3 夜景
彼女が準備してくれた真っ白なネグリジェに着替え、リビングに向かいました。
明るい空間は床まで伸びる一面のガラス窓を介して、夜空を背景に輝く外の世界に繋がります。落ち着いた青のシャツを着た彼女は、私のために冷蔵庫からミルクを取り出しました。家の中でも律儀に全てのボタンを締めていて、孤高な雰囲気を漂わせていますが、ええ、彼女は決して強固な人間ではありません。ミルクの入った白いマグカップを渡してきましたので、笑顔でお礼を言いました。彼女は照れ臭そうにしています。互いに引き離されない仲の二人には、とても今更な態度です。
ミルクをごくごくと飲みました。中身がなくなると、彼女は空のマグカップを受け取って、キッチンで洗ってくれました。私はガラス窓の側に配置されたソファに腰掛けます。キッチンの電気を消して歩いてきた彼女は、私のとなりに座りました。静かに、二人で夜景を見ました。遠くにあるビルの小さな赤い明かりが点滅しています。信号が青になったり、赤になったりしています。高速道路を走る車が、刹那の旅人のように、一つ、一つ、去っていきます。町はまるで生きているみたいです。
「綺麗」
彼女はぽつりと呟きました。ソファに置かれた私の手の上に、彼女の手を重ねました。同い年なのに、手が大きいね。そう笑い掛けました。彼女は驚いた顔で私を見ました。そして、私の手を持ち上げて、彼女の手と比較してみたのです。
「かわいい」
彼女は私の肩に寄り掛かりました。シャワーを浴びたばかりの身体は、とても温かいです。彼女の喉がゆっくりと脈打っています。どくん、どくん。規律正しい鼓動が、彼女とくっついた私の体に、そのまま血液を流しているようです。
私は彼女に学校のことを聞きました。彼女は常に何かを抱え込んでいます。適度にストレスを発散させなければ、彼女は約束の日以前に自己矛盾を起こしてしまいそうです。
深いため息をつかれました。
「学会での評価がよくても、あの人たちが裏でどう考えているのか全く分からない」
間を置いて、
「はっきり言って、荷が重い」
と彼女は呟きました。
なるほど。他者からの評価でしか自分を認めることができない彼女は、評価されるためだけに、背負い切れない量のものを背負ってしまいます。おつかれさま、と彼女の耳元で囁きました。いつでも頼ってね、とも言いました。彼女は無言でしたが、こうしてちぎられた黒百合の花びらは、どんどん水に侵食されてしまうのです。
二人で黙り込んでいるうちに、彼女の視線は夜の遠くへ移りました。そこはどこなのでしょうか。点滅する赤い光よりも、更に遠い場所かもしれません。彼女は過去を思い出しているのでしょうか。それはいけません。過去は、私が最も恐れているものが埋まる砂場です。彼女はそれを暴くのでしょうか。そうなった暁には、あの夜の約束を破り捨てなければならないのでしょうか。ああ、そうなってはいけません。私は忘れました、もう忘れたものを思い出すはずなんてありません。
ねぇ、と、私は彼女の袖を引っ張りました。彼女は我に返った表情をしました。私を抱き上げて、寝室に向かいます。私は彼女の胸に、顔を深く深く埋めました。瞬間の幸せにピンを留めることの恐怖から、目を背けるように。
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