第15話

何度か通ううちに、シェアハウス内のルールが、俺にも少しずつ見えてきた。

ダイニングキッチンの食器棚に入っているコップや皿は、名前が書かれていなければ誰が使っても構わない。それぞれの住人が自分専用にしておきたいマグカップなどは、裏返すと名前が書いてある。もっとも、以前の住人が置いていったと思しき、知らない名前の書かれた食器については、無記名と同じ扱いである。冷蔵庫と、その横の棚の食べ物についても、各々が直接名前を書いたり付箋を貼ったりしている。テーブルの上のかごに入れられたお菓子や果物は、自由に食べていい。住人が独身者ばかりでありながら、残り物について悩まなくていいのは、結構効率的なシステムだと思う。

先週の鍋パーティーは、俺にとって(五十嵐さんの期待に反し)トホホな結果に終わった。柳さんは始終俺を冷たくあしらい続け、俺は酔いつぶれるほどの勇気もなく、締めの卵おじやとアイスを食べた後、終電を逃さないようしっかり時間をチェックして、シェアハウスから遁走した。

そして、酔いつぶれるほどの勇気は発揮しなかったくせに、翌日は二日酔いの頭痛で丸一日を棒に振った。自宅アパートの自分の布団にくるまって、惰眠をむさぼりながら己の不甲斐なさを呪っているうちに、日が暮れた。

世間は順調に、クリスマスへカウントダウンしている。街角で郵便局員が年賀はがきを売っている。年が変わろうとしている。

兄貴はもう歳を取らない。

死んだ人間を背後に残して、日々が通り過ぎていく。暦は一瞬たりとも立ち止まらない。

ダウンジャケットを着ていても、空気は冷たかった。

週の半ばに、母親から不可解なメールが届いた。

シェアハウスの兄貴の部屋の家賃は、今月分は既に支払い済みで、来月分も支払予定だという。それはいい。ほんの二、三週間で荷物の片付けを終えられる自信はなかったので、助かったと言える。

だが、俺が引っ掛かったのは、母親からのメールの、

〈家賃もお葬式もお金のことは心配しなくて大丈夫です。たっくんの口座に三百万円くらい貯金があったので。とりあえずお父さんとお母さんで何とかします〉

というくだりである。

俺は目を疑った。

兄貴の貯金が、たったの三百万?

もちろん、三百万円は、俺にとってはものすごい大金だ。もし中東の石油王が間違えて俺の口座に三百万振り込んでくれたら、俺は三昼夜ぐらい狂喜乱舞し続ける自信がある。しかし、外資系コンサルティング会社のやり手だった兄貴の年収と、シェアハウスでの暮らしぶりを推察すると、話がかみ合わない。兄貴には、結構膨大な額の可処分所得があったはずではなかろうか。

迷った末に、俺はその疑問を、とりあえず自分の腹の中だけにしまっておくことにした。単に、面倒だったからだ。ホモ知っていましたの一件以来、父親からも母親からも音沙汰はなかった。そして、久し振りに届いた事務的連絡のメールには、まだ行間にぎこちなさがありありと現れている。

老親の相手をするのはとても面倒くさく、喪中の俺に正月準備は不要で、クリスマスは完全に他人事なので、次の休みの午後も、俺はシェアハウスへ向かった。(正月準備などしたことがなく、クリスマスにロマンチックなディナーを堪能したこともないのは、この際おいておく。)

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