第8話 冷めたブラックのコーヒーはただ苦いだけのものである

 秋吉さんがあんなにキレイに死んだって、世界は一瞬のためらいもなく回り続けるから、ボクらの生活だって変わりはしない。

 だから秋吉さんが自殺して、もう三日がたっていたけれど、ボクらはあいもかわらず朝起きて、朝ゴハンを食べ、学校に行き、授業を受け、お昼ゴハンを食べ、おしゃべりして、授業を受け、学校を終え、デートをして、セックスをして、家に帰り、晩ゴハンを食べ、お風呂に入り、最後に冷たいふとんに潜りながら、次の朝まで夜の寒さに耐えるのだ。

 そんな毎日を繰り返すボクらの未来になにかがあるとすれば、それはどこか遠くから不意に訪れるアクシデントぐらいしかないと、加賀見さんといつも二人で話し合っていたのだけれど、そんな他力本願な願い事が神様にでも通じたのか、その男はボクらの日常の中に不意に姿を現したんだ。


「おい、そこの二人」


 学校から駅へと歩くいつもと変わらない帰り道。ボクらを突然に呼び止めたのは、秋吉さんの自殺現場から飛び出してきた、あの黒ジャンパーの男だった。

 ボクと加賀見さんが驚いた顔をして立ち止まると、黒ジャンパーの男は口元を歪めるようにして笑いながら、ボクたちに近づいてきた。


「どうやらオレの顔を覚えているようだな。いい反応だ。ちょいと話があるんだが、付き合えるか?」


 そう言って十メートルほど先にある喫茶店を指さす男に、特にためらうことなくうなずいたボクたちは、きっとこういう男に出会えることを心のどこかで待っていたんだと思う。だからボクらは喫茶店のソファーに並んで座り、笑えるくらい神妙な顔で男が話し始めるのを待ったのだった。


「こういうモノに興味あるだろ?」


 男は注文したコーヒーを運んできた店員が離れていったのを確認すると、そう言いながら胸ポケットから小ビンを取り出してテーブルの上に置いた。小ビンには液体が入っている。薄水色の透明な液体だ。昔テレビで観た、海の底から見上げた氷山のようにキレイで冷たい色をしていると、ボクは思った。

 ボクたちはゆらゆらとゆれる小ビンの中の液体をまじまじと見つめる。


「なんですか、コレ?」


 ボクはそれがなんであるか知りながら、そう聞いた。ボクたちが興味のあるものなんてそれ以外に想像がつかなかったからだ。

 男は笑いながら答えた。


「“ヘブン”さ。文字通り天国ヘブンへ連れて行ってくれるおクスリだ」


 加賀見さんが小ビンの中身をじっと見ながら男に聞く。


「秋吉さんみたいに?」


「イエス」


 男は笑みを崩さずに答えると、足を組んでテーブルに身体を乗り出してきた。


「お前らもこいつが欲しいだろう?」


 男がボクと加賀見さんの顔を見て言う。ボクが聞き返す。


「どうしてです?」


 男はニヤニヤとした顔を崩さずに答える。


「オレのことを警察に話さなかってことは、お前たちはあの自殺した女の姿に共感したってことさ。だからオレはお前らを有望な客だと思って、わざわざお前らを探し出してこの話をしている。理由としては十分だろ?」


 ボクと加賀見さんが顔を見合わせていると、男はそんなボクらを笑いながらコーヒーに大量のガムシロップを入れて、スプーンでかき混ぜ始めた。


「お前らみたいな死にたがりはオレらのいい客なのさ」


 甘く溶けたガムシロップに満ちたコーヒーを、男は口に運ぶ。


「オレたちは金をもらい、お前らは望み通りにキレイな姿で死ねる。美しいギブ&テイクだろ?」


 シロップとコーヒーの入り混じった男の息は、甘く苦い香りでボクらの鼻先にかよった。


「まあ、買うも買わぬもお前らの自由だ」


 ボクたちがしばらく黙っていると、男はそう言いながらコーヒーカップをテーブルに戻した。そして小ビンを胸ポケットにしまうと、代わりに電話番号の書かれたメモ用紙を二枚、ボクらの前に置いた。


「死にたくなったらいつでもここに電話しな。それとコーヒーはおごりだ。ゆっくり飲みな」


 伝票を持って男が立ち上がる。ボクらはその背中を見送ると、そろってコーヒーを飲んだ。


「苦いね」


 加賀見さんがつぶやく。冷めたブラックのコーヒーはただ苦いだけのものだった。

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