第4話
「……え? ここか?」
駅前の喧騒から遠く離れ、徒歩十分の閑静な住宅街。
とある一軒家の前で、俺は思わず呟いた。
目の前にあったのは、コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションでもなければ、白亜の豪邸でもない。ごくごくありふれた、生活感丸出しの一軒家だった。
幅二十センチくらいのプレートに、『メゾン・デュースリ』と書かれている。舌を噛みそうな物件名とは対照的に、建物のほうは築十年、いやもっと古いかもしれない、関東一円に於いてこれっぽっちも珍しくない木造三階建ての民家である。どう見ても俺の手元のスマホの地図は、この家を指している。俺の視線は、スマホと家の間を五往復ぐらいした。
「…………マジで? 冗談抜きで? ……ここ?」
恐る恐る、門柱の上の郵便ポストを見ると、そこには表札代わりと思しき幅二センチくらいのラベルシールが、幾つも貼られている。【五十嵐】【鈴木】【柳】【篠崎】。
……鈴木。
俺の苗字であり兄貴の苗字であり、日本で最もありふれた苗字ランキングのワンツーを飾る苗字である。
自分の苗字がありふれすぎているのを恨んだ経験は数知れず。だがしかし、この時ほど恨んだことはない。かもしれない。
玄関を前にして、しばらく立ち尽くす。
木枯らしが背後を吹き抜ける。
住所と苗字が一致しても、この鈴木が本当に俺の兄貴の鈴木拓海かどうか、まだ俺は半信半疑だった。
どうしたものか。
……。
……やばい。
このままでは、ただの不審者だ。
ふと我に返った時、どこかから視線を感じた。
俺は周囲を見渡した。するとほんの一瞬だけ、誰かと目が合った。
この家の玄関の脇の、庭(と言っても幅ほんの二メートルほどだが)に面した窓から、女の子と子供がこちらを見ていたのだ。
こちらが見つめ返す暇もなく、二つの顔は、瞬時にカーテンの陰に隠れてしまった。
「……何? 今の……」
俺は途方に暮れた。そしてはたと気が付いた。
ここが兄貴の住んでいた家であろうがなかろうが、住人に見つかってしまっては、本格的に不審者じゃないか。
まずい。非常にまずい。しかも子供と女の子だ。不審者に敏感な相手だ。
こうなったら、俺がくそ寒い中この家の玄関先で茫然としていた理由を、正々堂々釈明するしかないのではなかろうか。
ほんの短い時間で脳内回路をフル回転させた結果、俺は腹を括った。意を決して、玄関ドアの脇のインターホンを押した。
やや間を置いて、誰かが応答した。
「……はい」
子供の声だ。
「あ、あのすいません、お……わたくし、鈴木……鈴木友幸と言いまして……えっと、もしかして兄の鈴木拓海が、ここに住んでなかったかと……」
俺はしどろもどろに、不審者じゃないアピールを繰り広げた。
「兄が亡くなっちゃったんで、住所だけで来たんですけど……」
「……ちょっと、待ってください」
インターホンの向こうの声は、そう言って、途切れた。
その時ようやく、俺は気が付いた。
俺、玄関の鍵、持ってる。
あの鍵でこのドアが開けば、ここが本当に兄貴の住んでた家ってことじゃないか。
……いやいやいや。持ってたけど、いきなり知らない家のドアに鍵突っ込んでいいのか? しかも鍵二本あるし。片方で開かなかったらもう片方で試すだろ? それで開かなかったら? もう不審者確定、通報ものだろう。
俺が頭の中でぐるんぐるん考えているうちに、玄関ドアの向こうで人の気配がして、内側から鍵が開けられた。
……鍵だけ、である。
寒空の下、あほみたいに突っ立っている俺の前で、引き続き、ドアは閉まっていた。
鍵だけか。
ドアは開けてもらえないのか。
仕方ないので、再び意を決し、俺はドアに手を掛けた。
「……すいませーん、開けまーす……お邪魔しま――す……」
