第16話

衣類はほとんど段ボールに詰め終わり、本やDVDも七割程度をやっつけていた。最近は便利なもので、リサイクルショップに持ち込まなくても、ネットと宅配便で中古品を売り払うことができる。俺は独断と偏見で状態の良い服ばかりを詰めた段ボールを作り、ネットで中古衣類の買い取り専門の業者を手配した。これで、だいぶ部屋が広くなるだろう。

宅配便の集荷依頼を済ませ、俺はひとつ大きな伸びをして、廊下に出た。

小腹が空いていた。ダイニングにお菓子でもないかと思い、階段を降りた。

ダイニングテーブルには、丼を前にした昴君が座っていた。

「あれ、昴君。何して――」

「ちょっと黙ってて」

「へ?」

話しかける俺を、昴君はぴしゃりと静止した。椅子に座り、正面には、蓋代わりに適当な皿を載せた丼が置かれている。昴君はそれをただひたすら、じっと見つめている。

一体なにをしているのだろう、と考えあぐねた頃、突如ピピピピという電子音が鳴り響いた。

「十一秒ずれた」

昴君はそう呟いて、冷蔵庫に張り付いていたキッチンタイマーをもぎ取り、音を止めた。

「もういいよ」

「……。何してたの?」

「百八十秒数えてた」

淡々と答えて、丼の上の皿を外す。中から湯気の立つインスタントラーメンが顔を出した。卵も浮いている。

「正確に時間が計れるようになったら面白いと思って、練習してる」

「なるほど……」

「怒られてる時とかにいいよ。そういう時、時間、長く感じるけど、実際はそうじゃないのが分かるし」

「君、やっぱ頭いいね」

昴君は俺の誉め言葉をスルーして、ラーメンをすすり始めた。少しジャンクな匂いが漂う。

「……美味そうだね」

「食べる? まだもう一袋ある」

「いいの?」

「これ拓海さんが置いてったやつだけど」

「自分のじゃねえのかよ!」

インスタントラーメン、まさかの兄貴の遺品である。

ならば遺族の俺が頂いても、何の不都合もあるまい。むしろ順当だ。俺は最後の一袋のラーメンを食べることにした。

「お湯はコンロのやかん使っていいから。丼は食器棚の下の段」

「サンキュ」

「卵は冷蔵庫」

「まさかと思うけど、卵も兄貴の残り物じゃないよな?」

「そんな古くない。一昨日ざくろが買ってきたやつ」

「卵も自分のじゃねえのかよ!」

「ざくろのだから大丈夫」

何が大丈夫なのか分からない。俺は水を入れたやかんを火にかけ、笛を吹くまでじっと待つ。斜め後ろから、ふうふう冷ましてラーメンをすする、旨そうな音がする。

どことなく、居心地の悪さが首をもたげる。

その正体に気づいて、俺はぽつりと言った。

「――こないだは、ごめん」

「……なんの話?」

「その――昴君の親のことに、余計な口出しして」

振り返ると昴君は、俺の言葉に眉一つ動かさないで、ラーメンを咀嚼していた。飲み込んでから、さらりと言う。

「別に。うちの親、馬鹿なのは事実だから」

「……。君、ほんと苦労してそうだよね」

昴君の母親が育児放棄しているのは、先日聞こえた電話の内容から、容易に想像がついた。昴君は、駄目な大人のもとに生まれて、異様にしっかりせざるを得なかった子供なのだろうか。今後、よそさまの子供に「しっかりしている」という誉め言葉を使いづらくなりそうだ。安易に同情するのは、失礼な気がする。

「家庭訪問、大丈夫だった?」

「ふつーに終わった。今回は親も家にいたし」

「……前回はいなかったわけ?」

「彼氏と出掛けてた。彼氏と休みが合ってせっかく生理終わってエッチできるのに学校の教師とかウザイって。まあ、先生が来る前にぎりぎり帰ってきたけど」

「……」

脳みそが追いつかない。

俺の頭を象徴するかのように、やかんが湯気と共に笛を吹いた。

コンロの火を止めて、丼の乾麺の上に注ぐと、昴君が蓋代わりの皿を被せてくれた。

「卵、入れたらいいのに」

「いや、だってざくろちゃんのなんでしょ」

「別にいいと思うけど。ざくろの家賃、だいたいオレが出してるし」

「はあ?」

何でもないことのように昴君が言うので、俺は再び面食らった。

「なにそれ? 君、そんなに稼いでるの? 天才子役とかじゃないよね?」

「違うよ」

昴君は、今度は本気で呆れた顔で俺を見た。

「ネットで色々。動画作ったりとか、まとめブログとか、広告収入とか」

「……なんだそりゃ。それでざくろちゃんと共同生活してるわけ?」

「そんなとこ」

俺はしばらく呆気に取られて、丼と昴君を交互に見つめていた。次に出てきたのは、自分でも思いがけない、だが正直な感想だった。

「――君、すごいね」

昴君は、少し目を丸く見開いて、俺を見た。

「君のが、俺よりずっと、サバイバル能力あるんじゃないの」

単純に生きていく力という点で、目の前の少年は、少なくとも俺より上なのではなかろうか。そう感じたのだった。たとえ仕方なく身に付けた能力であっても、尊敬に値するだろう。

