第18話
俺達は並んで、シェアハウスへ向かって歩き出した。
微妙な沈黙が流れる。
考えあぐねて先に口を開いたのは、俺だった。
「――よくあるの? こういうの」
「よく⁉ いやいやいや、よくあるわけでは」
「っていうか、もしかして、前にもお客さんにつけられたりした?」
俺が訊くと、ざくろちゃんは躊躇を顔に浮かべながら、中途半端にえへへと笑って答えた。
「まあ、そんな感じの――」
「……そうなんだ」
「けど、ほんっと奇特なお客さんですよね! 私を推してくれるなんて! いつもは私、電車で出かける時は帽子かぶってるんですけど今日忘れちゃって、あっ、でもでも! 帽子かぶるなんて芸能人みたいなこと、ただの自意識過剰かもしれないんですけど! てか自意識過剰ですよねえええ」
そこまでとは、内心驚いた。確かに、以前ざくろちゃんが駅前で配っていたチラシによると、メイドカフェは駅の近くにあるから、来店客とニアミスすることもあるのだろう。
「シュンお兄ちゃんの他にも、常連のお客さんって結構いっぱいいるんですよ。だから念のためみたいな?」
「お兄ちゃん⁉」
「あっ、そ、そうなんです、お兄ちゃんなんです。ご主人様が基本なんですけど。何度も来て会員カードのポイントいっぱい貯めると呼び方が変えられるんです。だからお店に入ってきた時も、お帰りなさいご主人様、じゃなくて、お帰りなさいシュンお兄ちゃん、て」
「すげぇ……」
俺は呆気に取られた。モテない男が、ざくろちゃんみたいなフワフワ可愛らしい雰囲気のツインテールのメイドさんに、顔と名前を覚えてもらって『お兄ちゃん』呼ばわりされたら。たとえお金を払ってカフェに来ていると理性で分かっていても、恋心で勘違いしかねないのではなかろうか。
俺とざくろちゃんは、並んで住宅街の中を歩いている。二人ともいつの間にか、寒さで、自然と速足になっていた。
「お客さんの顔、覚えてるんだ」
「覚えてます。会員カードにお名前書いてあるけど、なるべく顔も覚えてます。――そのほうが、喜んでもらえるから」
「すごいね」
俺の隣で、ざくろちゃんは、懸命にぶんぶんと首を振った。
「全然全然です! わわわ私、ともさんみたく、あの、ちゃんとした会社に勤められるような能力とか知識とか、ほんっとに、なんっにも、ないですから!」
「そんなことないでしょ」
「いやほんとです! 私、何の取り柄もないんで! 駄目な大人なので! ていうか、えっと、私……」
街頭の白い光が照らす歩道に目を伏せて、ざくろちゃんが小さく言った。
「……私、にこにこするぐらいしか出来ないし。制服、着てると、ちゃんと喋れるから」
俺はこの時、初めて気が付いた。
ざくろちゃんはいつも、異様に焦っていても言葉でどもっていても、困ったように笑っている。
世の中に、口元で笑って目が笑っていない人間は山ほどいる。だがざくろちゃんは逆だった。いつも、目が笑っている。おかしな話だが、そうとしか言いようがなかった。
「だから――シュンお兄ちゃんの気持ちもよく分かるんです。好きなアニメの話してる時は、どんなことでもどんどん話せるって。私も、そうだから。にこにこするのは得意だけど、他、なんにも取り柄、なくて……喋るのすら、私すっごい下手だから。……――あ、そいえば、あのその、ともさん、さっきので誤解しないでくださいね⁉ シュンお兄ちゃん全然悪い人じゃないんで!」
「……。けど、勘違いさせとくのは、本人のためにならないと思うよ……」
「う、うーん……あはは……そかー…。あ、そいえば、前におんなじことでるーちゃんに怒られたの、思い出しました……。そいつを嫌いじゃないなら、なおさらちゃんと『客と店員以上の関係ではありません』てキッパリ言ってやれって」
「さすが昴君……」
夜の住宅街は、時々夕飯の匂いがふんわりと漂ってくる。
夜道で誰ともすれ違わないのに、広く薄く、人の暮らしの息遣いが満ちている。
「ざくろちゃん、昴君と同居してるんだね」
