8 永遠
家の前に立って、私は深呼吸をした。ドアを押して、静かな玄関に足を踏み出す。電気がついていないリビング。ガラス窓のとなり、彼女はソファの上で眠りについていた。
私はキッチンから皿を一つ取り出し、食卓に置く。その上にカフェで買ったココナッツクッキーを乗せたあと、ソファの方に目をやり、彼女に近寄った。
私の足音が彼女の眠りを妨げたようだ。目を擦って、彼女は横に立つ私を見つける。私は彼女と同じ目線になるようしゃがんだ。その艶やかな髪を軽く手ぐしで梳かしていると、彼女は大切そうに私の手を持ち上げて、自分の頬に当てた。
「あったかいね」
そう言って、私に向かってくすっと笑った。
私が飲み物とクッキーを買ってきたと伝えると、彼女は起き上がって、私の腕にぎゅっと抱きつく。
「ありがとう」
頬を私の腕に擦り寄せた。恥ずかしい、と私は呟く。
「恥ずかしいと思う点がいちいち分からないなぁ」
私自身もよく分からない。ただ、彼女からの素直な愛を感じる瞬間には、慣れなくて、ドキドキする。
「これから出掛けるから、待っていてくれる?」
私は立ち上がって、リビングのドアの方まで歩く。彼女は首を傾げながら、ひょこひょことついてくる。
「どこに行くの?」
これには答えられないので、無言で出ていこうとした。その瞬間、彼女は私の袖を掴んで、ねぇ、と私を呼び止める。
「隠し事はされたくないの」
少し寂しそうな表情をされて、外に踏み出そうとした足が止まる。そうだな、と私は壁に向かって軽い口調で呟いた。
「彼女を殴ったり傷つけたりする悪いやつを見つけたから、警察さんにその首を差し出しに行くよ」
棒読みで虚空に話し掛けた。何秒か経って、本当は――と、振り向いて言い掛けたが、彼女は目に涙をいっぱいに溜めて、やめてっ、と叫ぶ。いつも冷静な彼女が珍しく感情的になったことに、ただただ驚いた。そして、驚くよりも先に弁解すべきだと気づいて、慌てて彼女に病院のことを打ち明ける。
彼女の睫に涙粒の滴る様子は、まるで朝露が若葉の上から滑り落ちるようだった。度を越した自嘲を悔やむ。まだ優しい側面を持っている私は、彼女を抱き寄せた。黒絹のような髪に指を潜らせながら、ごめんね、と謝る。
私の謝罪を聞いた彼女は、まず私の手に自身の小さな、白い手を重ねた。次に、私の手を握り締めた。そして――そのまま、私の手で、彼女の頬を力強くぶったのです。
身体に記憶していた電気ショックが通される。刹那に、全身の血が脳に昇ったような恍惚感が直撃する。その瞬間だけを切り取った、美しい絵画を見たような気がする。
「何をしている!」
すぐさま手を引っ込めて、怒鳴った。彼女は片手で赤く腫れた頬に触れながら、潤んだ瞳で私を見上げる。私の荒れた息を塞ぐように、かかとを上げて深く口を埋め込んでくる。彼女の唇が熱くて、クラクラする。腰が抜けて、床に座り込んだ。彼女は立ったまま、床に両手をついて必死に息をする私を見つめる。口を閉じることさえもできず、よだれが無様に床に落ちていった。
「ぶつの、気持ちいいでしょう?」
彼女の優しい声が響く。私の視線は、ただ床面に注がれている。
「私はどんなあなたでも受け入れる。永遠なんてないのだから、この瞬間が幸せであればいいでしょう?」
私は未だに震えている。彼女は憐れんだ目で私を見ている。どうせあなたはこの程度の人間だ、と言っているようなものだ。私が無様だから! 憎い。愛おしい。憎い。愛おしい。彼女は遥か届かないところにいて、私は結局彼女の下でもがいているのだ。そうだ、結局道を選ぶのは彼女で、私は、始めから! 始めから、どう足掻いても、彼女に永遠を信じさせることができなかった。彼女との幸せ、末永く幸せであることを、始めから。恋人を幸せにして、ずっと一緒に暮らしていけるという、幼い頃から自分が嘲笑ってきた儚い夢を、彼女に信じさせることができなかった。
「君はいつも! いつもいつもそうやって私を見下している! あの夜は全部間違っていたんだ! 私は君と永遠に幸せに生きていたい、君を幸せにしたい、海辺の別荘でも何でも買ってあげたい!」
今までの想いが胸の奥からほとばしり、私は泣き出した。醜悪な泣き声に煩わしい息が混じる。涙がポロポロ床に弾けて、塵と溶け合わさった。私はもはや私に向かって叫んでいた。
「私は永遠を信じる! 君には私の代わりがたくさんいる! でも私は君が好きだ、ずっと一緒にいたい、もっとたくさん色んな場所に行きたい! 永遠はある、変わらない愛もある、私と君は末永く幸せに暮らしていける!」
彼女がどんな顔をしているのかが分からない。ただ、いつもの手の感触が、私の背中を優しく撫でているのを感じた。私の、喉から絞り出されるような気持ち悪い泣き声が、リビング中を響いた。私は彼女を傷つけたくなんてなかった、彼女の言う永遠なんて信じたくなかった、彼女をずっとずっと幸せにしたかった。私は、どん底にまで堕落した自分なんて嫌だ。本当は、手を繋いで道を歩いたり、何でもないことを言ってはからかい合ったりする、どこにでもいるようなカップルが羨ましくて仕方がない。どうして彼女はそんな愛を、そんなどこにでもある永遠を受け入れない。おとぎ話のような、純粋で綺麗な夢を。
彼女はそっと、私を撫でていた手を下ろしました。
「私は永遠が信じられないから、あなたの言っている幸せも信じられない。人間は必ず裏切る。私は決して誰をも信用しない。あなたも、私も。幸せがあれば必ず、不幸せがやってくる。だから、私たちがずっと一緒にいる方法は、不幸せがやってくる前に死ぬことでしょう?」
彼女の論理には全く賛同できない。しかし、これの裏づけが彼女の人生だということを知っている。彼女は容易にこの考えを変えることはないし、私との幸せを信じてくれることもない。
「私はあなたの言う永遠が、とても羨ましいの。海辺の家に、本当は住んでみたいの。私は本当に、あなたのことだけが大好きなの。でも、私はあなたの言う永遠が信じられない。大好きであるほど、それを失った瞬間の気持ちが、耐えられないの」
床にポタポタと、透明の涙が水晶玉のようにこぼれ落ちた。彼女の目から、柔らかな光を纏った水が溢れていく。私の手の上に、彼女はひんやりとした手を重ねた。そして、か弱い声で、囁く。
「変わらないで。ずっと私といてくれるんでしょう?」
私は呆然と彼女の泣き顔を眺めた。最後に、私は小さく頷いた。
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