6 変わらなければ

 何が起きた?

 目の前には彼女がいて、おかしなことを言い放っている。

「あなたは私のことをどうしたい?」

 彼女はピアノ椅子に腰掛けている。確かに、先程まで私たちは連弾をして、そして半年間が終わろうとしていた。

「私の考えはもう言ったから、あなたがどう思うのかも聞かせてほしいの」

 彼女の考えとは、何だ?

 ――例えば、私をあなたのものにする、って素敵だと思うの。

 何を意味している? 彼女を私のものにする、とは何を意味している? もしも、彼女に彼氏がいたとしても、彼女を私のものにするって。冗談じゃない。私に、横取りをしろ、と告げているのか?

 彼女の鋭い視線が一本の矢となって私を射抜く。それを前に、無力な私の気持ちや弱みが無様に暴かれる。どうしても彼女に返すべき言葉が見つからない。だから、私はそれを見つけるのを放棄した。

「私はあんたのことが好きだよ」

 私の笑い方はきっと軽薄そうに見えるだろう。

「そりゃ、あんたに彼氏がいたとしても好きだし、できれば横取りして自分のものにしたいと思うよ」

 さらりと最低の発言をしたあと、私は再びリビングを出ようと回転した。視界に入るのは、暗い廊下。

「だったら、私とつき合おうよ」

 突如に振り返った私が見たのは、素知らぬ顔でピアノに視点を定める彼女の姿だった。

 彼女は右手の指で白鍵を一つ鳴らした。そのまま指の位置をずらして、一つずつ鳴らしていく。きらきら星の単純な音符たちが、響いたり消えたりして、何事もなかったかのようにちぐはぐなメロディを紡ぎ出した。

 私は振り向いて、ぼうとピアノを遊ぶ細長い指を眺めた。彼女は私のことなどお構いなしに白鍵を押していく。

「鈍感だけど、優しい人ね」

 そして、彼女は左手をピアノの上に乗せ、壮大な変奏曲を奏で始めた。

 信じられない。誤解だ。その意味を振り返らなければ。つき合おうとはどういう意味なんだ。答えられるはずもない様々な疑問が意味もなく浮かび上がり、頭がついていけない。しかし、そんなことよりもずっとずっと大切なことがある。根源的な気持ちがほとばしって、脈動が加速して、呼吸が苦しい。まるで何重もの罠に自ら踏み入るように――しかしそうせずにはいられなくて、私はピアノの方へ走って、演奏している途中の彼女の両手を取った。

 楽曲が一時停止する。

「私とつき合ってくれるの?」

 相変わらず華奢な腕をこんなにも力を込めて握った。

「うん。やっと言ってくれたのね」

 彼女は首を傾げて笑った。その笑顔は太陽よりも眩しかった。私を初めて陽だまりに連れ出した彼女は、やはり私を照らしていてくれた。彼女がずっと私に伝えようとしていたことを悟った瞬間、張り詰めた全身の筋肉が一気に解放される痛快さを覚える。

 始めから、全ては優しい嘘だったんだ。彼女には彼氏がいなくて、口にしていた仮定の話は私に勇気を出させることが目的だ。彼女のか細い腕も今や、私のものとなる。信じられない。私はまだ、幸せな夢を見ていいのだろうか。神様が私の眠りを許してくれたんだ、私は一生ここから目覚めたくない。

「手、繋いだりしてもいいの?」

 私は本当に恋人になったことを確認したくて、イメージしていた恋人ならではの動作を早速口に出してしまった。

「私にしてほしいことは何でもしてあげるよ」

 彼女は、ほら、と言って、手のひらを見せる。私はその上に彼女よりも焼けた自分の手を重ねてみた。彼女は私の髪に触れる。たおやかに、慈しむように。

「何か、私にしてほしいことはない?」

 自分も何かしらの方法で彼女に貢献したくて、質問する。彼女が私にしてほしいことを何でもしてあげたいと考えた。そして、自惚れていながらも、私にはきっとできるのだと考えた。私はたっぷりと幸せな気持ちに浸っていたのだと思う。何しろ、好きな人とつき合うことも初めての経験だ。その全能感に捕らわれて、自分の力を過大評価してしまっていた。

