第8話
翌日の日曜も、俺は国分寺のシェアハウスに足を運んだ。
目が覚めた頃にはとっくに昼を回っていた。カサカサに乾燥した空気が、寒かった。
身支度だけ整えて、アパートを出る。
くそ寒い中、コンビニのおにぎりで腹を膨らますのは気が進まず、かといって起き抜けに定食屋やラーメンという気分でもなかったので、駅前の立ち食い蕎麦屋に入り、うどんを頼んだ。油揚げは薄く、立ち上る湯気は温かかった。立ち食い蕎麦屋の、あのテロのように食欲をそそる出汁の匂いが、実はハッタリなのは分かっている。実際の味は、匂いほどじゃない。でも、そんな詐欺っぷりも、今日はまるで気にならなかった。俺はほっこりと温められた気持ちになって蕎麦屋を出た。ふと思い立って、数件隣のドーナツ店にも寄って、チョコやクリームでカラフルに仕上げられているドーナツを七、八個買った。
電車の中で、携帯が静かに唸った。画面を見ると、実家の母親からのメールだった。
衝撃の事実を知った昨日、俺は実家の母親にメールを送ってみたのだ。
〈兄貴がゲイだったの知ってた?〉と。
文末にクエスチョンマークを付けてはいるが、母親が「知っていた」のは、もう俺には分かっている。
ただ、俺だけ知らなかったことへの鬱憤をぶつけるように、文字を打ち込んだのだった。
新着メールを開封すると、母親からの返信は、たったの一行だった。
〈知ってました〉
……おい。
普段お袋のメールは、
〈先週はお父さんが自治会の掃除で風を弾きました。ともちゃんも寒いけど体に気をつけてね(^O^)〉
みたいに非常にどうでもいい情報(と誤変換)でデコレーションされているのである。
それが今回に限り、たった六文字。
俺がメールしたのは昨夜。返信まで十二時間以上。それで六文字。
よく根拠が分からないまま、なんだかもう、全てがバカバカしくなってくる。
ふと目を画面から外すと、自分が持っているドーナツの箱の、カラフルな絵柄が目に入った。俺は携帯をポケットに押し込んで、電車を降りた。
国分寺のシェアハウスの玄関は、昨日と同じように閉まっていた。
俺は若干躊躇しつつ、兄貴の遺品(でありお袋から押し付けられた物)の二本の鍵を、玄関ドアに突っ込んでみた。
一本目は鍵穴に全く入らなかった。二本目がするりと入り、回った。
「えー、ごめんくださーい……こんちはー。鈴木でーす……」
誰も出てこない。挙動に少し遠慮を漂わせながら靴を脱ぎ、玄関を上がると、ようやく軽い足跡が聞こえた。二階から階段を降りて来たのは、少年だった。
「あ、弟さん」
「友幸です。――えーと」
「昴」
「すばるくん。……こんちは」
「……ども」
おっさんか。
少年改め昴君は、俺にぺこりと頭を下げると、再び階段を上がっていった。様子を見に来ただけ、だったらしい。同時に廊下の奥の引き戸が開いて、柳さんが顔を見せた。
「こんにちは」
「お疲れ様です」
柳さんは俺に小さく会釈し、とても事務的な挨拶を返して、ダイニングキッチンに戻っていった。
俺は柳さんの後に続いて、ダイニングに足を踏み入れた。
ものすごい実家感(という言葉があるとすればだが)に満ち溢れたダイニングキッチンだった。
四人掛けの木製のテーブルの周りに、揃いの椅子が四脚と、折り畳みの木製の椅子が一脚。部屋の壁の一面はシステムキッチンになっており、シンクでざくろさんが洗いものをしていた。水切りかごに乙女チックなマグカップや渋い丼が載っている。慌ててざくろさんが振り返る。
「あっ、えーと鈴木さん! えーとえーと! ……鈴木さん!」
「……友幸です」
「ともゆきさん! おおおおおつかれさまですっ!」
昨日と何一つ変わらないテンションで、ざくろさんが俺に挨拶した。俺はドーナツの箱を差し出して、言った。
「あの、これ差し入れです」
「ほああ……! ああありがとうございますうぅ」
仰々しい手つきで、ざくろさんがドーナツの箱を受け取る。俺はお土産贈呈だけ済ませて、ダイニングを出た。
後ろ手に閉めた引き戸の向こうで、柳さんとざくろさんの話し声が聞こえた。
「はわー、ドーナツだあ」
「あ、ざくろちゃん、エンゼルフレンチあるよ。キープしといたら」
「だめですっ」
「どうして」
「ナギさん、ざくろをこれ以上肥えさせないでください!」
「じゃあざくろちゃんの代わりに私が分けとくね。えーとエンゼルフレンチと」
「ナギさんそれざくろのお皿!」
「だってざくろちゃん用だから。あとこのココナッツのチョコのやつと」
「にゃあー!」
くすくす笑う柳さんの声。
……。
…………か、か、かわいい……!