「同居、かなー? んんん、えっと――そんな感じ?」
「昴君から聞いたよ」
「どこまで?」
「え?」
「どこまで、聞きましたか」
その口調に気付いて、はたと横を見ると、ざくろちゃんは珍しく真面目な顔で俺を見上げていた。
「えっと……なんか、ユーチューバーみたいな感じでめっちゃ稼いでて……ざくろちゃんに家賃まで入れてるとか……」
「あのあの、ともさん、それ――何ていうか、あんまり、他の人に、言わないでくださいね」
「それは――」
ざくろちゃんの言わんとするところを理解するのに、数秒かかった。そして理解して、迷いに似た何かが心の中に沸くのを感じた。
すると、ざくろちゃんは俺の心中を見透かすように、言った。
「――分かってます。色々、アウトだって。るーちゃんが普段うちにいるのも、るーちゃんのお母さんのやってることも。でも――前に拓海さんが言ってたんです。全部背負ってやることはできないから、昴がせめてちゃんと選べるようにって」
「……」
「……私も、そう思うんです。勉強して、あのお母さんから独り立ちする方法をたくさん作るほうが。そっちが、きっと一番近道だと思うから。……その、虐待で、通報とかされても、――結局、終わりじゃ、なかったから」
「終わり?」
ざくろちゃんは、静かに、でも深く、頷いた。
「るーちゃんも、通報されて施設行っても、すぐ親が迎えに来たって。――それに、施設は、ずっといられるとこじゃないから。中学出てすぐバイトするとか、自分で探して自分で必死に足掻かなきゃいけないのは変わんない、みたいな」
「ああ……」
感情を込めずに話すざくろちゃんの声に、もしかしたらざくろちゃん自身も同じような経験を持っているのかもしれない、と思った。
だが、口には出せなかった。理由は分からない。
俺はただ、自分の中の物差しが簡単にぐずぐずと傾いてゆくのに、小さなショックを受けていた。
話を少し聞いて、少しばかり知って、それだけで、何が正しいのか俺には分からなくなる。
ついこの間まで、俺は自分を、超絶普通な人間だと思っていた。だけど、あのシェアハウスの面々の中にいると、俺のほうがマイノリティだということに気付く。
たまたま両親が揃った家に生まれ育ち、転勤族ではあったけれど普通に高校まで卒業して、お金に余裕はないけれど仕送りを多少貰いながら大学へ通い、地味な仕事にもありつき、大した病気も怪我も経験せず、俺は今ここにいる。そしてゲイでもない。
今の俺のスペックは、言ってみればただ単に、俺のくじ運が、可もなく不可もなく、だった結果に他ならない。
俺は、福引のガラポンの中に一番たくさん入っている五等賞の白い球を、偶然何度も引き続けてきたようなものなのだ。当たりは全然出ないし参加賞のティッシュばっかり溜まってく、と俺はぼやいていたけれど、人生の場合、福引に入っているのは当たりと参加賞だけじゃない。もし引いてしまったら酷い目に遭う罰ゲームの玉も、無数に混ざっている。そう考えると、福引じゃない、ロシアンルーレットなんだ、と思った。俺はたまたま、爆弾を引いたことがないだけで。
「――あっ、あのう、ともさん、そだ、そういえば今日のお蕎麦について五十嵐さんから聞いてますか?」
黙って考え込んでしまった俺に、斜め下からざくろちゃんが新たな話題を突っ込んできた。沈黙に耐えられなくなったらしい。また気を遣わせてしまった。ざくろちゃんはつくづく、全自動気ぃ遣いマシーンである。
「あ、ごめん。蕎麦? いや全然」
「やっぱり……」
「え? なにそれ? そんないわくつきの蕎麦なの?」
「うーんと、えーと……いわくつきっていうか、ちょおおおっとだけ覚悟しといたほうがいいかも」
「はあ?」
ざくろちゃんは、今日のメインディッシュ年越し蕎麦の背景を、真顔で説明した。
「あのですね、一昨年ぐらいに五十嵐さんの会社の、隣の部署の偉い人が、趣味で蕎麦打ちを始めたらしいんです。で、作ったお蕎麦を会社の人達にくれるようになったそうで」
