6 涙

 どう家にたどり着いたかは覚えていない。ただ家のドアを閉めるや否や、彼女のネックレスを取り上げ、セーターを剥ぎ取って、その体に歯形を刻んでいった。彼女の身体から、優しいバニラの香りがする。切ない香りだ。

 呼吸が苦しい。どうやら私は今、息切れが激しいみたいだ。彼女は赤子を抱くように私を抱き締めながら、

「ちょっと待って」

 と珍しく私を制止した。

「ゆっくり息を吸って」

 彼女の声がする。生理的な苦しさで目に涙が溜まっていて、彼女の姿が朧げにしか見えない。幼い頃も、喘息を引き起こすたびにこうなっていた。喉の震えを無理やり抑えながら深呼吸をする。頭が冷えてきた。紙袋から転がり出た容器から、ホワイトモカが無様に流れ出ているのが見えた。彼女の腕と肩に爪痕がずしりと重なっている。私の右手は彼女の頬をキツく握っている。そして、左手は下着越しに彼女の胸を掴んでいた。

 一年前の私は、こんな自分になるなんて想像もつかなかっただろう。恐怖と優しさが入り混じった彼女の表情が、鮮やかに私の心を捕らえている。私はとても怯えている。はやる破壊衝動が私の喉を脈打たせていて、それを抑えようとしても、いや、するほどに、体に電気のような刺激が走って、手足が勝手に動いてしまうのだ。

 綺麗なものを壊すのはすごく気持ちいい。

 早く部屋に行って、と辛うじて声を絞り出した。何歩か歩き出してから、彼女は不安そうに振り向いて私を見たが、私の言葉には従ってくれた。私は壁を支柱にふらふらとリビングに向かって歩いた。着くと心のままに、机から昨日のカッターナイフを拾い上げた。ティッシュペーパーを一枚引き出して、無我夢中でそれをナイフでバラバラに分解した。やはり壊せば、脳内がどんどん白くなる。無垢な彼女の肉体を引き裂いている自分を想像した。ゾクゾクした。強烈な快感が脳を蝕んだ。

 二枚目、三枚目とティッシュを次々と引っ張り出しては、カッターナイフで粉々になるまで引き裂いた。当然ながら、机にも刃の痕が次々と切り込まれていく。

 ああ、やっと落ち着いてきた。机に両手をついて、涙がポロポロと粉々のティッシュに染みを作っていると気がつく。息が苦しくて涙が出たのだろうか、それとも別の理由があるのか。この際、奨学金の件には大した悲しみを感じない。それはただの、私を駆り立てるトリガーにすぎないようだ。私は何が不安で、何に怯えている? それすらも分からない。大丈夫だ、私は何も失わないし、全てが順調だ。そう自分に言い聞かせているのに、失うことが怖くて仕方がない。

 未来のこと、優秀であること、彼女のこと、あの夜のこと。私は勝手に様々なことを自分の背中に乗せては、倒れてそれらをバラバラに落とす寸前の自分に絶望の念を感じずにはいられない。はっきり言って、無能な私はもう努力することに疲れてしまって、信じようとした永遠さえも見失いそうになるのだ。

 目頭が熱くなって、無様に転がり落ちた大粒の涙が、今度こそ本当に泣いてしまったことを意味している。こんなふざけた顔を彼女に見せたくない。袖で粗暴に目を拭いても、しかし、止まってくれそうにない。この際何が悲しいのかさえ分からない。どうすれば涙を抑えられるだろうか。私は最低だ。涙を落としながら、ダサいな、と笑いが出た。

 私はキッチンの雑巾を取って、机のティッシュを拭いた。そして、青紫色の指先でゆっくりと蛇口を回して冷えた水を顔に掛けた。手が凍えている。うまく動かせない。

 しばらくリビングの暗闇の中に佇んだ。顔色がましになるのを待って。

 今までの人生は努力すればどんなことでもできたが、今度は何を努力すれば楽になれるのかも分からない。私は何に震えている、何に怯えているんだ。彼女を閉じ込めたことか、彼女に暴力を振るったことか。それとも、彼女の人生そのものを背負ってしまったことか。いいや、私の人生そのものが怖くなったのかもしれない。

 やっと顔がましになってきた。部屋のドアをノックして、中に入る。彼女は真っ白なネグリジェに着替えていた。ワンピース型の寝間着から覗く彼女のきめ細やかな肌に、一瞬にして目を奪われて、全てを忘れたような感覚になる。やはり彼女は綺麗だ。とんでもなく綺麗だ。その綺麗さで私は、引き返せるかもしれない。

「ねえ、聞きたい、君なら分かるでしょう。どうすればいいの?」

 まるであの頃の私に戻ったような弱々しい語気で、私は彼女に問い掛けた。

 彼女は目を細めて、私をじっと見つめた。私は最後の望みを彼女に掛けた。彼女は建設的な意見を出せる、私たちの幸せ、末永く幸せであるために。

 彼女はただじっと私を見つめた。それでも私の信頼は揺らがない。私は彼女の返事を待った。私を立て直す、その第一歩を。

 まるで桜の花弁のような彼女の唇がゆっくりと開いた。血が滲み出ながら。

「壊したかったら、壊せばいい」

 彼女は何よりも綺麗な笑顔で、あの日と同じ言葉を私に掛けました。同時に、私が正気でいる理由をバラバラにねじり落としてしまったのです。

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