飢餓
一瞬、死んだかと錯覚した。刹那の硬直の後に、自分のすぐ横の地面、それも岩石がせり出している部分が砕け散った。月にある隕石によってつくられたクレーターを彷彿とさせるその踏みつけは、俺を恐怖の底に引きずり込んでなお余りある。
「ひぇ…ッ…」
情けない声を漏らしながら、服に泥が付くのも気にせず前転でその場から距離をとる。大きな図体にも関わらず、次の攻撃までのタイムラグなど無いに等しい。ゲームに出てくるようなダンジョンに近い様相を呈しているこの場所においては、もしかしたらこいつはスライムぐらいの頻度でエンカウントするんじゃなかろうか。そんなことを考えてここに来てから何度目かわからない背筋を死神の指がなぞるような感覚に慄然とする。
…だが今の一瞬で多少はわかったことがある。人の顔色や一挙手一投足に注目してきた人生だった故か、観察することは昔から得意だった。例えば今の踏み付け。おおよその位置は分かっているのだとは思うが、至近距離で立ちすくんでいた俺に攻撃を外している。よって考えられるのは二つ。こいつのコンディションが万全ではない。またはそれほど暗視などの敵を発見することに長けた技術を持ち合わせていないのどちらかだ。
暗い場所で生活しているのだから恐らくは前者だろう。ならばこちらにとってそれは好機以外の何物でもない。
だがそれが分かったところで俺に何ができるというのだろうか。相手は重厚な皮で全身を覆っているうえに凄まじい膂力を持っている。対してこちらはお世辞にも業物とは呼べなさそうなナイフ一振りと、簡易的な防具のみ。何故か非常にお腹が空いているし、気を抜けば思考さえもままならなくなる。
さて、どうしたものか。思考が許されるのはせいぜいあと一秒だ。限界まで加速する脳をさらに酷使して解決策を練る。練り、練り続ける。
そして気が付く。勝ちの目などどこにもないのだと。もうどうしようもない。それは火を見るよりも明らかだった。諦めることが許されなかった人生によって鍛えられた逃げ道を探す力。けれどそれをもってしてもこの絶望的な状況を打開しえる革命的な手段など万に一つも浮かばない。何をしても自らが死ぬ未来を回避できない。絶望的な結末は既に何千通りも浮かんでいる。だが希望的な未来、それだけが浮かばない。
逃げてもどうせ追いつかれる。うまく攻撃が当たらないとしても当たるのは時間の問題。攻撃を試みたところで刃は恐らく通らない。眼球を狙うにしても高すぎる。よじ登っても振り払われて壁の染みになるのがオチだ。
そんなあまりにも絶望的な状況に、ついに緊張の糸が切れてしまった。
腰が抜ける。足が竦む。腕が震える。
体中が抵抗を拒否している。無意味だからという理論的な話ではなくもっと根源の、逆らえない圧力ともいうべきか。生物の本能が恐怖という感情の表現を最優先してしまっている。
もうだめだ、そう諦めるのにさして時間はかからなかった。人間というものはこうももろいものなのかと不思議に思ってしまうほどに。歯の根が鳴る。腰を抜かしたまま後ずさりする。
来る一瞬の凄絶な痛みに対して覚悟を決めた直後――。
『GYAaaaaaaaaaaaaaaaaaaa!?』
耳を劈く断末魔が響きわたった。先ほどの咆哮よりもより一層生命の力強さを思わせる叫び。それは絶命の事実に対する驚嘆、恐怖、絶望が入り混じったものであり、自らの命を奪ったものに対する呪詛に他ならない。
腰を抜かす俺の前で、その獣の背中から、細く奇妙なほどに長い骨のような手足が生えた。否、体を突き破ったという方が正しいだろうか。ともあれ俺から見ればそのようにしか見えない。まるで孵化するかのようにあの凄まじい強度を誇るであろう獣の皮を容易く引き裂き、その全貌を現した。
一言で言えば、大きなクモ。人の手の様に細長く伸びた白い骨を思わせる節を持った五本の指を除けば、まんまクモだった。ゲームでいうところの『スカルスパイダー』とかそういう感じ。そいつは俺に気を止めることなく、絶命する猪型の獣を足蹴にして俺とは反対側の通路へ消え去っていった。
正直な話、助かったと思う反面、心臓を氷水に沈められたような何度めかもわからない恐怖を味わった。俺の記憶の中にも寄生虫などの話はあった。ウマバエみたいに体内から体を食べて成長して、体を突き破って生まれてくる生き物だっているのは知っている。
だが、なんだあのサイズは。宿主とほとんど変わらないサイズの生き物が体内に救っていたというのか。先ほどまで気を失っていた自分の体内にも何かが巣食っているのではないかという途方もない恐怖心と目の前で命の危機をもたらしていた存在が消滅したことによる安心感という相反する二つの感情が脳内をぐるぐると駆け巡る。混濁した意識は吐き気へと直結。空っぽの胃の中に僅かに溜まっていた胃液を地面へと吐き出しつくす。嘔吐と同時に、先ほどまで感じていた空腹感が数倍に増幅されているのを認識。生命の危機という状況によって抑圧されていた食欲が今になって噴き出してきたのだろうか。飢餓という物を心から感じたのは初めてかもしれなかった。何でもいいから食べ物が欲しい。理性ではなく本能が真っ先にそう語りかける。他の思考を許さないとばかりに脳内を支配し、自然と口元から唾液が滴り落ちる。今の俺は傍から見れば飢えた獣そのものに違いない。
――気が付けば、俺は死体に飛びついていた。考える間もなく生暖かい、血の滴る生肉を貪り喰う。確かな弾力が口の中に感じられる。生臭かったがそんなのに文句を言うほど俺に余裕はない。お世辞にも美味いとは言えない肉だったが、空腹は最大の調味料、今の俺にとっては十分すぎるほどの食事だ。
吐き気を押し込めながら胃の中に肉を詰め込んでいく。
その時だった、体中が灼けるような感覚が訪れたのは――。
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