第19話
兄貴の部屋は、どんどん物が少なくなっていく。
書籍や映画のDVDは、宅配便で送れば買い取ってくれる業者を見つけて、まとめて送って処分した。同じように、衣類も状態の良いものを箱に詰めて古着屋に送り、買い取ってもらった。宅配便でみんな済んでしまうのだから便利なものだ。味気ないと言われようと何だろうと、利便性には代え難い。現代でなければ、俺は一人で遺品の片付けなどできなかった。
いや、一人ではなかったけれど。
シュレッダーにかけた紙くずや燃えないゴミの袋を、それぞれの回収日に捨ててくれたのは、主にシェアハウスの住人達だった。俺が廊下に出しておけば、彼らが協力してゴミの日に運んでくれる。五十嵐さんも柳さんもざくろちゃんも、俺が兄貴の部屋に来て片づけをしていると、足りないものはないか、期日指定の粗大ゴミはないか等々、毎回積極的に声をかけてくれた。遺族(俺)は、つくづく人の優しさに支えられて生きている。
そして、売却できない=ゴミにできるもの、ばかりでもなかった。捨てるのをためらう書類などは、段ボール箱にまとめて、実家に送った。俺ばかりが兄貴の遺品と対面しているのは、フェアじゃない。親父とお袋にも、少しは抱えてもらわなければ。
大晦日はシェアハウスで、珍しく人とのコミュニケーションに満ちた休日を過ごし、正月休みは反動のように、アパートに引きこもっている間に終わった。
俺は正月三が日を、布団の上で自堕落に消化した。外は寒いし、福袋には興味は沸かない(アパレル勤務ン年の五十嵐さん曰く、あんなものは在庫処分だ)し、初詣は混んでいる。一人でわざわざ人混みをかき分けて現金を投げに行く気は起きない。テレビをつけても、流れているのは年末のうちに撮りためられた特番ばかりで、画面も音声も騒がしい割に中身は薄っぺらい。結局、惰眠をむさぼるところへ、自然と行き着いてしまった。
仕事が始まれば、再びざくざくと日常が通り過ぎてゆく。
一月も半ばに入ると、空気は更に冷たくなった。シェアハウスへ行くのにも、出掛ける意欲を奮い立たせる必要があった。兄貴の部屋が片付いてしまえば、柳さんやざくろちゃん(癒しになりつつあった)の顔も、見納めかもしれない、と。
そう自分に言い聞かせて重い腰を上げ、週末、俺はシェアハウスへやって来たが、柳さんは不在だった。
またデートだろうか、と不穏な予感が頭をかすめる。
考えても仕方ない。
ため息をつきながら兄貴の部屋で残りの荷物を掘り返していたところ、文房具や家電のコードに混ざった、黒くて四角いものが目に留まった。
二つ折りの携帯電話だった。充電ケーブルもある。
電源は切れていて、ボタンを押しても、何の反応もない。
兄貴のスマートフォンは、両親が回収していったはずだった。ということは、これは以前使っていたものだろう。
俺はほんの出来心で、ケーブルをコンセントに繋いで、携帯電話の電源ボタンを長押しした。液晶画面が、明るくなった。
起動すると、デフォルトのものと思しき至極無難な壁紙が表示された。ロックはかかっていない。適当にボタンを押すと、通話履歴が表示された。一年以上前の日付と、通話相手の名前が並んでいる。
それを見た瞬間、俺は自分の目を疑った。
心臓がどきりと大きく波打つ。
通話履歴の中に、女性の名前がある。
どう考えても、女性の名前だとしか思えない。
五十嵐さんや美容院や行きつけの飲み屋と思しき名前に混ざって、田辺優花里、という名前が何度も登場している。
兄貴は友達が少ないほうだったのか、頻繁に電話をする相手は他にあまりいなかったようだが、その女性への通話履歴は、五十嵐さんに次いで多い。
気付けば俺は勢いに任せて、メールの画面も開いていた。そちらにも、同じ女性の名前が幾つもあった。他にメールをやり取りしている相手が少ないから、こちらでも田辺優花里の名前が特にくっきりと目立って多かった。
『おつかれ~。ありがとう~。』
『OK、待ってる』
『まだ会社?いつもの店で飲んでるんだけど来ない?』
『こちらこそよろしくお願いしますわ(笑)』
『ウチの。来週の土曜の午後』
――誰だ、これ。
どういうことなんだ?
