第10話 その昔はソウシキなんていう文化もあったらしい
新しい父さんがやってきてから一週間がたった。その日の朝は目覚まし時計が鳴る前に、珍しく母さんがボクを起こしに来た。
「あなたのおばあちゃんが亡くなったって、さっき病院から電話があったわよ」
その日は朝から灰色の厚い雲が空を覆っていた。夜と朝の境目もうやむやになるような、暗く厚い雲から吹き降りる風はひどく冷たく、ボクはジャケットの合わせを手で押さえて寒さに耐えながら、やや急ぎ足で病院へとむかった。
「……ひどい朝だ」
そう吐きこぼしたボクは、なぜだか無性に加賀見さんの髪の匂いを嗅ぎたくなった。ボクは息苦しくてしょうがなかった。息が荒い。風の冷たさがボクの肺に染み込んでくるように思えて、ボクは荒く息をついてその冷たさに抗おうと必死に呼吸を繰り返した。
加賀見さんに祖母が亡くなったから病院に行くので今日の学校は休むということを連絡すると、彼女は「自分も行く」と言った。ボクらは病院で落ち合うことになった。だから病院に着けば加賀見さんに会える。彼女の髪の匂いを嗅げば、きっと幾分かこのひどく凍てついた冷たい息も軽くなるはずだ。そう信じるボクは、だから病院に着くまでこの息苦しさになんとしても耐えなければならなかったのだ。
「……加賀見さんは?」
病院に着いたボクは彼女を探す。彼女はロビーの長イスのすみに座っていた。うつむいて、ひざに置いた手をじっと見つめる彼女の肩は、ふるえているようにボクには見えた。
「加賀見さん」
ボクの声に加賀見さんが顔を上げる。
「高橋くん」
加賀見さんはおびえていた。ふるえる瞳がボクを見ている。きっと寒いのだ。ボクと同じにこのひどく冷たく吹く風にやられ、身体の芯まで彼女は冷え切ってしまっているのだ。手首に巻いた包帯が赤色に滲んでいる。ボクは屈んで、加賀見さんの耳もとに顔を寄せた。
「高橋くん?」
「髪、嗅がせて」
「うん――」
うなずく加賀見さんの髪をなでながら、ボクは彼女の髪の匂いで肺を満たした。彼女の髪の匂いはお日さまのようにあたたかくて、ボクの肺に凍りついたこの息苦しさを徐々に溶かして落ち着けていった。それは彼女も同じみたいで、おびえにふるえた彼女の身体はしだいにこわばりをなくしていき、ボクの背中にまわる手は熱を取り戻して強くボクを抱いていた。
「ありがとう」
身体を離したボクに彼女が言う。ボクは首を振って、座る彼女に手を差し伸べる。
「こちらこそ」
握り返す彼女の手のぬくもりを、ボクは思いっきりに引っ張り上げた。
「行こう」
「うん」
ボクはうなずく彼女の手をぎゅっと握ると、その手を引いて歩き出した。
*****
祖母の遺体はすでに死体安置所に移動されていた。看護師に案内されて地下の死体安置所へ行くと、パイプでできた粗末なベッドの上に祖母の遺体が横たわっていた。
「死んでるね」
加賀見さんの言葉が、音のない死体安置所の壁に響いた。
地下にある死体安置所にはひんやりとした空気が流れている。きっと蛍光灯の色が冷たいからだ。冷たい蛍光灯の明かりに眠る祖母の死に顔は、とても静かな色に見えた。
「でも、苦しそうな感じじゃない」
祖母の顔は静かだった。そこにはなんの声もなかった。沈黙がすべてを包み込んで閉じられている。そんな顔だった。
看護師の話によると、朝になったときにはもう亡くなっていたそうである。昨日は体調不良を訴えることもなく普通にすごしていたということだから、昨夜眠りについてそのまま、ということらしい。大往生だった。
「キレイな顔」
加賀見さんが言う。ボクはうなずく。そこには祖母の亡骸しかなかった。もう、なにも語ることのない祖母の亡骸だけがそこにある。それは美しいことだとボクは思った。
「秋吉さんに似てるね」
「そうだね。きっと海の上へ行けたんだ」
ボクが答えると、加賀見さんは天井を見上げた。冷たい蛍光灯の明かりの天井。彼女の目はその上を見ている。ボクも見上げる。こんなところからでは見えないけれど、きっとこの先は海の上へとつながっている。そう思うとボクの気持ちは落ち着くのだった。
しばらくすると、死体処理課の人たちがやってきた。
「こちらが死亡届となります。医師の死亡診断書はこちらですね。これはここに添付します。それとこちらが死体処理場の使用申請書です。これはこちらにサインするだけでけっこうです」
グレーのスーツを着た処理課の人たちは、事務的な口調で必要書類の説明をする。ボクが一通りの事務手続きを済ませると、祖母の遺体は死体搬送車へと運ばれた。ボクたちも同行しようとする。すると死体処理課の人に珍しい顔をされた。
「死体処理場までついてくる人なんて、実の両親でも最近は珍しいですよ。それがお孫さんとその彼女だなんて」
その昔はソウシキなんていう文化もあったらしい。死者を見送る儀式だそうだ。それもいつの間にか廃れてしまって、今では数枚の書類で手続きを済ませれば、死体処理課の人が遺体を処理場に運び、焼却処理をして終わりである。ボクもこの前、父さんが自殺したときには行かなかった。それが普通だからだ。でも今回は行く気になった。きっと祖母の遺体が美しかったからだ。あの美しい祖母の亡骸が焼却されて完全に消えてしまうところを、ボクは見届けたく思った。それはきっと美しいことだから。
「加賀見さんはどうして?」
「高橋くんが行くから」
ボクの手を取る加賀見さん。ボクと彼女は一緒に搬送車に乗り込んだ。
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