第9話
「あ、懐かしー。これ僕があげたやつだ」
背後から、ほっこりしている五十嵐さんの声がする。俺が振り返ると五十嵐さんは、見て見てー、と手のひら大のなにかを俺に手渡した。
「名刺入れ……?」
「そうそう。付き合いだすちょっと前に、誕生日が来たからあげたの」
銀色の金属の、ひんやりとした感触。傷だらけでかなり使用感がある。開けてみると、裏蓋に、兄貴のスーツやセーターと同じ老舗ブランドのロゴが刻印されていた。蓋の左右にある蝶番が、片方壊れている。
「懐かしいなあ。壊れちゃったのは聞いてたけど、捨てないでとっといてくれたんだー。嬉しー」
「へえ……」
五十嵐さんが優しさとトキメキの入り混じったような目で名刺入れを見ている、その隣で、俺は小さく罪悪感を覚えた。
死んだ兄貴と対面して以来、俺は一度もこんな風に故人を懐かしんでいなかった。俺は血の繋がった弟で、通夜にも葬式にもしっかり出たというのに。
微妙な気分から逃げたかったのか、俺は名刺入れを五十嵐さんの手に押し戻した。
「――貰っといてやってください」
「いいの?」
「そのほうが兄貴も喜ぶんじゃないですかね」
ふと口をついて出た言葉だが、それは本意だった。
「ありがとうー」
五十嵐さんがエヘヘと笑う。目を逸らして、俺は精一杯のさり気なさを装い、話題を変えた。
「五十嵐さんってアパレルのお仕事してるんですよね」
「そうだよ」
「土日はお休みなんですか?」
「うん、僕は販売じゃなくて本社だからね」
「何なさってるんです?」
「お店のディスプレイとか、ショーウインドーとか作ってる。僕の担当はプラン作るほうだから、基本カレンダー通りで土日休みかな。時々、店が閉まった後に深夜作業することもあるけど」
「へえ……なんか、芸術的ですね」
「全然芸術的じゃないよ」
五十嵐さんが首を振った。
「そうなんです?」
「本社の言いなりだよ。ブランドのイメージ壊すなって神経質で上が凄いやかましい。要はイギリスの植民地よ」
「はあ……」
あまりピンとこなかった。俺には想像もつかない世界だ、ということしか分からなくて、五十嵐さんに返すコメントが思いつかない。
会話が途切れてしまった。
俺はふと目線を泳がせ、少年のほうを見やる。
「――えっ? マジ?」
俺は驚いて自分の目を疑った。昴君の腕には、分厚い本や渋い表紙の文庫本が、こんもりと抱かれているではないか。
『大いなる遺産』、『輪廻の蛇』、『檸檬』、『誰でもない庭』、『カラマーゾフの兄弟』上巻と下巻、『陰陽師』、……。
「えええ……君、そんなに読むの?」
「……」
昴君が冷ややかな視線(俺の被害妄想かもしれないが)を返してきた気がして、俺は慌てて付け加える。
「あ、いや、好きなだけ持ってって構わないんだけど、ちょっとびっくりして――君、小学生だよね?」
「はい。一応」
「一応って……」
「あれもいいですか」
昴君が指さした先には、本棚の上に積み上げられた文庫本の山があった。背表紙には『水滸伝 四』『水滸伝 十二』――とにかく『水滸伝』が漢数字でナンバリングされている。続き物らしいが、いったい全部で何冊あるのか。
「…………どうぞ……」
「ありがとうございます。後でもっかい、取りに来ます」
本の山を抱えた昴君は、呆気に取られる俺の前を通過して、自室に帰っていった。目を点にしたまま彼の後姿を見送り、呟く俺。
「……ハイパー小学生……」
「読書家だよね昴は」
「読書家って次元ですかあれ。彼、本当に小学生なんですよね?」
「そうだよ。ほぼ行ってないけどね。学校には」
五十嵐さんがさらりと言った。俺はさして驚かなかった。むしろ納得したくらいだ。俺は小学生のころ、1センチ以上の厚みのある本なんて、年間一冊ぐらいしか読んでなかったかもしれない。もしも仮に、ランドセル背負って傘でチャンバラしていた小学校時代の俺と、今の昴君が同じ空間にいたとして、会話が1ミリもかみ合わないことは容易に想像できる。
「確かに学校に馴染めなさそうですね」
「だから大体、家にいるよ。自分でスケジュール組んで、本読んだり勉強してる。拓海からしょっちゅう本借りてた」
「ああ、それで……」
なるほどと再び俺は納得した。昴君は、兄貴の本棚のラインナップを以前から把握済みだったのだ。
「けど、こないだ中学三年の数学の問題集を普通にやってて、さすがにあれは戦慄が走ったね」
「……。……天才ですか」
「そんな感じだね」
もはやこの家で何を聞いても驚くまい、と俺は誓った。俺自身にとって「兄貴がゲイだった」を超えるネタは、そうそう無かろう。学校になじめない登校拒否の天才少年なんて、きっと日本中に何人もいる。
「お疲れ様です」
昴君と入れ替わるように、今度は部屋の入り口から柳さんがひょっこり顔を出した。
「あ、お疲れ様です、何か用ですか」
俺は柳さんへ会釈を返した。だが柳さんの目線は、俺をスルーして五十嵐さんへ向けられる。
「私、出かけますんで。ざくろちゃんもさっきバイトに出ました」
五十嵐さんは、柳さんの姿を頭の先からつま先まで舐めるように眺めてから、言った。
「あ――、ナギちゃんデートでしょ」
「なっ――」
柳さんの顔が一気に赤くなる。同時に俺の脳内も、パニック状態に陥る。
「で、でーと?」
思わず俺の口から、動揺がはみ出て零れ落ちた。
言われると確かに、柳さんの恰好はシックな色味のワンピースだし、首元には金色の花のネックレスが見える。更によくよく見れば先程までとはメイクも違って、目元には自然ながら綺麗にアイシャドウが塗られ、唇も艶のある口紅で彩られている。
「ナギちゃん、まだあの男と付き合ってんの?」
「――っ、五十嵐さん、には、関係ありませんから!」
「うわ出た。つくづく呆れちゃう。馬鹿だねー」
「馬鹿で結構ですっ」
「自覚してんなら切ればいいのに、妻子持ちの男なんか」
妻子持ち⁉
ただでさえグルグルに混沌中の俺の脳内へ、更なるパワーワードが降ってきた。
デート? で、相手が、妻子持ち?