「おーい、ともくん」
突然、廊下から、五十嵐さんの声がした。心臓が飛び出しそうになる。
俺は咄嗟に、携帯電話から充電ケーブルを引っこ抜き、本体を元通り折り畳んでポケットに突っ込んでいた。殆ど無意識のリアクションだった。そして、声が裏返らないよう、つとめて平静を装って返事をした。
「なんですか?」
廊下に顔を出すと、五十嵐さんが廊下の燃えないゴミの袋の前に立っていた。
「これ、また捨てとけばいいんだよね」
「――あ、はい。お願いします」
「あと、これ頼まれてたやつ。粗大ゴミのステッカー」
五十嵐さんは、およそ十センチ四方の大きさのステッカーを数枚差し出した。本棚と布団に貼って回収手配をかけようと思っていたやつだ。
「ありがとうございます。助かります」
「ほんとにこの枚数で足りるの?」
「あー、そうなんですよ。衣装ケースとハンガーラックはざくろちゃんが欲しいって」
「いっそ本棚も昴に貰ってもらえばいいのに」
「それは昴君に断られました。ざくろちゃんの私物を片付けるほうが先だって」
「うわ正論だわ、さすが昴。ざくろマジで片付けられない女だからね」
五十嵐さんは、俺がズボンのポケットに突っ込んだ携帯電話と、俺の心の中の動揺に、全く気付いていない様子だった。そのままふらりと兄貴の部屋に足を踏み入れる。
「わー、随分片付いたね――」
そう言って、五十嵐さんは唐突に声を詰まらせた。
五十嵐さんの顔を覗き込むと、両方の目に涙が溜まっていた。
その涙がみるみるうちに増えて溢れ、大粒の滴になって頬に、ぼろぼろと落ちた。
「どうし……大丈夫すか?」
「ちょ、ごめ――なんか、本当に、いなくなっちゃったんだなあと思って――」
五十嵐さんは、部屋の真ん中に立っていた。
ついこの間まで、本だの何だので、どこが真ん中だか分からなかった兄貴の部屋が、ぽっかりと開けた空間になっていて、五十嵐さんと俺は、そこに立っていた。
本棚は空っぽで、棚板をばらしてあった。ベッドの上のマットレスはむき出しで、冷たそうな見た目を晒していた。デスクの下は埃だらけで、何も繋がれていない延長コードだけが、無造作にのたくっていた。
ここはもう、抜け殻ですらない。
無造作な生活感があるのに、それはかつての名残でしかなく、もう誰も住んでいないのが明白な部屋だった。
俺は、近くに転がっていたティッシュの箱を、五十嵐さんに差し出した。ひしゃげた箱を受け取って、五十嵐さんは涙を拭った。
そのまま五十嵐さんはぺたんとベッドに腰かけ、鼻を鳴らしながら、暫くぼろぼろ泣いていた。
俺も、何となく、五十嵐さんの隣に座った。
部屋の壁紙が、妙に広く見えた。
涙を拭いながら、五十嵐さんが無理やりに笑顔を作って、言った。
「あーあ。僕、案外拓海のこと好きだったんだな。ちきしょう。やっぱ悔しい」
「――良かったです。悲しんでくれる人がいて」
思わず俺の口から出たのは、そんな台詞だった。
五十嵐さんが首を傾げた。
「良かった……のかなあ」
「ええ。良かったと、思います」
取り繕っていない、正直な感想だった。
「俺は実の弟だけど、もう十年以上疎遠みたいな状況だったし、兄貴には何年かいっぺん会うぐらいで。五十嵐さんはこの部屋で兄貴が生活してたのを知ってるわけですけど、俺は兄貴が死んで初めて来たわけで。――俺にとっては、見ず知らずの他人の部屋みたいなもんなんですよ、ここは」
俺は部屋の中を見渡した。
本棚の上も、もう、埃しかない。
数週間前の、この部屋に踏み込んだ日に見た景色は、俺の記憶の中で、もうすっかりぼやけている。たぶん、空っぽになった今の部屋の景色も、俺の頭の中をあっという間に通り過ぎてあやふやになるのだろう。俺にとっては、その程度の部屋だ。
「不思議だね」
五十嵐さんが、不器用に微笑んで言った。
「君は正直だね。僕、拓海のバカ真面目なとこが好きだったの思い出したわ」
