3 綺麗な彼女

 夏休みが明けて、二学期が始まったばかりの金曜日。

「うわぁ、すごい雨」

 学校のエントランス前、彼女は驚いて外の景色を見る。昨日までの穏やかな晴天が嘘のよう、灰色の層積雲から雨が滝のように流れていた。一歩踏み出すだけで全身にシャワーを浴びせられるだろう。激しく降り注ぐ針の隙間を埋める白いもやのせいで、周囲を見渡すことができない。

「あんた、傘持ってきてる?」

 私の問い掛けに対して、彼女は頭を振る。そして、きらきらした期待の眼差しを私に向けてきた。私なら傘を持っていると考えたのだろう。しかし、残念ながら私が先程彼女に質問をしたのは、まさに彼女に借りようとしたからであった。

 しばらくどうするか悩んだ。私は雨が止むまで学校で待とうと考えたが、天気予報によると今日はこれからずっと大雨らしい。今朝まで晴れだと言い張っていたから、信用してよいかは別として。

「提案があるんだけどね」

 二人で肩を並べて立っていると、彼女はふと口を開いた。

「私は家が学校のすぐ近くにあるから、うちまで走って、そこで雨が止むのを待たない?」

 初めて彼女がこの辺に住んでいると知った。そして、彼女が私に配慮していたことに気づく。彼女自身は簡単に帰ることができるが、学校まである程度の距離がある私に気を遣って、彼女の家で待機することを提案したのだ。それじゃ悪いよ、と私は慌てて断った。

「家族の方も突然人が来てびっくりするだろうし、それはバツが悪い」

「それに関しては大丈夫だよ、誰もいない」

 にっこりと笑い掛けられる。出張や旅行とかかな、と思考を巡らせていると、彼女は驚きの事実を口にした。

「私は一人暮らしなの」

 今まで噂でも聞いたことのない話だった。「えっ!」と大声を出してしまった私に、彼女は続ける。

「だから来てくれると嬉しいな。誰にも上がらせたことはないけれど、部屋は片づけたし、大丈夫だと思う」

 本当にいいのか確認すると、

「むしろ来てほしい」

 と彼女が言うので、私は好意に甘えて彼女の家で雨が降り止むのを待つことにした。学校指定のカバンを頭の上に被せながら、「せーの」と言ってダッシュを始める。ざあざあと雨の音が鳴り響く中、乱暴な土砂降りを二人で突き走って、薄い水の膜が張られたアスファルトの道路を無我夢中に駆けていった。それから泥だらけの近道を突っ切ると、バシッ、バシッと水が革靴に弾かれる。彼女は一瞬転びそうになったが、

「友達が来てくれるのが楽しみすぎてつい!」

 と声を張り上げて、また走り出した。


 駅の近くにそびえ立つガラス張りの青いビル。今は灰色の空を映して、くすんだ青になってしまっている。彼女がカードをセンサーに当てると、扉が開いた。

「めっちゃ高そうなところに住んでるね」

 高校生の一人暮らしと言えば安いマンションのイメージしかなかったので、彼女の言っていた家が学校のグラウンドから見える高層ビルだとは思わなかった。

「いや、色々あってね」

 彼女は苦笑した。びしょ濡れになった私たちは、茶色のソファが並ぶラウンジを素早く通り抜けて、エレベーターの中に入った。彼女は三階を押した。さすがに最上階ではないことに、変な安堵を覚える。

 エレベーターの中、彼女は後ろに向いて、鏡を見ながら髪と服装を整えていた。制服のシャツから白いインナーが透けて見える。その上に掛かる彼女の黒髪はしっとりとしていて、艶やかだ。水滴が彼女の首を伝って滑り落ちると、そのまま彼女の身体にべとべとと張りついたシャツに染み込んでいく。床に水たまりが広がった。雨特有の、泥と草の生臭さが混じった苦い匂いが鼻につく。

「濡らしてしまって、迷惑掛けちゃうね」

 彼女はエレベーターの床を指差した。

「そうだね」

 私は鏡をぼうと見つめながら返事をした。


 彼女の家は高校生が一人で暮らすぶんには広すぎた。三つの部屋があり、それぞれにダブルベッドが配置されている。リビングもとてつもなく広かった。一面のガラス窓から外の景色が見える。三階だから、町全体を見渡せる訳ではないが、それでも立派な窓だった。

 それに比べ、内装は非常に質素である。生活の痕跡が見えない、と表現すべきだろうか。リビングには食卓、椅子、ソファと一台のピアノしかない。食卓の上には氷水の入ったピッチャーのみが無造作に置かれていた。

