5 理性
レストランを出て、家の反対方向に向かう。
「お腹いっぱいだー」
彼女は幸せそうにお腹を撫でた。肝心なお腹はどうもいっぱいには見えないが。ごく当たり前のように私の黒コートを羽織った彼女は、自然な微笑みを頬に浮かべていた。
ふと、この瞬間はきっと人生で一番幸せな瞬間なんだろう、と思う。
彼女はまたステップを踏み出した。商店街の駅から離れるのにつれて、すれ違う人影も少なくなっていく。自由な彼女は深く息を吸う。夜の空気は静かで、澄んでいる。
せめて誰もいない今なら。
私は彼女の細く、簡単に折れそうな手を取った。拠り所を見つけた彼女の指は、いっときも離さないと言わんばかりに絡みついてくる。
「後悔しないのか?」
私はぽつりと呟いた。
「どうして?」
彼女は不意を突かれたように、怪訝そうな表情で聞く。私こそが、どうして私を気持ち悪い、怖い人だと感じないのか不思議だ。私は答えない。答えられない。唇を噛み締めた。そして、彼女の手を引いて、無言で前に進んでいった。
しばらく歩いているうちに、灯火が美しい坂の曲がり角に佇むカフェに到着した。中は本屋と結合していて、立ち読み客でいっぱいだ。私は彼女の手をそっと離した。
「今日は雑誌の発売日だ」
彼女に告げる。こんな私でも、趣味の一つや二つはある。ヴィラや豪邸を紹介する雑誌を読むのが好き。住居と景色が美しく融合していて、別の世界に行ったような気分になる。高校時代には、しきりに彼女に雑誌を見せたものだ。
私は海が表紙を飾る新刊を棚から取って、ページをざっと見通した。彼女はひょこっと首を出して覗いてくる。
「海は好き?」
彼女は昔みたいに質問を投げ掛けた。
「好きだけど、嫌い」
私は答える。どんなに海に憧れても、海の中に飛び込んだとしても、完全には自由になり切れない――自分の現状と照らし合わせて、そう思わざるを得なかった。
今度は一ページずつ紙をめくる。南の島の海辺に立つプールつきの別荘を見つけて、彼女は感嘆の声を漏らした。
「こんなところに住みたいね」
彼女は私を見上げた。
「将来買ってきてあげるよ」
と私は答えた。そんな将来があったら、とつけ加える。
「永遠はないよ」
彼女は悲しそうな表情で私を見た。そのうち、瞳が潤んでいく。私は彼女を落ち込ませたことをすぐに後悔した。
私は助けてあげたい。永遠があると信じさせてあげたい。たとえそれが事実ではなくても、永遠があって、私たちはずっと幸せに暮らしていけると信じさせてあげたい。そうすれば、彼女は楽になれる。そして、あの夜に交わした約束の結末を、覆すことができるかもしれない。
だけれど、永遠なんてないのだから、私の最も得意とする弁舌は何の役にも立たないし、彼女に希望の光を見せることもできなかった。
「せっかくカフェに来たんだ」
私は話題を変えることにした。
「君は何か飲みたいものがあるか?」
彼女の表情は明るくなった。メニューのホワイトモカを指差して、きらきらと目を輝かせる。よかった、これで何とか彼女の気分を持ち直せる。早速カウンターでホワイトモカを二杯注文して、持ち帰ることにした。
私が列に並ぶ間、ドアの側、黒い外套の中に乳色のセーターを着た彼女が夜空を背景に佇んでいる。どんなに美しい光景なんだろう。遠くに立っていても、しおらしい彼女の立ち姿は私の目を捕らえて、掴んで離さない。
ホワイトモカを買った私は、すぐさま彼女へ駆け寄って、その小さな両手に飲み物を渡した。彼女は一口啜ったが、熱すぎるのか、びっくりして唇を離す。その反応が面白くて、思わず笑いをこぼしてしまいそうになる。彼女は照れ臭そうにほっぺたをさくらんぼ色に染めた。
カフェの扉を押し開けて、二人は夜の暗闇に再び身を潜めた。非情な冷たい空気に攫われた彼女は、コーヒーをしきりに啜っては、私の側に身を寄せようとする。
そういえば、と私は歩き出す前に携帯を取り出す。
「さっきメールを受信していたみたいだ、ちょっと待っていてくれる?」
彼女はうんと答えた。
メールは何件か来ていた。迷惑メールや広告の中に、今日褒めてくれた教授からのメールが混じっていた。それを開く。
ああ、妙に納得した。簡単に言えば、公正なる選考の結果、今度の奨学金を私に与えない、というメールだった。誠に残念ながらも、あなたではないのだ。そういう話だった。
私は歯を食いしばった。よくある話だ。携帯を閉じる。そう、私は最初からこれを予算に入れてもいないし、これによって傷つくこともないのだ。となりの彼女が心配そうに私を見ている。表情がこわばっているのだろうか?
「ごめん」
彼女に謝った。
「やっぱり私は君にはなれないみたいだよ」
彼女に聞こえないくらいの小声で囁いたら、胸の中で、何かがぱちっと切れたような気がした。
彼女はそっと手を私の腕に置いたが、私は先程の私とは別人かのように彼女の手を乱暴に握って、そして、この勢いのままもう片手を彼女の背中に回して彼女の唇を噛んだ。彼女はまるで狙い定められた獲物のように小刻みに震えているが、私は何も考えられず、ただ夢中に彼女の口に舌を入れようとした。
それでも一切れの良識がまだ私の中に存在していたのか、ふとここが公共の場であることが脳裏を過った。私の理性が辛うじて彼女と自分を離す。
「ほしい」
俯いて彼女に言った。私は彼女の表情を見るのがとてつもなく怖い。
無力な手で、彼女は恐る恐る私の背中を撫でた。呼吸が早くなる。私はできる限り無事そうに振る舞うように努めたが、もはや自らを制御できないことに恐怖を覚える。
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