「そうなんですか?」
「うん。チャラくないとこ。ネットでパートナー探してたくせに、お友達からスタートしたんだよ。笑うよねー、お前いくつだよって感じ。でもその軽くないとこが良いなあと思ったんだよね。懐かしい」
涙で濡れた目を細くして、五十嵐さんは懐かしそうに呟いた。
「ほら、ゲイの男ってさ、もうイケメンを見たらセックスみたいな、盛りのついたケダモノみたいなイメージあるじゃん? 僕そういうの嫌いだし。ただ実際、ゲイの男って、彼氏がいても他の男とヤッていいっていう感覚の人、少なくないわけよ」
「え⁉ それ修羅場にならないんですか?」
「人によると思うよ。一途なゲイもいるけど。行きずりの相手とやっちゃうのもそんなに重たいことじゃないみたいな。うーん、例えがすんごい微妙だけど、ノンケの男が風俗行くのに近いかな?」
「…………よく分かんないっす」
「純朴童貞め」
「だから決めつけないで下さいって言ってるじゃないですか」
「でさ、僕も真面目で拓海も真面目だったから、そこでウマが合ったわけ」
「ほんと人の話聞かないですね⁉ あと前半部分がよく分かんないっす!」
「大事なことなので二回言いますね。僕も真面目だから」
「どのへんがですか⁉」
五十嵐さんが、ひしゃげたティッシュの箱を若干振り回しながら力説する。
「だーかーら。僕も拓海も、たまたま美少女にも熟女にも巨乳にも惹かれなくて、代わりに男が好きなだけなのよ。単に確率の問題でそのへんに出会いが転がってないからネットに手を出すけど、ほんとはゲイ同志のコミュニティとかにもあんまり興味ない。ただ普通に生きてたいだけ。ゲイなら二丁目に通ってエイズ予防の啓蒙活動に参加してゲイパレードで自由を叫ぶべきみたいなのが、嫌」
「どうして」
「だってノンケにはそんなレッテルないじゃん。狭い世界で、自分だけが日々幸せに生きてければいいと思ってたって、誰も責めないもん。ありふれた生き方じゃん。拓海も、普通に結婚して浮気もしないで真面目にサラリーマンやりながら、のほほんと生きてたかったんだよ。たらればの話してもしょうがないけど、もしゲイじゃなかったら――きっと拓海なら、あっさり叶ってた夢じゃん」
「夢――」
――そんなの、俺だって、夢だ。
だけど。
ただ女を好きになれないだけで、兄貴にとっては、同じステータスの男なら簡単に手に入れられそうな人生が、そうじゃないものになった。
そこそこ爽やかな顔。平均プラスアルファの身長。稼ぎは申し分なく、趣味は読書と映画鑑賞。知性派で真面目な三十代男性。もし婚活市場に出したら、兄貴のプロフィールにはあっという間にお見合い希望が殺到したことだろう。唯一の欠点は、兄貴の好きな相手が女じゃなかったということだけだ。俺と違って。
「……現実って、うまくいかないもんですね。兄貴はあれだけハイスペックだったのに、――なんなんでしょうね。ゲイだってだけで、全部ややこしくなるんですかね。俺と足して二で割れたら良かったのに」
俺が何の気なしにこぼした感想に、五十嵐さんが嚙みついた。
「良くない! そしたら僕が拓海と付き合えてない‼」
「――あ。そっか……。すいません」
「いいよ。拓海に免じて許す」
五十嵐さんは、濡れている目尻を下げて笑って言った。
不思議だった。俺は今、兄貴の彼氏と、二人きりで、肩を並べて座っている。ついこの間は、二人きりになることに無意識に身構えてしまった相手だ。いつからか、もう緊張はなかった。兄貴は良い人と付き合っていたんだな、と思った。
だからこそ俺は、携帯電話のメモリーのことを言い出せなかった。
ポケットの中の携帯電話の手触りは、ズボンの上からでも異常に硬くて冷たく、そして重たかった。
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