聞き間違いではなかろうか、と俺は柳さんの顔を見た。だが次の瞬間、真っ赤な頬を膨らませた柳さんの一言に、とどめを差される。
「――さっ、妻子じゃないです! 子供はいませんから!」
妻はいるのかよ! 不倫じゃねえかよ!
「とにかく、帰りは遅くなりますから!」
柳さんは乱暴にドアを閉めて――もともと開けっ放しだった兄貴の部屋のドアを、わざわざ閉めて――階段を駆け下りていった。茫然自失、閉じたドアの木目を見つめる俺。その背後で、深くため息をつく五十嵐さん。
「ほんっとこれだから、あの女は」
俺はしばらく金魚のように口をぱくぱくさせていたが、動揺を必死に腹の底へ押し込んで、ようやく声を絞り出した。
「……あの、つまり? 柳さんはこれからデートで、その相手は妻子、じゃない妻持ちで、てことは既婚者ってことですよね? それって不倫ですよね?」
「少なくともこの国で一夫多妻制は認められてないよね」
「相手はアラブの石油王とかじゃないんですね?」
「第二夫人とか第三夫人とかはナシな相手だと思うよ」
五十嵐さんは、呆れかえった顔で付け加えた。
「だから倫子の倫は不倫の倫って言われんだよ」
……なんという。
「……それ、ひどくないすか。不倫の倫て」
「だって不倫体質なんだよあの子」
「あの、柳さんって、そんなに既婚者を吸い寄せる人なんですか」
「少なくとも僕の知る限り、歴代の彼氏が不倫男か浮気男だね」
「えー!」
衝撃である。俺は何となく、黒髪とつぶらな瞳、華奢な手足、スレンダーなシルエットの柳さんなら、独身男の彼氏を作るくらい朝飯前なのではなかろうかと信じて疑っていなかった。東京には独身の、フリーの、浮気相手以前に本命彼女すらゲットできていない男がわんさかいるはずなのに、なぜ柳さんはよりにもよって浮気男ばかりを渡り歩いているのか。
「そんな……どうして……」
「理由なんて知らんがな」
「でも、柳さんなら、その――もっとマトモな彼氏、できそうなのに」
「……」
五十嵐さんはしげしげと俺の顔を眺め、唐突にニヤリと笑った。
「ははーん? さては君……ナギちゃんに惚れてたか」
「‼」
今度こそ俺は、思いっきり慌てふためいた。隠す余裕などこれっぽっちもない。
「ほっ――惚れてとか、ちょっ、いや、その――俺は、ちが」
「違わないでしょ、そのリアクションは」
「……っ」
不意打ちすぎた。むしろ俺が無防備すぎた。お陰でぐうの音も出ない。自分の顔が耳まで赤くなっていくのが分かる。
「へー。そうかそうか。あの塩対応が好みか。Mだね」
「違いますよ‼」
「もうばれてるから隠さなくていいよ。顔に書いてあるよ。ガラス張りだよ」
「うわあああ!」
もはや、頭を抱えるしかなかった。出会ったばかりの相手が超ストライクでした、なんて、中学生の一目惚れと次元が同じではないか。それをアッサリ見抜かれハッキリ指摘されバッサリ言語化され、俺は無性に恥ずかしかった。穴が無くても掘って入りたい。
ショックで今にも膝から崩れ落ちそうな俺の肩を、五十嵐さんがぽんぽんと叩いた。
「とっもゆっきくん」
「……なんですか……」
「次の鍋パには呼んであげるよ」
「なべぱ?」
「鍋パーティー」
五十嵐さんは、相変わらずニヤニヤ笑っている。とても楽しそうだ。
「いやーホラさ、ナギちゃん自身のためにも、たまには童貞独身男と付き合ったほうが絶対いいじゃん?」
「決めつけないで下さい」
「だからさ、ナギちゃんがピュアな干物童貞独身男のマトモさに触れる機会を用意してあげようと」
「人の話聞いてます⁉」
「そこで鍋パ。こたつの中でひざ突き合わせて」
「聞いてないですね⁉」
「身も心もほかほかだね!」
「ですから!」
「ともくん、休みは土日だよね」
事態の主導権は、もはや完全に五十嵐さんに握られていた。
五十嵐さんはポケットからスマホを取り出し、スケジュールのアプリを起動して「いつにしよっかなー、来週かなー? 再来週かなー?」と鼻歌まで歌い始めた。もしかしたら喜ぶべき状況なのかもしれないが、俺は壁に頭をぶつけたい気分だった。
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