第20話

深い温もりを漂わせながらも、爽やかな声だった。

『拓海君に、渡さなきゃいけなかったものがあるの』

その女性は、電話の向こうで、そう言った。

数日後、俺は渋谷の駅からほど近いカフェにいた。指定されたのは、分かりやすい立地の、ごくありふれた外資系チェーン店だった。席は常に九割以上埋まっていて、ひっきりなしに人が出入りしている。レジカウンターの方向から、ほんわりとコーヒーの匂いが漂う。

大きなガラス窓から外を見ていると、スマートフォンが低く唸った。

「はい」

『もしもし、田辺です。どこにいます?』

「窓際の一番端の……丸いテーブルの二人掛けの席です。黒いコート着てます」

『あ、見つけた。ちょっと待って』

俺が店の入り口に目をやると、スツールやテーブルが詰め込まれた店内を縫うように歩いて、三十代前半くらいの女性が歩いてくるところだった。

「こんにちはー。初めまして。田辺優花里です」

女性は、人懐っこい笑顔で名乗って、俺に会釈した。俺も慌てて頭を下げる。

「――初めまして、鈴木……友幸です」

「わあ、確かに拓海君にちょっと似てるね。目元が」

「昔から、あんまり似てない兄弟って言われてたんですけどね」

俺は思わず苦笑いした。兄貴が死んでから、色んな人が兄貴の面影を俺の容姿に探すようになっている。

「びっくりしたわ。その――本当に、亡くなったの? あの拓海君が」

「はい。去年の暮れのうちに、葬式まで終わってます」

「そうなんだ……」

先程までの笑顔がふっと隠れ、田辺さんは神妙な眼差しを俺に向けた。

「お悔み申し上げます。せめてお葬式に参列したかったけど」

「いえ、兄が死んだのを連絡できてなかったのは、こっちなんで」

田辺さんはいったん荷物をスツールに置いて、コーヒーを買いに行った。

見知らぬ客たちの向こう側に、さっきまで見知らぬ人だった田辺さんの姿が見える。濃い緑色のコートの下にベージュのパンツスーツを身に付け、長い髪を頭の後ろで無造作にまとめている。いかにも、都会に暮らすこなれた大人の女性という雰囲気だ。暫くして田辺さんは、コーヒーの紙カップを片手に戻って来たが、その姿も妙に様になっている気がした。右手にも、カップを持つ左手にも、指輪の類は嵌めていない。