「……拓海さんにも、似たようなこと言われた」

不意に昴君が、小さく呟いた。

「兄貴に?」

「うん。お前は生きる力のある奴なんだな、すごいな、って。――褒められても全然嬉しくないんだけど」

「……失礼しました」

確かにそうだ。

俺も軽率に褒めてしまったけれど、本来、子供なら大人に頼るのが当たり前なのだ。

そう考えると、人を頼るのも能力なのかもしれない。子供のうちに存分に発揮すべく、備わっている能力。

俺は三分で仕上がったほかほかのラーメンをすすりながら、先日柳さんに訊いたのと同じことを、昴君にも訊いてみることにした。

「なあ、うちの兄貴って、昴君から見て、どんな奴だった?」

「どんな奴……うーん」

昴君は、テーブルの向かい側で少し悩んで、答えた。

「うちの親の逆」

「どういうこと」

「馬鹿じゃなくてチャラくなくて自信たっぷりじゃない。距離は近いんだけど、間をちょっと持ってて、ぐいぐい来ない」

「それは……褒めてる?」

「たぶん」

昴君が言葉の裏で遠慮なく自分の母親をディスっているのは、気付かなかったことにした。

「拓海さん、色んなこと知ってた」

「だろうね……」

「うちの親みたいになりたくないって、オレが言ったら、勉強しろって。学校なんて行かなくてもいいけど、勉強はしろって。そしたら自分が何も知らないんだってことが分かるから、って」

「『何も知らない』?」

昴君は、小さく頷いた。

「うちの親とか、親の友達とか、自分が底辺の低学歴だって気が付いてない奴、いっぱいいる。それで自信満々で、声がでかい」

「――君は、そういう大人にはなりたくないってことか」

「だって嫌でしょ。誰だって」

「そうかもね」

「ダサい。はっきり言って。かっこ悪い」

昴君は控えめな声で、しかし静かな力を込めて、言った。

俺は自分の子供のころのことを思い出そうとしてみた。

何も出てこない。

たぶん、約二十年前の俺は、そこまでオツムが回っていなかったと思う。かっこ悪い大人になりたくない、なんて危機感を抱くほど、ものごとを考えていなかった。あるいは、年月が経てば自動的に大人になってかっこよくなれる、と楽観視していたのだろう。俺は深々とため息をついた。

「かっこ悪くない大人になりてーな……」

「そんなに悪くないと思うけど」

昴君が慰める。相変わらず淡々と喋るので、お世辞なのか本気なのか分からない。

「兄貴ほどハイスペックじゃねえよ、俺は。見ての通り」

「――拓海さんも、ハイスペックだったけど……」

「けど?」

「ちょっと、――ざくろみたいなとこ、ある気がした」

意外なところでざくろちゃんの名前が出てきた。昴君はさらに続けて、俺が予想だにしていなかったことを尋ねてきた。

「拓海さん、子供の頃、いじめられてたこと、あった?」

「えええ? ……どーかなあ。俺、年離れてたから、学校での兄貴とか、よく知らないんだよね」

「ふーん」

昴君は、考えるように俺から目を逸らす。

「――ざくろ、自分に全然自信ないっていうか、周りの殆どの他人のことを、自分より超存在価値ある人間だと思ってる。だから、どこ行っても超いじめられる」

「どこ行ってもって……学校とか?」

「学校とかバイト先とか。――ほら、いじめる奴って、自分より格下だなって奴をかぎ分けて、格下を見つけると今度はそいつで遊びたくなるじゃん。だからプライド低いと、暇つぶしのオモチャにされやすいんだと思う。だいたい、あいつ本名さくらなのにざくろって呼ばれてるのだって、由来は、昔のバイト先の居酒屋で名札に落書きされて『さくら』が『ざぐろ』にされて」

「本名じゃなかったの⁉」

「本名さくら。漢字は忘れた」

「普通の木へんの桜じゃなくて?」

「違う。漢字三文字で、なんか超キラキラネーム」

「なんつー…」

いじめられた時のあだ名を、そのまま受け入れてしまうとは。はたから見たらざくろちゃんがひどくポジティブな性格の持ち主みたいだ。だがそれは、羨ましくなるタイプのポジティブシンキング、ではないように思えた。

「そんなに、ってか、そこまで、自分を卑下することないと思うんだけどなあ。ざくろちゃんは」

「そう思う?」

「まあ、そりゃそうでしょ。結構可愛いと思うし」

「巨乳だし?」

「……。知らないけど。そうなんですかね」

「そこそこ」

昴君は、食べ終わったラーメンのスープをこくりと飲んで、軽く頷いた。

「――ざくろは、不器用だし、どんくさいし、頭もあんまり良くないし、料理も下手だけど、……」

昴君の言葉の続きを待ちながら、俺も、麺がなくなった丼を傾けて、スープを一口飲んだ。ジャンクなチキンコンソメの味がした。まだ、ほんのり温かかった。

「あいつ、オムライスにケチャップで絵を描くのだけは、めちゃくちゃ上手い」

俺は、ざくろちゃんがメイドカフェの制服を着て、オムライスにケチャップで絵を描いているところを想像して、ちょっとほっこりしながら言った。

「それって、すごい特技なんじゃないの」

「だよね」

俺の気のせいかもしれないけれど、昴君も、初めて少し笑ったように見えた。

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