7 相合傘

 冷たい朝。雨が無情にガラスの掃き出し窓を打っている。ポタポタと鳴り響いている。肌寒さに構わず、私はそばに置かれたシャツをさっと羽織り、ベッドから降りた。彼女はまだ寝ている。分厚い白の毛布が彼女の腹部までを覆っているが、それを首まで入るように掛け直した。彼女の、申し訳程度に肉がついた脆弱な身体が、そのまま私の目前にさらけ出されて、息を飲む。このまま眺めていたいと思った。やはりどんなに傷をつけられようと、彼女はどんな芸術品よりも綺麗だ。

 私はとっくの昔から道を踏み外していた。朝になれば、私は客観的に私の所為に向き合えるが、受け入れるには耐え難いのだ。私の欲望はどろどろだ。私が信じていた綺麗な愛の行く末がこれならば、あの夜の約束をできるだけ早く果たすべきなのだろう。

 ああ、机の上にカッターナイフが無造作に置かれている。このラインだけは守ることができた。しかし、この触れたら即座に崩れそうな柵を、私は軽々と乗り越えてしまうだろう。

 じきに約束のときが来る。私はそう予感していた。それでも、凄惨で儚く美しいあの結末を、私は到底受け入れることができない。私は彼女との生活をこの手で終わらせたくない、終わらせる勇気なんてない。いつまでも、彼女との永遠は続かなければならないのだ。今の私は幸せだ。彼女と一緒にいられるだけでとても幸せだ。私が破壊しなければ、この幸せは続く。続くはずなんだ。

 リビングまで歩いて、トーストを何枚か取り出して焼く。いちごのジャムを冷蔵庫から取り出して、考えた。理知的にこの問題を解決しよう。私と彼女の幸せが、ずっと続きますように。


 私は打ち明けることに決めました。生来自信も才能もないくせに、プライドだけが無闇に高い私にとって、これはどうしても踏み切れない一歩であった。私は病院にアポイントメントを取った。彼女のことだけを隠して、自分の異常性を打ち明けるつもりだ。

 午前の講義中、ひたすらに胃がじんじん疼き、脳が回らない。普段すっと頭に入るような内容も、理解するのに時間が掛かった。私はきっと立ち向かうことを恐れているのだろう。彼女を愛する私がまた否定されることを。私の足掻きが無駄に終わることを。もしあの結末を迎える運命にあるとしたら、彼女の手を取ったことは本当に正解だったのだろうか。

 違う。私は後悔していない。私は何も失わない。私と彼女の幸せは、永遠に。その永遠のためならば、私はプライドをへし折ってでも自分を変えるまでだ。

 講義が終わると、私は普段のように教授のところへは行かずに、まっすぐ家に向かった。傘を差す。校門から出て右に曲がり、濡れた紅葉を踏みながら地下鉄へ進む。若い学生のカップルが相合傘の中で、談笑しながら反対方向に通っていった。馬鹿馬鹿しい、と思った。しかしすぐに羨ましい、とも思った、いいえ、私とは関係がない。そう呟いた。

 振り返る。既に彼らは信号の向こう側へ行ってしまったが、ピンク色の傘の下にある、彼らの背中と組まれた腕をしばらく眺めた。自分の胸の奥を覗いてみた。どす黒い感情が煮え返っているはずなのに、心を蝕むそんな感情が見当たらない。既に麻痺しているような気がして、肩が下がった。

 最寄り駅に到着したら、まずは商店街にある小さなカフェでホットのカフェラテを買って、気分を持ち直そうとした。昨日のお詫びの意味合いも込めて、彼女にはホワイトチョコが散りばめられたココナッツクッキーと、ホワイトモカを持ち帰ろう。

「サイズはどうしますか?」

 店員は営業スマイルで聞いてきた。私は財布の中身を見てから、注文する。

「カフェラテはショートで。ホワイトモカは一番大きいので」

 紙幣二枚を取り出す。店員はドリンクを作り始めた。ビジネスマンと主婦たちの間に立って、作り終わるのを待った。ビジネスマンは携帯に指を滑らせ、主婦たちは息子の世間話をしているようだ。何の変哲もない日常の中にいる自分を、異物のように感じる。

「ご注文のお飲み物でございます」

 私の番となり、店員から袋を渡された際に指が触れて、反射的に手を引っ込めた。袋が落ちそうになったが、店員は慌てて受け止めた。そうして私を一瞥したあと、背中を私に向けて、また次の仕事に取り組み始める。

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