「自分ちで食べきれないわけ?」
「えっと、その、自分ちでは、もうすっごいたくさん食べてるみたいなんです。ほら、始めたばっかりの頃は、イマイチなやつもめっちゃできるわけじゃないですか。既にそういうお蕎麦を、ほんと数えきれないぐらい家で消費してるらしいんです。奥さんも娘さんも、もうお蕎麦はうんざりだってぐらい食べてるって」
「うへえ」
どれほど暇と金を持て余そうとも、蕎麦打ちにだけは手を出すまいと思う話である。
「それで、その蕎麦打ち職人のマネージャーさんが、五十嵐さんがシェアハウスに住んでるって聞いて、みんなで食べてよって時々お蕎麦をくれるようになったんです。去年も年越し蕎麦は、それでした」
「……味は」
「んー…。まあ……ギリギリ、いける、みたいな?」
「ギリなのかよ……」
「あっ、でも去年いけたわけだから! 今年もいけるかもしれません! 五十嵐さん渾身の茹で加減で!」
「渾身の茹で加減って何!」
「あのあの、自家製だからちょうどいい茹で時間が毎回違うんです。五十嵐さんが十回ぐらい味見して茹でてくれるんです」
「……。俺、年とっても蕎麦打ちだけはやらないでおくわ」
「私もです」
からからとざくろちゃんが笑った。その時、ちょうどシェアハウスの明かりが見えてきた。ざくろちゃんが、ピンク色のキーケースから玄関の鍵を取り出した。キーケースには、小さなぬいぐるみやリボンのストラップがぶら下がっていて、どれが本体か分からないサイズ感だった。
ガチャリとドアを開ける。
「たっだいまあー」
「こんばんはー。お邪魔しまーっす」
「おかえりー」
遠くから五十嵐さんの声が聞こえる。温かくてしっとりした空気が頬を包む。
和室ではテレビが点きっぱなしだった。他愛のないバラエティ番組の歓声が、誰もいない部屋に流れて、生活音と混ざっている。ダイニングキッチンの引き戸を開けると、出汁の香りが柔らかく漂っていた。昴君と柳さんもいる。
「ども」
俺が会釈すると、柳さんも
「お疲れ様です」
と、ぺこりと頭を下げた。斜めから見ると、相変わらず睫毛が長かった。今日はシンプルな細いデニムを履いている。今回はデートファッションじゃないんだな、と俺は思った。タートルネックの黒いセーターの上で、化粧っ気のない無防備な横顔が、黒髪に縁どられている。
「てか皆さん、帰省したりしないんすね」
軽い気持ちで言ってから、しまったと後悔した。訳ありげな住人ばかりのシェアハウスで、こんな空気読めない発言をするんじゃなかった。つい先程、曲がりなりにも真面目に考え込んだばかりだというのに。
案の定、柳さんは俺をシャープな流し目で睨んで、言った。
「実家に帰ってもろくな目に遭わないので、帰省しないことにしています。わざわざ時間と交通費を割く価値はありません」
「はーい。僕はゲイばれしてから十何年、ばーちゃんの葬式でしか帰ってませーん。そして三が日は仕事でーす」
ついでに五十嵐さんも手を挙げた。フォローのつもりなのか天然なのかはさておき、五十嵐さんがあっけらかんと答えてくれたことに、俺は心底救われた気分になる。
「元旦から仕事っすか?」
「二日から。アパレルは社員総出で初売りセールの応援よ」
「うわ大変だ」
テーブルの上には、透明なプラスチックのパックに入った、出来合いのお惣菜の天ぷらが乗っていた。ざくろちゃんがそれを見て、感嘆の声を上げた。
「うわー海老天だあ。大きい!」
「蕎麦が微妙かもしれないと思って、天ぷらはデパ地下で奮発したよ」
「ねーねー五十嵐さん、今年のお蕎麦どお?」
「まだ謎」
ざくろちゃんが、ぽんと手を叩いて言う。
「あっそういえば去年、五十嵐さんとナギさんがお蕎麦食べながら『微妙だよね』って言ってたら、拓海さんが『え? そう?』って言ってて、びっくりしたんだよね!」
「そうそう、拓海、言ってた!」
五十嵐さんが笑い、柳さんも小さく噴き出した。
