2 音信不通

 紅葉が焚き火のようにパラパラと音を立てて、道路に落ちていった。ふいに強い風が吹き、細かい砂と枯れた葉の破片が顔に当たる。目の前に校門が、朦朧として現れた。

 午後まで続く講義を受けたあと、私は図書館で課題のレポートをこなしつつ、論文のレジュメに必要な資料を集めていた。大方片づいたら、授業の復習を始める。彼女には「遅くなる」とメッセージで伝えておいたが、返信はもちろん、既読さえもつかない。昨夜の疲労で、休憩を取っているのだろうか。

 タスクに取り組んでいる間、憲法学の教授が後ろを通った。私に気づいて、気さくに声を掛けてくれる。いつも図書館にいるね、この学者さんの本は参考になりますよ、と。

「ありがとうございます」

 頭を垂れて、私は微笑んだ。おそらく傍から見たら気持ち悪い笑い方だろう。

「ただ、こちらの棚は既に読みました」

 こうして誇らしげに話す自分に吐き気がする。こんなんじゃ、まるで教授の好感を得るために読破しているようなものだ。

「そうなのかい」

 教授は目を丸くした。

「君みたいに熱心な大学生が増えるといいのだが。何か質問があったら遠慮なく聞いてくれ」

「ありがとうございます。ではこちらのページに関して質問があるのですが」

「制度体保障か。昔話題になったものだね」

 教授は解説を始める。近年の学生は学問への関心がないと愚痴を言っていたものだから、積極的な生徒が嬉しいのだろう。教授の目には、ただの優秀な学生として私が映っているのだろう。道を正しく歩む、意欲的な学生として。

 ぐっと唾を飲み込んで、背筋を伸ばした。そんな私の様子に気づきもせず、楽しそうな声が横から響く。

 その後、教授は私に本を何冊か貸すことを約束し、宴で酒食を腹いっぱいに詰め込んだような満足した顔で図書館を去った。私はしばらく手に持った本をぼんやりと見つめた。そして、静かにそれを棚に戻した。突然、そばに立っていた男性の先輩と目が合う。どこかで見たことがある清潔感のある顔。

 胃から反吐が出そうになる。

 思い出してはいけない。私には確実に分かる。分かるが認識してはいけないのだ。

 彼は小さく会釈をした。私は会釈を返した。離れようとすると、その人は上ずった声で私に話し掛けた。

「テニス――いや、この間学会で発表した一年の子だよね?」

「はい」

「頑張ってね。学部生が学会に出るとどうしてもちやほやされる節があるけど、君は真剣に評価しているとおっしゃっていたから」

 なんて返せばいいのか分からなかった。意外にも、嬉しい気持ちにはならなかった。一年生であるにも関わらず学会で発表しているのは、高校時代からの積み重ねで研究をしていたからで、あの頃は高校の助けで学会と関係性を持つことができたのだ。もしこれが彼女なら、私なんかより何倍もうまくやれる。

「ありがとうございます、頑張ります。では失礼します」

 無難な返事を選んで、私はすぐさまこの場から立ち去ろうとした。先輩はまだ話したそうにしていたが、私はさっさとデスクから携帯を拾い上げて図書館から逃げ出した。

 彼女は音信不通になった、ということになっているのだ。


 携帯をオンにして画面を見る。予想通り、既読はついていない。仕方なく番号を入力して、携帯を耳に当てた。ベルは長く鳴り続けたが、しばらく待つとやっと繋いだ。

 ――ごめんね。寝ていて、ついさっきまでメッセージに気づかなかった。

「分かっている。今日は帰りが遅くなるから、何か買って帰るか?」

 ――わがままだって分かっている。でも、早く会いたい。ねぇ。

 綺麗な声音で静かに念押ししてくる彼女への、この瞬間の衝動を何と表現したらいいんだろう。胸がきつく締めつけられ、刹那に込み上げてくる愛おしさですぐさま口を開きそうになったが、珍しく自制の心が働いた。葛藤で、息苦しくなる。そして、悩んだ挙句この誘惑を拒んだ。

「今日中にまとめて片づけようと思ったんだ。君に会ったら自分を抑える自信がない」

 電話だけでも意志が揺らぎそうになる。彼女の声はあまりにも蠱惑的だ。そして私はあまりにも脆い。克己心の足りない人間ほど、綺麗なものから身を遠ざけなければいけないというのに。今すぐ電話を切った方がいい。そう分かっていても、この電子機器を耳から離すことが到底できなかった。

 ――分かった。そうする。待っている。

 今度は期待通りの返事が聞こえた。

「ああ。何か買って帰る。勉強頑張ってくる」

 ――……愛しているよ。

 電話を切ろうとして携帯を耳から遠ざけた矢先に、不幸かな、微かに響く彼女の声を捉えてしまった。私は突っ立った。彼女の言葉は私の首を鷲掴みにして、息を止める。足から力がするすると抜けていく。うまく立てなくなる。動悸が激しくなる。ああすぐに携帯に向かって叫びました。

「切らないで!」

 反応はない。彼女は私の言葉を待っているようだった。

「今日は外で食べよう。今、すぐに出るから。ええ、バイト代が貯まっている。私なら、問題ないはずだ。家に迎えに行く」

 ――ありがとう。待っている。

 彼女は電話を切った。

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