「お待たせしました」

スツールに腰かけ、改めて俺と向き合う。

品の良いメイクに小粒のネックレス、ほんの少しだけ茶色がかった髪。

ふと、兄貴と並んだら、傍から見てさぞかしお似合いのカップルだったろうな、という思いが頭をもたげた。

田辺さんは、持ってきた紙袋をテーブルの上にどさりと置いた。

「これ、拓海君に借りっぱなしになってた本と映画」

「………………へ?」

非常にカジュアルな口調であっけらかんと言われ、俺は目が点になった。

「本と? 映画?」

「そう」

頷く田辺さん。紙袋と田辺さんの顔を見比べる俺。

おずおずと紙袋の中を覗き込むと、ハードカバーの本と映画のDVDらしいパッケージが数枚入っていた。

「……っと、あの、渡さなきゃいけないものって、これですか?」

「うん。そうよ?」

どうして俺が面食らっているのか皆目見当もつかないという顔で、田辺さんは再び頷いた。

「よく拓海君にお勧めの映画のDVDとか本を借りてたの」

「…………」

対面したばかりだが、もうこうなっては仕方ない。俺は意を決して、田辺さんに対する最大の疑問を口にした。

「………………あの、兄とは、どういうご関係で……?」

「え? 友達だけど」

今度は田辺さんが目を丸くした。

「……え?」

「……ですよね……⁉」

「…………え? やだ、もしかして勘違いしてたの? 違うよ⁉ ただの友達よ⁉ だって、拓海君は――え、知ってるよね⁉ あの、彼氏が」

「あっハイ知ってます、彼氏と、あの、同じ家で」

「そうそうそう、彼氏と同じシェアハウスで暮らしてたんでしょ⁉」

「そうですそうです」

「……」

「……」

暫し真顔で見つめあう。沈黙を経て、俺より先に田辺さんが噴き出した。

「やだ何それ、拓海君がゲイだって知ってる上で誤解してたの⁉ てことは私のせいで拓海君にバイ疑惑が発生してたの⁉」

田辺さんはけらけらと笑い転げている。片や、一安心して胸をなで下ろしている俺。爆笑する田辺さんを苦笑しながら見守るしかない。

「いやー壮大に飛躍したね‼ そりゃ大変だわ。あーおかしい」

「ははは……まあ、普通のお友達で良かったっす……」

「あははは! 残念ながら拓海君には鼻もひっかけてもらえませんでした! あ――おかしすぎる。今月最大のネタだわ」

「そんなにですか……」

コーヒーの紙カップを倒しそうになりつつ、田辺さんはひとしきり大袈裟なくらいに笑い転げた。嫌味のないからりとした笑い声だった。

田辺さんはバッグから名刺入れを取り出し、一枚を俺に差し出した。

「わたくし怪しい女じゃございませんから。こういう者です」

「『さがらSJ信託銀行』……?」

名刺には、大手メガバンクのロゴが印刷されていた。西新宿支店、アシスタントマネージャー、フィナンシャルプランナーという文字が並んでいる。

「……銀行員?」

「うん。あ、拓海君は仕事じゃなくてプライベートで知り合ったんだけど。神保町のバーでね、常連だったの」

「神保町のバー? ……二丁目じゃなくて?」

「違うって。私、工事済みのオカマじゃないし」

「すっすいません!」

「大丈夫、自分に色気ないのは知ってるから」

「いやいやいやいやそんなことないっすよ⁉」

兄貴がゲイで、しかもつい先日早死にしたばかりなのを踏まえると、相当ぎりぎりなトークかもしれない。だが、田辺さんは、ブラックジョークも下ネタもあっさり扱いこなす雰囲気の持ち主だった。

「私、神田に住んでるんだけど、近くに雰囲気のいい古ぅい店があってね、昼間は喫茶店で、夜はバーなの。古いレコードがそれこそ山のようにあって、ハンドドリップでコーヒー淹れてくれるような店。拓海君とは、そこで知り合ったのよ。四、五年ぐらい前かな。いやーこっちは男と別れたばっかりでさあ、行きつけのバーで、毎回独りで来てるっていう知的そうな独身の男性客とメアド交換したら、さすがにときめくじゃない」

「はあ」

「蓋を開けてみたら、イイ男はゲイだったよね」

「……なんか、すいません」

「まあ、こっちが勝手に期待したんだけどね」

田辺さんはくすくすと笑う。本当に良く笑う人だ。兄貴の弔いと銘打って、上っ面だけで暗く振舞われるより、百倍いい。俺も気が楽だ。兄貴が、性的志向を知られてなお友人付き合いを続けた理由が、分かる気がした。

「私が銀行の営業で、不動産投資や住宅ローンなんかもやってるって言ったら、拓海君、興味示していろいろ質問してきたのよ。最初は社交辞令か、ただの話題のネタとして取っ付かれたんだと思ったんだけど、どうやら本当に家買いたいと思ってるらしいなって、途中で気が付いたの」

「家⁉」

俺は耳を疑った。

「初耳なんですけど⁉」

「かもね」

コーヒーを一口啜り、田辺さんが頷いた。

「その時は普通にストレートの男性だと思ってたのよ。けど、よくよく話聞いてみたら、独身で結婚する予定があるわけでもなし、しかも興味があるのはマンションじゃなくて戸建ての家だし、どうして独身男が部屋数の多い戸建ての家を買いたいのか、よく分かんない以上に話の辻褄が合わないなぁと思って問い詰めたのよ。そしたら白状したの」

「ゲイだって?」

「うん。ゲイで、彼氏がいて、その彼氏がシェアハウスに住んでるって。もうあの時は膝から崩れ落ちるかと思ったね。惚れる前で良かったわあ」

田辺さんが懐かしそうに言った。

この段階で、俺はまだ話が呑み込めていなかった。

「それから暫くして拓海君、彼氏と同じシェアハウスに引っ越したんだよね」

「――あの、すいません、まだよく分からないんですけど、うちの兄はどうして家を買いたかったんでしょう?」

「本当は、あのシェアハウスを買い上げたいぐらいの気持ちだったのよ、拓海君は」

田辺さんは、目を細くして微笑んだ。

「拓海君と彼氏が住んでたシェアハウスは、都内で家賃が安くて保証人も要らないから、歴代の住人がだいたい訳アリの若い子だったみたいなのね。それ見てて、思ったんだって。親兄弟や親戚と関係なく、協調性っていうか、他の住人に迷惑を掛けずに暮らしていければオッケーな家、そういうのって良いなあって。だから拓海君、お金貯めて早めにリタイアして家買って、部屋を安めの家賃で下宿として貸して、あとはゆるく働きながら、彼氏と下宿人と一緒ににぎやかに暮らしていきたいって言ってたよ」