ドアを開けると、ほんわりと温かい空気が一気にこちらに流れてきた。
「ええと……こんにちはー…」
玄関に足を踏み入れる。
俺の目の前には、小学校高学年くらいの男の子が一人と、正面の柱の陰にへばりついてこちらを見ている若い女性がいた。
「あのお……亡くなった鈴木拓海って、こちらに、住んでましたかね?」
俺は、どこまでも間抜けな雰囲気を拭い去れないまま、訊いた。
少年が、頷いた。
「あ、ほんとに? それじゃあ……俺、鈴木の弟なんですけど」
「ざくろ」
少年が柱の陰の女性を振り返って、言った。
「こういうの、大人の仕事だろ」
「えっ⁉」
ざくろ、と呼ばれた女性が飛び上がって、両手をぶんぶん振った。
「そんな、でもでも‼」
「ざくろ一応大人でしょ」
「いやわたし人間未満だし⁉ ねこ以下だし⁉ るーちゃんのほうがしっかりしてるし!」
「関係ないし。じゃ、あと宜しく」
「え――‼」
少年はそう言い残して、さっさと家の奥に引っ込んでしまった。後に残されたのは、俺と「ざくろ」さんの二人。俺は茫然、彼女はおどおどするばかりである。フワフワしたミニスカートが無意味に揺れている。足元は厚手のニットタイツ、頭には灰色のパーカーの分厚いフードをしっかりかぶっている。ご丁寧にパーカーのフードには、三角の猫耳まで付いている。
「あああのお、す、鈴木さん」
「え?」
「拓海さんのお、弟さん、なんですね⁉」
「ええ……はい……」
「たっ、拓海さんには、お世話に! なりまして!」
「ああ、えーと、こちらこそ……?」
「いえいえいえ! 私は全然お世話とか! そんな拓海さんの、おち、お力になれるような事は! してないです!」
「……はあ」
何だこの会話。
「あっ、そうだ、あのう、ここ寒いので! 玄関で立ち話も何なので! あっ上がってください!」
「……あ、どうも……」
ざくろさんに招き入れられるまま、俺は靴を脱いで家に上がった。
玄関から入ってすぐ、廊下に面した和室があった。さっき二人がカーテンの陰から俺のことを覗いていたのは、この部屋だろう。
和室の床面積の八割は、こたつに占められていた。誰かがこたつ布団を被って寝ている。ざくろさんは和室に飛び込んで、その誰かを揺さぶった。
「ナギさん! ナギさん起きて!」
「……んにゃ」
こたつ布団に埋まっている、くぐもった声が聞こえた。
むくりと細い肩が起き上がった。その姿を見て、俺は目を丸くした。
……可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
どストライクだった。
肩までのセミロングの黒髪、白い首筋の下にベージュの丸襟のセーターを着ていた。歳は二十代半ばくらいだろうか。こたつで熟睡していたところをたたき起こされて、上気した赤い頬にとろんとした目をしている。
「ほあ……え?」
彼女は俺を見て、きょとんとした。ざくろさんが説明する。
「こちら鈴木さんで! あの拓海さんのええええとあのえっと弟さんだそうで!」
「……はあ」
「じゃあ、あとよろしくナギさん!」
「え」
ざくろさんは寝起きの彼女に俺の相手を押し付けるやいなや、ぺこりと俺にお辞儀をし、ダッシュで部屋を出て行ってしまった。
後に残される俺と、「なぎ」さん。デジャヴか。
俺はどうすれば良いのかわからず、ただ顔が無駄に赤くなるのを必死に隠そうと奮闘していた。つくづく何してんの俺。
彼女はこたつに入ったまま、まっすぐ俺を見上げていた。
「……どうぞ」
「えっ?」
「とりあえず。寒いでしょうから」
こたつに入っていいよ、と勧められていると気付き、俺は挙動不審になりながら、
「あ……ども」
などと呟きながら、コートを脱いで丸め、こたつに足を突っ込んだ。
「うわ、あったかい」
「お茶飲みます?」
「へ」
