第14話
三人がいなくなると、先程とはまた違う種類の静けさがやってきた。
鍋の下で、カセットコンロの青白い炎が、ちらちらと見え隠れする。
相変わらずくつくつと沸いている音が、妙に大きく感じられる。
だが、気まずさよりも、先程の電話の向こうの昴君の親とやらに覚えた怒りが、まだずしりと腹の底に残っていた。
俺も、もしかしたら、結構酔っているのかもしれなかった。俺のほうが先に口を開いた。
「……火、止めといたほうが、いいですよね」
「そうですね」
柳さんが、こたつ布団から手を出して、コンロの火を消した。
「どうせ外、寒いから、アイスより先に卵おじやになるだろうけど」
思わず俺は、小さく噴き出した。
「アイス買って、寒い寒い言いながら帰ってきそうですよね」
「たぶん、そういう間抜けな感じになります」
鍋の火を消すと、今度は本格的に部屋の中が静まり返った。この段階になって俺はようやっと、柳さんと二人きりで取り残された状況を呑み込みつつあった。
遅すぎる。
……絶対酔ってる。俺。
やばい。
俺は遅ればせながら、会話の糸口を脳内で検索し始めた。その時、柳さんが不意に言った。
「――いつもは、あんなんじゃないですから」
「は?」
柳さんは面食らう俺に向かって、怒るように、相変わらず赤く上気している頬を膨らませて言った。
「いつもあんなに、恋愛の話なんて、してるわけじゃないですから」
視線を逸らし、柳さんはむっつりとした顔で、日本酒のグラスを右手に握っている。
「……拓海さんが悪いんです。いきなり死んだりするから」
唐突に兄貴の名前が出て、俺は心がざわつくのを感じた。
柳さんの視線の先を追うと、手作り仏壇が、そこにあった。
写真の前に、今日先程開けたのと同じ缶ビールが一本、新たに備えられている。
俺は、ぽつりと訊いた。
「……ナギさんから見て、うちの兄って、どんな人だったんですか」
「どんな、って――」
「いや、ほら、俺、弟ですけど、兄が大学で実家を出てからあんまり帰ってこなくなったし、大人になってからは輪をかけて疎遠っていうか――よく、知らなかったんすよ」
「……。そうですね。拓海さんがヘテロじゃなかったのすら、知らなかったぐらいですもんね」
「ヘテロ?」
「異性愛者、普通に異性を好きになる人のことです」
そういえばそんな言葉もネットで見かけたような気がする。口調はドライだが、馬鹿にせずに教えてくれた柳さんに、俺は心の中で感謝しながら、頷いた。
「ほんとそこですよ。兄が同性愛だったのだって、死んでから知ったぐらいなんだから、俺よりも同じ家に住んでた皆さんのほうが、多分、うちの兄のこと、よく知ってます」
柳さんは押し黙ったまま言葉を探しているように見えたが、しばらくして、眉をしかめて言った。
「――正直、私は、ちょっと、苦手でした」
意外な発言だった。
だが、俺が理由を問う前に、柳さんが再び口を開いた。
「なまじ頭が良いからこそ、あんまり人のあれこれに口出ししない人で。なのに、そのくせ変に情が厚いみたいなところがあったから。――どこまでこっちを見透かしてるのか分からなくて、腹が立つ」
「ああ……」
どうしてか、少し分かる気がした。
「拓海さんは読書家で引き出しが多い人だったから、昴君とはずいぶん仲良かったですけど」
「それは俺も聞きました。あの兄貴の本棚の本を、昴君、結構借りて読んでたみたいですね」
「ええ。昴君が学校行ってないって知っても、あっそう、って感じで興味ないようなふりして、そのくせ良い本を見つけると熱心に薦めるんだから。小学生に」
「他人に興味あるのかないのか、分かりづらい奴だったんですね、うちの兄は。ポーカーフェイスだったんですか?」
「違いますね。今となっては、ひたすら穏やかだっただけだと思います」
褒めているのか、けなしているのか。柳さんの言葉と横顔に、色んなものが見え隠れしている。こたつと日本酒で赤く染まった頬の上で、僅かに瞳がうるんでいるような気もしたが、ただの俺の勘違いかもしれない。
「いっそ鬱陶しく他人に口出ししてくれたほうが、まだ分かりやすいのに。酔っぱらっても毒も吐かないし、記憶も飛ばさない、それどころか、こっちが覚えてないことまで覚えてる。本当、迷惑」
吐き捨てるように、迷惑、と付け足した柳さんの口調に、俺はなぜか少し笑ってしまった。
五十嵐さんも柳さんも、兄貴に置いていかれて拗ねている。そう考えると、いろんな辻褄が合う。
常識的に考えれば不謹慎な発想だろうに、なぜか妙におかしかった。
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