「ナギちゃんもざくろも『うーん……』って顔してたのに、拓海だけ普通にもぐもぐ食べてたよね!」
「しかも拓海さん、おかわりしてくれたよね……。あの微妙な蕎麦の残りを」
苦笑しながら、柳さんも言い添える。思ってもみなかったエピソードに、俺も苦笑するしかなかった。高給取りだったくせに、どこまでも貧乏性な奴だったらしい。
「うちの兄、味音痴だったんですか?」
「っていうか、拓海さんの中では、『美味しい』のハードルがすごく低かったみたいです」
「いやナギちゃん、あれは味音痴だよ」
「オレもそう思う。拓海さん、ざくろが作った超微妙なカレーも普通に食べてた」
昴君までもが、俺の背後からきっぱりと言い切った。五十嵐さんが深々と頷き、ざくろちゃんはガーンという効果音が聞こえそうな顔になる。
「あああ……拓海、食べてたね……そんなこともあったねえ……」
「るーちゃん、ひどい……」
料理初心者の鉄板メニューであるはずのカレーが超微妙とは、さすがざくろちゃん。だが、問題はそこではない。
「……兄貴、外資系コンサルタントのくせに、高級な焼肉とかフレンチとか食ったことなかったのか……?」
俺が呟くと、柳さんが答えてくれた。
「お仕事の関係で、高級なレストランや銀座のお寿司屋さんにも行ってたらしいですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。でも全然味覚は研ぎ澄まされてなかったですね。拓海さんの言う『美味しい』には、微妙な味も超絶品な味も全部含まれてました。酷くハッピーな舌の持ち主でした」
「やっぱただの味覚バカじゃねえか……」
鍋に蕎麦を投入しながら、五十嵐さんが言う。
「拓海は三百円の牛丼も銀座の寿司も平等に愛せる男だったんだよ。貯金が趣味だったし」
「まあ、なんかそれは俺にも察しがつきますね……」
「拓海、家買って早期退職に応募したいとか呟いてたよ」
「え?」
俺は、ここまで聞いて初めて、不自然な状況に気が付いた。母親からのメールを思い出す。兄貴のスペックで貯金が趣味だったのなら、やはり銀行口座の残高が少なすぎる。
五十嵐さんが、俺の思惑をよそに頭を抱えて叫んだ。
「あー! そういえば僕、拓海の家に住まわせてもらう予定だったのに! 人生設計が狂った! くっそー! こうなったら、ともくんに遺産で美味しいもの奢って貰わないと気が済まない」
「いやいやいや俺そんな貰ってないすよ⁉ てか兄貴の遺産、そんなにないと思いますけど⁉」
「そうなの?」
「たぶん……。俺にはよく分かんないすけど」
「へえ……? そしたらこれから埋蔵金が出てくるんじゃない?」
兄貴が、貯めたお金を他のことに使っていた可能性は無いのだろうか、という不安が俺の脳内をよぎったが、五十嵐さんはそこは全く疑っていないようだった。引き続き軽いノリで、俺に言う。
「拓海の埋蔵遺産が出てきたら、奢ってね。焼肉でいいよ」
隣で柳さんまでもが、頷いて口添える。
「助々苑でいいです」
「なんでですか⁉ ってそもそも俺、遺産貰えない気がすんですけど!」
「そうでしたっけ」
「両親、生きてるし! 俺に回ってこないと思いますよ⁉」
「それは誠に残念です」
柳さんが、ご愁傷さまですと言わんばかりの目で、俺を見た。シチュエーションはさておき、とりあえず柳さんはすっぴんの肌もきれいだよな、と思った。俺は案外マゾなのかもしれない。
五十嵐さんが、菜箸で鍋から蕎麦を一本つまみあげて味見し、唸った。
「うーん……」
「どお?」
すかさずざくろちゃんが訊ねる。
「……去年よりは、マシかもしれない」
もし仮に俺が、女性に対してドMであったとしても、味覚に関してはそうではない。五十嵐さんの口調に、俺は一抹の不安を覚えた。
それでも、部屋中に満ちている出汁の匂いと湯気の湿度は、なめらかに温かかった。
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