第17話
世間が正月に向けて、せわしなく駆けている。
信心深くない一般大衆は、クリスマスが終わった瞬間に、除夜の鐘と初詣へ向けてスタートを切る。俺は職場の忘年会で、酔っぱらった上司の意識高い系トークに、クソどうでもいいと思いながら適当に相槌を打った。
いつもなら年末年始は、気が向けば実家に帰省するところだが、両親の顔は葬式で拝んだばかりだった。それに、わざわざ交通費をかけてエンドレスお通夜みたいな微妙な雰囲気の実家(推定)へ足を運ぶだけのエネルギーは、俺には沸いてこなかった。俺は正月休みを東京で過ごすことにした。今年は喪中なわけだし。
仕事納めの夜、五十嵐さんからメッセージが届いた。
『実家帰るの? 帰らないで暇なら年越しそば食べに来てよ』
特筆すべき用事がまるで見当たらないので、俺は大晦日の夕方、シェアハウスへ向かった。
通勤ラッシュというものがない日なのに、公共交通機関はだらだらと無駄に混んでいる。電車を降りて、ベルトコンベアみたいな人波に流されて階段を上がり、改札を出たところで、雑踏の中に俺の目がふと留まった。
「あれ?」
人の流れから外れた隅に、ざくろちゃんが立っていた。彼女の前には、俺の知らない若い男性がいる。
「……ざくろちゃん?」
俺が思わず声をかけると、ざくろちゃんがぱっと顔を上げた。同時に、見知らぬ男も俺を振り返る
「ともさん⁉」
「……どしたの?」
「と、ともさんこそ、どうして――」
「いや……五十嵐さんに呼ばれて、そっち行くとこだったんだけど……」
ざくろちゃんの視線は、おろおろと若い男性と俺の間を行き来している。男性は、ざくろちゃんと同じくらいの背丈で、短い黒髪に黒縁眼鏡、黒いコートに大きなメッセンジャーバッグを肩から斜め掛けしていた。バッグに、アニメのキャラクターっぽい女の子の絵の缶バッジが、いくつも付いている。男性はあからさまに動揺した様子で、俺の姿を頭の先からつま先まで舐めるように眺めてから、ざくろちゃんに訊いた。
「え、ざくろちゃん、この人……、あっ、あの、キュートのお客さん?」
「いっいいえ、ともさんは、お店とは関係なくて――」
「え、そうなの? なに? あっ、もしかして……彼氏?」
男はざくろちゃんに尋ねているようで、あからさまに俺に言っている。黒縁眼鏡の奥の小さな瞳に、動揺と邪推の色が見え隠れする。
俺は、なんだかカチンときて、ざくろちゃんの代わりに答えた。
「そういうんじゃないですけど」
「なっ……なんなんですかね、あなた」
「まあ、兄がお世話になったってとこですかね、ざくろちゃんに。――てか、あんたこそ、何なの?」
男は俺の問いかけを無視し、視線を揺らしながら、ざくろちゃんに向かって口の中でもごもごと
「……あ、じゃあ、また、キュート行くから」
と言って、改札口の雑踏に消えた。
俺とざくろちゃんは、無言で男の後姿を見送った。黒いコートが人波に紛れて見えなくなった頃、ざくろちゃんがおもむろに口を開いた。
「…………ありがとう、ございます」
「いや俺は何も……ていうか、今の人、なに?」
「あのう、お客さんです。バイト先の」
「メイドカフェの?」
ざくろちゃんはこくりと頷いた。
「私の、メッセンジャーのアカウントとか、電話番号とか聞かれて。お店のルールではそういうの禁止だからって言ったんですけど、『実際はみんな、やってるんでしょ』って、なかなか諦めてくれなくて――」
「それ、ちょっとやばくない?」
まるでストーカー予備軍だ。しかしざくろちゃんは、困ったような笑みを浮かべて慌てて首を振った。
「あああ、でも大丈夫です! たぶん! そ、そういえばともさんはこれから⁉ あーそっか、お蕎麦食べに来るんでしたね! そかそか、じゃ先に行ってて下さい!」
「……? ざくろちゃん、これから帰るんじゃないの?」
「わわわわ私はちょ、ちょっとだけ遠回りしてから帰りますので! その、後つけられたりしてないか、一応、ほんと一応、念のため」
「え、それむしろ……俺も行く先は一緒なんだから、送るっていうか、一緒に行くけど……」
「そそそんな! わざわざ! ともさんを余計に歩かせてしまうような! そんな!」
「けど、外、暗いし」
「うにゃ……」
遠慮なのかちょっとしたパニックなのか、もはやざくろちゃん自身も良く分かっていない様子である。
「いや、けど、ここでさっきの男に後を付けられて、ざくろちゃんが夜道で再びあいつに捕獲されてトラブったりしたら、俺の夢見が悪すぎるんだけど……」
俺が正直に言うと、ざくろちゃんはうつむきながら、
「じゃあ……」
と言った。
俺はざくろちゃんに先導されて、デート中のカップルよろしく二人で駅ビルに入った。大晦日の人混みが、変なテンションで浮ついている。明るすぎる照明は、てかてかした床に反射して、足元をひどく明るく照らす。俺達はエスカレーターを上がり、上階へと進んだ。
二つほど上のフロアでエスカレーターを降りると、目の前には、フワフワした可愛らしい洋服や靴下や、細々としたアクセサリーを扱う店が並んでいた。
俺、完全にアウェーである。非日常である。
つい先程まで、夜道を歩く女の子のお供をするくらいのつもりだったのだが、こういう想定外の展開が待っていたとは。
ざくろちゃんのすぐ後ろを微妙にエスコートするように歩きながら、俺はとにかくひたすら挙動不審にならないようにだけ、努めた。もう見た目は完全にデートだよな、と意識した途端、『もし仮にこれがざくろちゃんじゃなくて柳さんだったら』という妄想が脳裏をかすめたが、その件について今ここで本格的に考えると色々とヤバい予感しかしないので、必死に断ち切った。
冷静に冷静に冷静に、と心の中で唱える。
ざくろちゃんは、手近な店にふらりと立ち寄った。化粧品と思しきボトルや容器が、棚に品よく並べられていた。いい匂いが漂っている。俺以外は、客も店員もみんな若い女性ばかりだ。俺はさり気ない風を装いながら、手近な商品のボトルを手に取った。裏返すと、オーガニックとか何とかオイル配合とか、色んな形容詞が付いたシャンプーだった。三千九百円、と書いてある。
俺は咄嗟に変な声が出そうになるのを堪えた。シャンプー一本で三千九百円? シャンプーって、あの、髪洗うやつ? リンスは? リンスは別売りなんだよね?
混乱する脳みそ模様を押し隠しながら、ボトルをそっと元の棚に戻す。
俺はふと、いつかどこぞの探偵モノだか何だかで見た、女性が尾行を巻くために下着売り場に入る、というテクニックを思い出した。
つまりはそういうことだ。この駅ビルのフロアも然りで、野郎どもの世界とは、もう完全に色味が違う。
店員に捕まらない程度に石鹸やシャンプーを見て、ざくろちゃんと俺は店を出た。先程昇ってきたエスカレーターは使わず、他の洋服の店の間を歩いてフロアの反対側まで行き、エレベーターで一階まで降りた。
駅ビルを出ると、外はもう真っ暗だった。
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