「そう――だったんですか」

俺は、あちこちに散らばっていた何かが次第に繋がってゆくのを感じていた。謎が繋がり、徐々に氷解する。目を伏せる。紙カップに印刷されたロゴが、蛍光灯に照らされてテーブルの上に映っている。

「私、拓海君からそう聞いて、なるほどなあって思ったよ。だって全然アリじゃない、そういう人生。昔は四畳半の風呂トイレ共同の下宿なんてそこら中にあったわけでしょ。ちょっとくらい不便でも、安い家賃で納得して共同生活するのって、いいじゃない。色んな意味で実家に帰れないとか、親兄弟を頼れない人なんて、いつの時代も普通にいるんだから」

「頼れない――本当に、そうなんですかね」

俺が思わず呟くと、田辺さんは真面目な顔で俺を見た。

「拓海君のことじゃないよ」

「え」

見透かされていたのに驚いて、俺は顔を上げた。田辺さんはガラス窓から外を眺めていた。

「私の友達でね、婚約が破断になった子がいるの。親が宗教にのめり込んでたせいで。本人は信者どころか親にも宗教にも嫌気がさしてたんだけど、ほら、本当に結婚となると、どうしてもお互いの家同士の話になるじゃない? そこで親が前に出てきて、結婚するならひとつの家族になるんだからって、婚約者をぐいぐい引っ張りこもうとしたんだって」

特に何処へ視線を合わせるでもなく、ただ渋谷の路上を行き交う人の無秩序な群れを眺めながら、田辺さんは続ける。

「友達は、止めてくれ、頼むから縁を切ってくれって親と大喧嘩したんだけど、全然効果はないわ、彼の親にも結婚を大反対されるわで、結局、婚約破棄」

「……それは、無理もない話ですね」

「酷い話だけどね。無理もないでしょ」

「血縁関係って、重たいですね」

ゆっくりと頷き、田辺さんは俺を見て、少し笑って言った。

「夫婦なら離婚すれば他人になれるけど、親兄弟はできないから。血が繋がってるってだけで揺りかごから墓場まで付き合わされるんだもの。そりゃ揉めるし、押し潰されもするよ。せめて目の前から逃げないとダメになっちゃうことだってあるよ」

田辺さんの声は、温かかった。

紙カップのコーヒーは、両手の中で既にぬるくなりつつある。すぐに冷めてゆくだろう。俺の膝の上には、先程受け取った紙袋の中身が、ずしりと乗っている。大した冊数でもないのに固い重さの、兄貴の名残だ。兄貴は、貸しっぱなしの本を遺して死んで、それを俺が、弟だという理由だけで、受け取っている。

「――あ‼」

突然気が付いて、俺は叫んだ。

「どうしたの?」

「やべえ……! 田辺さん、逆に田辺さんからうちの兄に貸してる本とか、ありませんでした⁉」

「うーん、あったかなあ……」

「俺、遺品整理で、こないだみんなまとめて古本屋に売っちゃったんですよ‼」

それを聞いて、田辺さんはぷっと噴き出した。

「いいよいいよ。貸してたとしても思い出せないぐらいだから、構わないって」

「でも、俺の懐に入れちゃったんですけど! その、メシ代と交通費代わりに」

「あはははは! そのくらい、むしろ取っといてよ。お香典だと思ってさ」

「本当すいません……とりあえず謝っときます」

「大丈夫、謝らないでくださいな」

田辺さんは再び、からからと笑った。本当に格好良い女性だと思った。

紙袋の底に、本とDVDに隠れて『御仏前』と書かれた薄い封筒が入っていることに俺が気付いたのは、帰宅した後だった。不祝儀のお返しってどうすればいいんだ、と途方に暮れて、ネットで冠婚葬祭マナーを検索したのは、言うまでもない。

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