気になる一方、それを知ってしまうときっと私は後悔する。だから、結局、私は何事もなかったかのように振る舞うしかなかった。


 彼女との学校生活は概ね順調だった。成績は相変わらず学年十位内に維持できているし、高校生になってから始めた課題研究が外部発表会で評価されるようになった。彼女の方もいつも通り私に優しくしてくれて、私たちは良好な友達関係を築けていた。

「音楽を聴くと涙脆くなるタイプだから、泊まってくれた日はびっくりさせちゃってごめんね」

 彼女は思い出したように私に言う。

「そんなの気にしなくていいよ」

 私は笑顔を作って彼女に話すけれど、彼女の背後には常に男の影が見え隠れしていた。私は彼女に真実を問いただすことができない。隠し事をされる苦しみよりも、私にとって綺麗な彼女が砕け散ることが余程耐え難かったから。

 しかし、ある日の放課後、私はついに忌み嫌ったこの話題を自ら口にした。

 夕日が眩しく教室の机を照らす中、彼女はカバンを片づけていた。窓の外から吹き込む微風に揺らされる黒髪の先が、小粒の太陽を載せたように白い光を反射する。教室の扉を開けて真っ先にこの美しい光景が目に映り込んだが、私は違和感を抱いた。

「あんた、もう帰るの?」

 いつもなら、彼女は私の部活が終わるのを待ってから帰る。二人で帰りの支度をしてから、一緒に校門を出るのが日常風景になっていた。

「うん」

 彼女は少女のように目を細めて、照れた風に微笑んだ。いや、彼女はもちろん少女だが、ここで言いたいのは、彼女は青春の熱に浮かされた乙女の顔をしたということだ。常に気掛かりが心の片隅で蠢いていた私は無論、彼女を不審に思った。柔らかい声音が耳に入る。

「人と約束をしているの。だから、今日は早く行かなくちゃ」

「それって彼氏?」

 今まで堪えていたものが、あっけなく吐き出される瞬間だった。彼女は目を見開く。そんなことを聞くつもりはなかったのに。私は息を止める。どうして口を滑らせてしまったのかはよく分からない。覚悟が皆無な私は、自分から真実を受け止めに行く真似をしてしまった、なんていう事実を、やらかしたあとに自覚したのだ。実に憐れで滑稽だった。反射的に力を込めて、机の角で親指を押し潰す。指の腹に掛かる鈍い痛みに意識を集中させれば、彼女から受けるであろうダメージを誤魔化せるかもしれなかったから。

 私は至って真剣だった。それなのに、彼女の口角がニヤリと上がるのを瞳に捉える。

「そうだと言ったら、どうする?」

 この態度で質問を投げ掛けられてやっと、私は自分の立場を悟った。

 私はあくまで女子校の友達だった。

 本来なら、羨ましがって、祝福して、「今度紹介して」なんて騒ぐべき存在なんだ。

 喉に色々な言葉が突っ掛かって、出てこない。私から彼女までは机を何個か挟んだ距離であるはずなのに、崖と崖の間に飛び越えられない激流が走っている。今までの淡白な気持ちの上に原色の顔料が乱暴に擦りつけられて、粒の混じった汚い色が胸の中で煮え立っている。

 悔しい。何よりも悔しかった。私が心を許している相手にとって、私がたったそれだけであることが。とてもとても、悔しかった。

 彼女が大人なのがいけなかった。否、私が園児よりも浅はかだった、と言った方がいいだろう。仲のいい男の子に恋をしたと勘違いする園児は、まだつき合おうと頑張るのだが、私はそれさえもなかったんだ。雛鳥が歩くのを学んでいるとき、彼女はとっくに翼を広げて羽ばたこうとしている。私を置いて。どこか知らない男の元に。

 可哀想に。手を差し伸べた相手に何の理由もなく好かれて、何の理由もなく失望されて、可哀想。彼女は何一つ罪を犯していないのに、可哀想。

 私が身を引けばいいだけの話だった。何で、簡単にちぎれるはずの糸を、彼女に対する恋心を、手放すことがこんなに難しい?

 そうだ、彼女は純白でなきゃいけないんだ。それが他の色に汚れてしまうことが、私は許せないのだろう。

「彼氏か、そうじゃないのか。どっちなの?」

 長い沈黙のあと、私は尋問した。

 私の様子を見て何を思ったのか。彼女は瞬間、無表情に切り替わる。まるで、今までの優しさを全て顔から剥がしたような無表情だった。視線の槍は冷たくて、鋭い。私の脳を貫き、散乱した中身を見透かしている。しかし私はそれに怯えない。怯えるほどの余裕がなかったんだ。

「もし、彼氏だとしたら、あなたはどうするの?」

 彼女は冷酷に言い放った。

 彼氏だとしたら、どうしようもないじゃない。ただの女子校の友達に何ができると言うの。あんたをそこから奪えると言うの? 私はたったそれだけの人間。私が一番心を許しているあんたにさえ、彼氏のことを黙られていたくらい、たったそれだけ。

 もしもこんな心情を素直に伝えられたらよかったのに。

 返答できずに突っ立った私に、彼女は近づいてくる。色素の薄い手が、ポン、と素早く軽やかに私の肩の上に置かれた。

「あなたが恋人だったらよかったのにね」

 彼女は再びニヤリとした笑顔で冗談っぽく言ったあと、そのままカバンを持って教室の扉から去っていく。

 その飄々とした後ろ姿は、すぐさまバタンと閉まる扉に遮られた。

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