4 別荘
朝を告げる小鳥のさえずりで、目を覚ましました。体の各所がじんじん痛みますので、腕を毛布の中から出してみると、やはり記憶の通り歯形と痣が乱雑に刻まれていました。
となりには誰もいません。彼女は既に出発したみたいです。白い毛布が首にまで掛かっていますが、こんな整った状態で掛かっているということは、彼女が掛けてくれたのでしょうか? 起こしてくれれば朝ご飯を作るといつも言っているのに、心根の優しい彼女は遠慮しがちです。毎朝みそ汁を作ってもらいたいって、神社でお願いしたのはどこの誰でしたっけね。
食卓にはメモと紙幣一枚が置かれていました。少し斜めに向いた、彼女の大人っぽい字です。シンプルな箇条書きで書かれています。「一、冷蔵庫の中に作り置きしたお惣菜がある。二、簡単な野菜炒めの材料もある。三、一万円を置いたので、外食は商店街の範囲ならどこでもいい。PS、お皿は後で洗う。いつもごめん。ありがとう」。
彼女は優しいです。彼女の最大の不幸が、その愛が私に向けられていることだと思いました。
キッチンの冷蔵庫からお惣菜を取り出します。蓮根とキノコの入ったマリネです。彼女は手先が不器用でしたが、いつの間にか料理が得意になっていました。努力家ですから、きっと一生懸命練習したのに違いありません。全てが私のためだと考えると、微笑ましくて、心が陽だまりのようにポカポカします。
作ってくれたマリネを食べたあと、リビングの本棚に収められているコレクションを見てみました。法学、哲学と伝記類が多いです。論文の書き方といった実用書も入っています。彼女は読書の習慣がありませんが、現代文の受験対策や研究の参考資料として、多くの書籍を読んできたようです。しかし、私の目当ては唯一ジャンルの違う、右下に並んでいる雑誌です。これが彼女の唯一の人間的な読書と言っても過言ではないでしょう。豪邸やヴィラをレポートする住居雑誌です。
高校時代から、この雑誌を読むときだけ、彼女は子どものように無邪気な表情をします。そうなったときの彼女から、外の世界にいた際のトゲトゲしさが見当たりません。そんな顔をさせるのが私ではなく雑誌だということが、悔しいくらいです。
彼女はいつも海辺の特集を眺めています。白い砂浜の側に作られた、真っ青な個人用プール。石を大胆に積み上げた野生的な壁と、室内をふんわり包む温かな照明。外界の爽やかさと対比的な、隔絶された内界の温もり。高級感溢れる橙色の内装が質素な構造物を豊かに飾ります。私もこんな南の島の、ふかふかなベッドで寝てみたいものです。
綺麗なものに人一倍こだわりのある彼女は、こんな美しい場所での暮らしを想像していたに違いありません。人生に対する未練を強いて挙げるとすれば、彼女とのあり得たかもしれない時間と、彼女と共に幸せに暮らす――そんな永遠の可能性、でしょうか。
いいえ、私はとっくに忘れたはずです。過去に信じようとした何かを忘れました。執拗に追い求めたものを忘れました。思い出すことなど、決してあってはなりません。
私は窓一面に広がる外の世界に視線を移しました。彼女は、あそこには彼女との幸せ、末永く幸せであることが叶う魔法があると言うのです。あそこの果てには、海辺の別荘があると言います。私には、その海辺の別荘が、とても眩しく見えます。水平線のなお遠くが、とても眩しく見えます。私はソファに横たわりました。町はせわしなく動いています。
携帯を開くと、今日は七月のようです。緩やかに、ピンで瞬間を留める日が訪れてくる気がします。
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