 しかし、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「あなたがしたいことだけでいいの」

 そして、その目を夜に沈んだ外の世界に向けて、それっきり。

 まるで夜想曲を奏でたあの夜のように、彼女の表情は曇った。黒く長い睫毛を伏せて、笑っていた唇が凍りついた。どうして彼女はこんな顔をする。幸せの真っ只中で浮かれていた私はこの瞬間、彼女との温度差を思い知った。彼女は残酷にも、私の全能感を一気に挫いたのだ。

 そうしてやっと冷静になった私は、彼女に必要とされないことがとても怖くなった。

「ねぇ」

 私は彼女の腕に触れた。しかし、彼女は動じない。私は一人取り残されたような気分になった。彼女は窓の外を見つめている。町よりもずっと遠い場所かもしれない。その場所にあるのは、私から彼女の温もりを奪い去るほどに恐ろしいものだと、根拠なしにそう思えてしまう。そこでは私は無力だ。何しろ彼女の目を捕らえているあそこがどこなのか、私にはそれさえも分からないのだから。

 私が幸せな夢に浸るためには、彼女をあの場所から連れ出さなければならないと思った。彼女が私のことを頼りにできるように、私のことを見ていてくれるように。

 私は彼女が見てくれるような私でありたい。

 だから、私は変わらなければいけない。


 家に帰って、真っ先にクローゼットを開けた。ワンピース、スカート、カーディガン。パステルカラーのもの、花柄のもの、リボンのついたもの。全部取り出して、床の上に放り投げた。そうすると残りはジーンズやモノクロのシャツくらいしかない。これでいい。

 急いで浴室に向かった。正面に設置された大きな鏡に向かって、制服のシャツとスカートを脱いだ。鏡は私の全てを生々しく映し出す。深呼吸をした。そして、洗濯カゴに入ったジーンズを拾い上げて足を通し、質素な黒Tシャツに腕を通した。鏡を介して向き合っているのは、同じ顔をした自分だけれど――同じ顔をした自分だが、私は今から別人として生きていく。

 目を閉じて思い出す。彼女の言葉。確かに、彼女を私のものにすることは素敵なことだ。彼女の手のひらの温度。重ねられた私の手。夜の世界を眺める、まるで中身が空っぽになったような彼女の顔。

 浴室から出た私は、

「私だ」

 目を閉じて、自分に暗示を掛けた。

 バッグを取って、家族に一言も言わずにドアへ向かう。玄関を踏み越えた瞬間、私は初めて外の世界に身を潜めた。

 電車に乗って向かった先、そこは混迷たる夜の街だった。何種もの蛍光灯が乱雑に光を放つ、華やかで無秩序な場所。私はこの光景の一切れにすぎない。ただの通り掛かりの人間だ。

 足を速めて汚れた街を進むと、何分前かにインターネット検索で知ったヘアサロンの看板を見つけた。空き缶が転がる狭い階段を上る。手すりに捕まらず、軽々と上の階にまで歩いていく。

 予約なしでヘアサロンに入ったが、さすが繁華街、先程と一転して目の前に広がる清潔的な空間には、数多くの空き席が並んでいた。早速案内されて、中の一つに腰掛ける。美容師が私のオーダーを聞いてきた。

「ショートで」

 私は微笑を浮かべた。

「サッパリ切りたいんです」


 美容室を去ろうとして、レジカウンターのとなりに配置された全身鏡の側を通る。一瞬だけ切り取られた人影は、感情ががらりと抜けたような冷たい姿をしていた。そう、これでいい。

 恋は人を狂わせる。

 いいえ、私は踏み違えてなどいない。これは正しい道だ。私は、皆にとって完璧な人間として生きていきたかったが、その皆が彼女に置き換えられただけだ。私は、彼女にとって完璧な人間として生きていきたい。そうすれば、彼女は私を見ていてくれる。根本的な私の生き方は何一つ変わっていない。

 この私なら、うまくやれるはずだ。

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