第9話 ユリの花は誰も知らない間に淡々と散る
夕闇に沈む空の下で加賀見さんを抱くボクは、彼女の髪の匂いに埋もれていた。
喫茶店を出たあとに立ち寄った公園で、ボクらはどちらともなくセックスを始めた。きっとボクらはあの冷めたコーヒーの苦さをどうにかしたかったんだと思う。だから加賀見さんはボクの肌に一心不乱に舌を這わせ、ボクは彼女の髪をむさぼるようにして嗅いでいた。
息は白く熱く夕闇の空に上っていった。外灯の白い明かりに浮き上がる息は熱く見えるけれど、ボクらの身体を包むのはひどく冷たい現実で、それを振り払うようにボクらはたがいに熱く求めた。こんなことはただの慰めに過ぎないなんてことも全部知りながら、けれどボクらには他に抵抗する手段なんてなかったから、寒さに震えながらボクらはたがいの背中を抱いて、ごまかしの性愛を燃やすしかなかったのだ。
「――大丈夫?」
やがてボクは果ててしまって、荒い息を吐くだけのまったくの役立たずになってしまった。加賀見さんがボクの顔を両手ではさみ持ってのぞき込んでくる。ボクはうなずいて、彼女の首筋を舐める。
「あのクスリ、欲しい?」
ボクの愛撫を受けながら加賀見さんが聞く。ボクは彼女に愛撫をしながら答える。
「キレイなクスリだなと思った」
あのアイスブルーの液体はどこまでも冷たい優しさに満ちていて、必ずボクらを海の上へと連れて行ってくれるだろう。でも――、
「でも、あんな甘ったるいコーヒーの臭いが身体に付くのはごめんだな」
それがあんなガムシロップにまみれた手の中にあることを、ボクはどうしても受け入れることができなかった。ボクにこんな潔癖なところがあるなんて自分でも驚きだったけれど、それでもボクにはあの男の生臭さが秋吉さんの死を、自殺する人間の死を汚しているように思えて、どうにも苦くてならなかったのだ。
「そうだね」
加賀見さんも同意する。けれど彼女は一息ついてこう言った。
「――それでも、あたしは持っていたいな」
愛撫の手を止めて、ボクは加賀見さんを見つめる。加賀見さんは自分の手首を見た。巻かれた包帯の色は白い。伏し目がちに加賀見さんは微笑んだ。
「いつでもキレイに死ねるなら、いつでも高橋くんのあとを追えるから」
そして加賀見さんは、いつかのようにボクの頭に腕を絡めると、ボクの首もとに顔を埋めておねだりをしてきた。
「髪、嗅いで」
「……うん」
素直にうなずいたボクは、加賀見さんの髪の匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。
*****
家に帰ると、新しい父さんが家にいた。
「はじめまして。新しい父のユキオです。よろしく」
会釈する新しい父さんに、ボクも会釈して答える。
「はじめまして。息子の葉一です。よろしくお願いします」
母さんはささやかな歓迎の席を用意していたらしく、ダイニングテーブルには白いユリの花が飾られ、普段は食べないステーキやサーモンマリネ、ポタージュスープなどの料理がランチョンマットの上に並んでいた。
「いただきます」
なごやかに歓談する。新しい父さんは中堅商社に勤める営業マンだそうだ。背広のシワの少なさとノリの効いたシャツに生真面目さが感じられる人だった。母さんも優良な物件を見つけたものだ。年齢は三十二歳。前の父さんより十歳も若い。まあ母さんはまだ二十九歳なので、釣り合いは取れているのだろう。前の父さんより収入も多いらしいし、これで配偶者給付も入るのだから、我が家の家計も安泰である。万々歳、万々歳。
「ごちそうさまでした。明日も学校が早いので、先に失礼させてもらいますね」
ボクは食事もほどほどに席を離れた。ボクにとって三人目の母さんも四人目の父さんも、赤の他人も同然なものであるから、話しているととても疲れてしまうのだ。まあ、でも二人にはがんばって長生きしてもらいたいと思う。死なれるたびに、こんななごやかな食卓を要求されるのはたまらない。
自分の部屋に戻ってベッドの上に転がる。今日はなんだか疲れてしまった。黒ジャンパーの男のこともあったのに、まさか新しい父さんが今日来るなんて思っていなかったから、いつもよりも倍くらい疲れてしまった。ボクは目を閉じる。部屋の明かりが残光になってまぶたの裏にチカチカする。その残光が白いユリの花に見えたのは、きっとダイニングテーブルに飾られたユリの花を見たせいだろう。そのせいか、ボクは実の母さんが自殺したときのことを思い出していた。
ボクの実の両親は母さんの方が先に自殺した。母さんが死んだ夜、父さんは居間に花を飾った。大きな白いユリの花だった。ユリの花は一週間後に枯れた。花びらを一枚、一枚と落としていき、ボクが寝ている間に、ボクが学校に行っている間に、淡々とユリの花は散っていった。
ボクたちもあのユリの花のように、誰も知らない間に淡々と朽ちていってしまうのだろうか?
「加賀見さんは、あのクスリを買うのかな……」
目を閉じたままつぶやく。まぶたに見えた残光もやがて薄れ、いつの間にかに消えていた。
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