私の彼女
1 快感
彼女の肉体には爪痕がひたすらに羅列する。痛みで涙が彼女の目に滲む。綺麗な透明だ。私にはその綺麗さがずっと眩しくて、それを壊さずにはいられないほどに愛おしい。愛情と不信感、憎しみや孤独感。彼女の何もかもが綺麗な体から真っ赤な血液が泡を吹くように湧いてくるたび、陶酔した、脳が震えるような快感が私に押し寄せる。
彼女はなお喘いでいる。可哀想だ。私があくまで上に立っていて、彼女は私に与えられなければ生きていけない。ああ、全てにおいて私の上に立つ彼女が! そう、現実では何もうまくいかない。私には理想を実現するための力がない。どれだけ努力しても、どれだけ足掻いても、手に入れられない。それでも私に意味をくれる人がいた。だから、切り捨てなければならなかったんだ。心を冷たくし、余計な価値観を切り捨てて、自分の夢を抱いて生きていく。こうすれば、幸せになれると信じていたのに。こうすれば、弱い私ではなくなるはずなのに。
しかしこの有様だ。私は未だに届かない理想に押し潰されそうになる。汚い話だが、夢を叶えるためには学問で私の優秀さを証明しなければならない。海外の有名なロースクールに入るためには、もっとやらなくてはならない。私はまだ足りない、どれだけ努力しても時間を掛けても足りない。どう足を動かしても目標に届かない自分を見つめるたびに、私はまたなぜ生きているのか分からなくなってしまう。
私は、彼女のために生きている。そう自分に言い聞かせては、彼女にさえ本当に愛してもらえない自分が厭になる。常に自分はこの思考の中でぐるぐる回っている。全てを忘れたい。そして実感したい。私が生きていて、愛されていることを。
何よりも大切な彼女の身体に無残な傷を刻み込む瞬間、私自身と、私を押し潰そうとする責任を全て破り捨てて、何もかもが真っ白になるまで消し去ったような気持ちになる。私の行動原理、私の矜持を否定することで、私は私じゃなくなる。いや、もっと単純なことなんだろう。ガラスを割る快感と同じで、ガラス細工よりも綺麗な彼女を壊して、解放感に全身を蝕まれたいだけ。
壊れた檻。蝶の破片。散らかる空。それらと同じく、綺麗な彼女が壊れることが一番綺麗なだけ。
――私は、愛が減るのが耐えられない。幸せがなくなることが耐えられない。ずっとずっと二人でいたい。だから、不幸せがやってくる前に、あなたと一緒に。
「大丈夫、私は泣いていない。君は心配しなくていい。私は君といられてすごく幸せだ。何も失うものはないし、私たちは永遠に」
そう言った矢先に込み上げてくる破壊衝動に駆られて、私はカッターナイフの柄を握り締めました。勢いよく振り上げましたが、途中で手が震え出して、やはりそのままナイフが床に落ちてしまうのです。私はもはや彼女なしでは生きていけないけれど、何度も喫してきた強烈な幸福感から逃れることも無理なのだろう。彼女の恐怖と悦びが入り混じったつぶらな瞳の中に、私はぽかんとした間抜け顔の女を見てしまうのだった。
私はどんどん道から逸脱していく。彼女をベッドまで抱き運んだあと、しばらくカッターナイフを眺めていたが、見る見るうちに刃を押し出して、そこら辺にあった授業プリントをパラパラと破片にした。少し息が苦しい。しかし脳がまた白くなる。彼女に寄り添って寝る前に、この気持ちを徹底的に整理しなければ。明朝も学校がある。そのときの私は、優秀な私でなければならないのだ。
私は彼女が私に頼らざるを得なくなるほど稼いで、豊かな生活を送ってもらう。彼女がずっと幸せであり続けるように、あの夜の約束が叶わないように。そのためには、努力が必要だ。彼女のように綺麗ではない私は、努力するしかない。
ええ、明日のためにも、落ち着こう。確かに、ホットココアのパックが残っていたっけ。そうだ、驚かせてしまったのだから、彼女の分も入れなければ。これで、少しは落ち着くはずだ。
どうか突然嫌になって、この夢から覚めようとしないで。
お湯を入れた、白と黒のマグカップ。静まる香りがする。取手をすっと持ち上げて、部屋まで運んだ。夜に覆われて暗くなったベッドのとなり、デスクライトから橙色の光が薄く滲み出ている。木製のナイトテーブルの上に、静かにマグカップを置いた。彼女は疲労の色を浮かべながらも、柔らかい笑顔で感謝してくる。愛おしく。これでもっと自己嫌悪に苛まれる。
彼女は手が震えていて、うまく持てないようだったので、代わりに白いマグカップを彼女の口元まで持ち上げた。ごくりごくりと、喉がゆっくりと収縮を繰り返すのをじっと見つめた。
愛している、と感じた。
不覚にも、もう片方の手を彼女の背中に回して、マグカップの代わりに私の唇を重ねた。彼女の瞳が突然の行動に揺らいでいる。しかし、その動揺が蠱惑的に私をそそり立てる。残り半分ほどになったマグカップを片手でナイトテーブルに置いた。そして、彼女の顔に指を這わせる。彼女は嫌悪も拒否も示さない。ただ非常に疲れた顔色でありながらも、私の指にその繊細で、儚げで、柔らかく綺麗な手を軽く重ねてくれたのだ。ふと我に返る。
「ごめん」
私は手を引っ込めた。
「抑え切れなかった。私を、気をつけた方がいい。……今更だね、ごめん」
心の中で、彼女がこの言葉を否定してくれると期待していた。彼女は間を置いた。その間はまるで今までの最悪の私を振り返るための時間のようだった。それでも、彼女は首を横に振った。その小さな顔を私の胸に埋めて、彼女の息が心臓に降り掛かる。
先程彼女をあんな風にボロボロにした人間に、よく体を預けられるものだ。
私の胸は、私の期待通りに振る舞っているにすぎない彼女の姿に、またもや疼くのです。
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