彼女は慣れた手つきで、こたつの上にあった大きめの水筒から、これまたこたつの上のお盆に伏せられていた小さな湯飲みにお茶を注いだ。温かな湯気が細く上がった。
「どうぞ」
「……有難うございます」
湯飲みを渡す指が、かすかに触れた。華奢な手は、指輪もネイルもしていなかった。
「――拓海さんの、弟さん、ですか」
「え、あっ――」
訊かれて俺は我に返った。ネイルとか考えている場合じゃない。俺は馬鹿なのか。
「はい。あ、鈴木友幸です」
「柳倫子(やなぎのりこ)です。初めまして」
苗字が「やなぎ」だからナギさん、なのだ。謎が一つ解けた。
「ああ、ええと、初めまして。なんか、今更っすけど」
ヘラヘラする俺に合わせるように、柳さんが口元で、少し笑った。あからさまな社交辞令スマイルである。
「ここで、兄が、生前お世話になってた、んですかね?」
「……私も、拓海さんには、お世話になりました」
柳さんが長い睫毛を伏せる。こたつの温もりで上気した頬に影が落ちる。というか、俺はそんなところばかり見ていた。本題から逸れっぱなしである。
どうにか理性を取り戻し、俺は訊いた。
「あの、ここに兄は、住んでたんですか?」
「はい」
「ここって――」
「ここはシェアハウスです」
シェアハウス。
一軒の家の各部屋をそれぞれ別の入居者が借りて住む、というやつだ。居間や台所や風呂トイレなんかは共有だから、さながら大家族の気分を味わえるらしい。噂には聞いていたが、足を踏み入れるのは初めてだった。
シェアハウスと聞いて、俺ははたと気付いた。
「あ――もしかして、それで鍵が二つあったのか?」
「ああ。玄関の鍵と、部屋の鍵ですね」
柳さんが頷いた。
「私も拓海さんも、ここに住んでます。――住んで、ました」
「……」
柳さんは、はっきりと、そして丁寧に、兄貴の分だけ、過去形にした。
認めるしかなかった。兄貴は、本当にここに住んでいたのだ。
ここまで聞いても俺にはまだ、事態が呑み込めていなかった。兄貴が死んだところから非日常なのに、ましてやその兄貴が一つ屋根の下で若い女性と暮らしていたなんて、――
「――ってことは、さっきの二人も、ここに住んでるんですか?」
「ざくろちゃんと昴君ですか? ……ええ、まあ、そうですね。あともう一人いますけど」
「はあ……」
つまり、全部で五人。
俺は遅まきながら、面食らった。しつこいようだが俺は昨日まで、いや今朝まで、高給取りの兄貴がデザイナーズの超広いワンルームマンションにでも暮らしているところを想像していたのである。それが、このちょっと薄汚れた、新しくも珍しくもない一軒家だ。玄関横の和室に、でかでかとこたつ(お茶とみかん付き)が鎮座している家だ。
和室の中を見渡すと、片隅に置かれた小さな座卓に目が留まった。
「――」
兄貴の写真が、そこにあった。
折り畳み式の座卓の上に、大きめのコルクボードが立て掛けられており、たくさんの写真がピンで留められていた。中央の少し大きめの写真に写っているのは、確かに兄貴だった。
「これ――」
俺はこたつから抜け出して、コルクボードに近づいた。
よく見ると、大小さまざまだが、他のすべての写真にも兄貴が写っている。
柳さんやざくろさんや先程の少年、他に俺の知らない男性もいる。
彼らと並んで、兄貴は笑っていた。
そして、写真が飾られたコルクボードの前には、百円ショップで売っていそうな造花が可愛らしくあしらわれ、みかんやお菓子や缶ビールまで並んでいる。
間違いようのない、手作りの仏壇もどきだった。
手作り感満載の仏壇の真ん中で、兄貴は、微笑んでいた。
鍋を囲んでいる写真。桜の下で花見をしている写真。その中の兄貴は、葬式の時の遺影より百倍イケてる顔をしていた。あんな証明写真みたいな遺影じゃなく、こちらを使えば良かったのに、と思う顔だった。
――こんな。
実家には殆ど寄り付かなかった兄貴が。
こんな所で?