俺は扉を隔てたこちら側で、内心悶絶していた。
不用意に鼓膜をくすぐられた、そんな気分だった。
昨日の出会いからつい先程の会話に至るまでの、柳さんの俺に対する塩対応。それらを思い出すほどに、たった今聞こえた笑い声とのギャップが、堪らなく可愛いではないか。
俺はざくろさんと柳さんの会話を立ち聞きしていたのがばれないように、足音を忍ばせて廊下を歩き、階段を上がった。別に、盗み聞きが咎められるような会話じゃない。ただ、他愛のなさ、それこそが子供の頃の秘密基地の宝物のような、久しく忘れていたトキメキを俺に
「友幸君」
「どわ⁉」
突然背後から肩をぽんと叩かれて、俺は飛び上がった。
甘酸っぱい悶絶の余韻をぶった切り、笑顔の五十嵐さんがそこにいた。
「おっつかれー」
「びっくりさせないでくださいよ……」
「はあ?」
「あ、いや、なんでもないす」
さり気なく首を振りながら、俺は先程玄関で使ったのとは別の鍵を取り出して、兄貴の部屋のドアを開けた。俺に続いて、五十嵐さんも部屋に入る。
五十嵐さんと二人きりで兄貴の部屋にいる状況に気づき、思わず俺はフリーズした。
真顔で五十嵐さんを振り返る。
「……? なに?」
五十嵐さんが怪訝なそぶりで聞いた。
「あ、――ちょっと、兄貴の彼氏と二人きりっていうのが、なんか、妙な感じするなーと……」
「うん……?」
「いや、えっと、別に深い意味はないですよ⁉」
「安心したまえよ。襲わないから」
冷淡な目で見透かすように、五十嵐さんが言った。
俺はどきりとした。自分が無意識のうちに身構えていたことに、この時初めて気が付いた。
「拓海にちょっと似てるからって押し倒すほど、見境なく男に飢えてないから、僕」
「俺、そんなつもりじゃ……!」
「あれ? 襲って欲しかったの?」
「違いますよ‼」
「あーあーあー。これだからノンケの男は。自意識過剰なんだから。大してイケメンでもないくせに」
「違いますってば!」
五十嵐さんは横目で俺を眺め、フッと鼻で笑う。俺は慌てつつ、心の奥底でちょっと安心するのを感じていた。どうしてかそれが恥ずかしくて、俺は目を逸らし、兄貴の部屋の本棚とデスクを無意味に見渡して、昨日と同じように、手近な本と紙の山から手を付けようとした。と、
「あの」
と声がした。
部屋の入り口を見ると、少年が立っている。
「どうかした?」
「お願いがあるんですけど」
少年は生真面目な顔で、俺を見上げていた。
「……なに?」
「その拓海さんの本とか、売っちゃうんですか」
「まあ、そのつもりだけど」
「俺、欲しい本が何冊かあって。お金は払いますから、譲って欲しくて」
俺は少し驚いた。小学生だと思しきその少年、昴君は、俺が古本屋に売り飛ばすことしか考えていなかった兄貴の蔵書を、欲しいという。
「いいよ。お金はいらないから、好きなの持ってきなよ」
「でも」
「いいって」
昴君は、少し俺を無言で見上げてから、躊躇いがちに
「…………ありがとうございます」
と頭を軽く下げて、兄貴の部屋の本棚の前に立った。
俺は改めて、遺品整理を再開した。デスクの上の山を崩してゆく。
雑誌、本、フリーペーパー、下のほうの地層にはビジネス研修で貰ったと思われる資料の、A4の紙がホチキス止めされた束。なんちゃらマネジメント、と俺が読めるのはまだいいほうだ。一見で正体が判別できない英語の紙の束も、どっさりある。一応、遺族にとって大切そうなものがないかどうかだけを判断し、俺はビニール袋に太い黒マジックで『シュレッダー』と書いて、それらの紙を全部突っ込んだ。
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