 私と彼女は順番でシャワーを浴びた。制服が濡れてしまったので、彼女のTシャツとショートパンツを借りて着替えると、

「ラフな格好をするなんて珍しいね」

 と彼女がにやにや笑う。何だか照れ臭くなる。

 私たちは金曜日の夜にありがちな休日気分に心を任せて、ソファの上に寝転がりながら学校の噂話や恋バナに花を咲かせた。その間、携帯で好きな音楽を流して聴かせ合った。彼女が懐かしい歌ばかり流すのは意外だった。華やかなグループに所属していたものだから、てっきり韓国のアイドルソングあたりが好きなのかなと推測していたからだ。

「懐メロって聴くだけで昔に戻れた感じがしない?」

 ソファの上で仰向けになっている彼女は、天井をじっと見つめている。もしくは、天井よりずっと遠いところを見ているかもしれない。私は頷いた。どうせ彼女の視線がこっちにはないけれど。

 しばらく二人で黙って音楽に耳を傾けていると、突如彼女は起き上がる。

「そういえば、ピアノ弾ける?」

 彼女が顔を覗き込んでくるので、私は肩をすくめた。

「小さい頃に習った程度だよ。あんたは弾けるの? あ、そこに置いてあるから弾けるか」

「私も子どものときに習ったくらいだよ」

 彼女はピアノを注視しながら続けた。

「途中でレッスン辞めたから、その後は独学だけれど」

「へえ、弾くのが好きなんだね」

 私が返事すると、彼女はひょいとソファを下りた。そのままピアノの方に歩いていく。私も後に続いた。

 漆黒の屋根は滑らかなフォルムを描いていた。彼女が蓋を取ると、照りのある白黒の鍵盤がずらりと並ぶ。ふと、ピアノの上に小さな賞状額が置かれているのを発見した。私は思わず声を上げてしまった。

「都大会優勝じゃない!」

 そんな私の驚き具合とは対照的に、彼女は賞状に目をやらず平然とした顔で話す。

「子どもの頃の話だし、私より上手な人はゴロゴロいるよ」

 謙遜しているというよりも、彼女は本当に関心がなさそうな口調で話した。

 なぜこれほどの腕があったのにも関わらず、レッスンを辞めたのだろう。不思議に思ったが、彼女が深呼吸をして鍵盤を押し出すとたん、私はそれどころではなくなった。

 彼女の奏でる音色は綺麗だった。その白く細い指が鍵盤の上で舞い遊ぶだけで、透明の、澄んだ、星空を浮かべる夜の池を思わせる幻想的な音色を紡ぎ出す。明るく幸せな夢物語を語る旋律。まるで終わりの訪れない幸せのよう。蝶の舞う庭園の幻が私の前に広がっていた。色の抜けた揚羽蝶たちが海の向こう側にまで羽ばたいていく。

 しかし、一つ一つの音符はガラス細工よりも脆くて、触れたら即座に粉々に散っていきそうな危うさをも伴っていた。私は待った。

 やはり、夢にピリオドを打つ一点の高音が響き、静寂。

 彼女の手は止まった。私はじっとその手を見つめた。微かに震えている。それは気のせいかもしれないし、真実かもしれなかった。

 そうして、ようやく、悲しくもこの曲の主旋律が始まる。庭園の蝶たちが朽ちて、乾いた破片になって、地に散乱していった。

「夜想曲」

 演奏に割って入るしかなかった。

「ショパンの遺作でしょ? 何で始まりを飛ばしたの」

 私は図らずも強い語気で問い掛けた。胸に刃物がかすった痛みを覚える。私は怒っているのか? わざわざ「これは悲しい曲だ」という前置きを省いて快活な部分だけを取り出した彼女に、怒っているのか? そうかもしれない。だって、悲しい主旋律に入ったら、今までの明るく幸せなパートが否定されるみたいで、怖くなるから。

 私は彼女の回答を待った。そして彼女は振り返った。この瞬間、私の思考は止まった。

 奏でる音色に劣らずに澄んだ彼女の瞳――その瞳に浮かべる透明の涙が、とても、とても綺麗だった。

 彼女は綺麗だ。とんでもなく綺麗だ。その綺麗さで私は、道を踏み外してもいいと思った。

「ねぇ、今日は泊まってよ」

 その濡れた声が歪なほどにねっとりと鼓膜にこびりついて、私は立ちすくむ。守ってあげたい。抱き締めたい。頬に触れたい。涙を拭い去りたい。いや、もっと単純なことで――綺麗な彼女をずっと見ていたい。

 体の芯から力がすっと奪われ、しかし骨の髄から熱が浮かび上がったような気がする。私は彼女の泣き顔に見惚れた。そう自覚したとき、自ずと声が唇からこぼれていた。

「うん」

 私の表情はどう彼女の目に映ったのだろうか。ピアノ椅子を後ろに引いて、彼女は立ち上がる。

「ふふ、ありがとう」

 目を細めて笑った彼女の頬を、一筋の涙が跡を作りながら流れ落ちた。

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