まるで、愛されていたみたいな――
言葉が出てこない俺の背後から、柳さんが言った。
「ざくろちゃん達が、作ってくれたんです」
「……」
「私達、お葬式に、行けなかったから」
「――え?」
行けなかった、というその柳さんの言葉に、俺は奇妙な引っ掛かりを感じて振り返った。柳さんは写真を眺めながら、もう一度言った。
「お別れ出来なかったから。代わりに」
「葬式来れなかったって――みんな、ですか?」
俺が訊くと、今度は柳さんが怪訝な顔をした。
「ええ。教えてもらえなかったから――」
「はあ?」
訳が分からなかった。
そもそも、俺の両親は葬式の直前に、一度ここへ来ている筈なのだ。
兄貴の印鑑や預金通帳の類は、その時母親が部屋から引き取ってきた、と聞いていた。そして、その時点で、もう斎場の場所も葬儀の日時もとっくに決まっていたのだから伝えておけば良かったのに、どうして――
混乱する俺の顔を覗くように、柳さんが言った。
「もしかして、知らなかったんですか」
「は?」
知らなかったって、何を――
俺がそう訊こうとした時、玄関のドアが開く音がした。
「ただいまあー」
少しトーンの高い男性の声。柳さんがこたつに入ったまま、答える。
「お帰りなさい」
「あー寒かった。聞いてよナギちゃん、延滞料金千五百円も取られたんだけど――って、誰?」
玄関から和室にまっすぐ入ってきた男性は、柳さんと一緒にこたつに入っている俺を見て、目を丸くした。
「鈴木さん、この人がもう一人の住人の五十嵐龍之介さんです。五十嵐さん、こちら、鈴木さん――拓海さんの弟さんだって」
帰宅した男性と俺とに、柳さんが淡々と説明した。俺が鈴木拓海の弟だと聞いた瞬間、その五十嵐さんとやらは、一段と驚きの表情を濃くし、少しの間合いの後、叫んだ。
「……ええええー‼ あー本当だ! 言われてみれば拓海の面影あるじゃん!」
短めの黒髪をツーブロックにした、瘦せ型で長身の男性を、俺はこたつで固まったままぽかんと見上げていた。対象的に、俺をまじまじと眺めてハイテンションで感激する五十嵐さん。彼の目には、みるみるうちに涙が浮かんだ。
「うわーこれは嬉しいわー。会えて良かったわー」
「は……はあ、ども……」
俺は、先程までの柳さんの兄貴追悼オーラとは百八十度異なる五十嵐さんのリアクションに、ただただまごつくしかなかった。更に彼は、俺に向かって想定外の台詞を口にした。
「ねえ、ハグさせてもらっていい?」
「え⁉ ……え⁉」
と、混乱する俺の脳内をよそに、柳さんが冷静に言った。
「五十嵐さん、取り合えず今はやめといたほうがいいかも」
「え? どして?」
「弟さん、知らなかったみたいだから」
「へ?」
はたと我に返り、五十嵐さんが柳さんと俺の顔を、交互に見比べた。
「……知らなかったって、まさか」
「うん」
柳さんが頷いて、付け加えた。
「拓海さんがゲイだったって」
「ええええええ⁉」
今度は部屋中に、いや家中に、俺の叫び声が響き渡った。
目を点にし、口を金魚のようにぱくぱくさせる俺を見て、柳さんが
「…………ね?」
と言った。
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