Phase 0a ― true to my word(またね)

柔らかな深い海の底で、空と意識を繋いでいる。

目の前には、無機物と有機物を繋いだ人形が、浮かんでいる。

人形の中では、何かがほんの僅かに、脈打っていた。

温かな手触りを確かめて、フライズは、いつの間にか自分が微笑んでいることに気付いた。今日なすべき事は終わった。

フライズはサインを送ると、水面を目指して浮上した。

徐々に、四肢の感覚が戻ってくる。耳が聞こえるようになる。それを確認してから、瞼を開いた。イランがこちらを覗き込んでいる。

「お疲れさん。気分はどう?」

「上々」

「それは良かった」

フライズは上体を簡易ベッドから起こして、全身のあちこちに繋がっているケーブルを一本ずつ外していった。イランも手伝ってくれた。

研究室の反対側の壁のそばには、幾つもの透明なスクリーンが浮かんでいる。そこに無数に表示されているデータを見て、レイが呟いた。

「ほほー。やっぱ敵わんな、デジタルネイティブには」

「ね。綺麗に繋いでくれるよねー。毎回」

イランが同意する。先程フライズが繋いだ、シリコンのパーツと培養部分の細胞の塊が、パフォーマンスの状況を数値にして送ってきているのだった。

「オッケー。今日の仕事終わりね」

数値を見に、アランも部屋に入ってきた。アランとハイタッチを交わし、入れ替わりにフライズは研究室を出た。

回廊の上を仰ぐ。

きらきらと、真っ直ぐな日差しが差し込んでいる。

図書館の脇を抜け、正面玄関へと歩いてゆくと、学校の階段から五、六人の子供達が駆け下りてきた。

「黒須先生!」

フライズも手を振った。週に三日、フライズが科学の授業を受け持っている生徒達だ。

「先生、今日は授業じゃないよね?」

「そうだよー。あっちの研究所でも、私はお仕事があるんだよー」

「研究?」

「かっけー」

「うちのパパみたい」

「先生、何を研究してるの?」

子供達が口々に言った。

フライズはにっこり笑って、答えた。

「私達が暮らしてるリデルの外に、別の世界があるって、授業で話したよね」

「そうだっけー?」

「おれ覚えてる!」

「ガイア!」

「そう。その外の世界に出る方法を、私は探してるの」

石段を降りると、目の前には並木道の緑が、鮮やかに続いていた。学校のすぐ脇に、テニスコートの黄緑色の芝も見える。

「ガイアは一度、木が沢山枯れちゃったの。今でも、水や空気はあんまり綺麗じゃない。人が暮らすのには向いてない世界なの」

子供達は、分かったような分からないような曖昧な顔をして、フライズの話を聞いていた。だが、フライズは構わず彼らに語り掛けた。

嘘を吐かないのが信条だった。今は理解できなくても、構わない。

「今のところ、ガイアには、生きてる人が見付かってないの。もしかしたら、この世に存在するのは私達だけなのかもしれない。でも、生きている人がいるのかもしれない。私は、もしいるのなら、その人達に会いたいの。だから、リデルの外でも動ける身体を作って、それを使ってガイアに行こうとしてるの」

子供達の間からは、ふーん、と生返事が返って来た。

「ほれ、君たち午後の授業があるんじゃないの? 行った行った」

フライズは、校舎の中へ子供達を追い返す。子供達は教室を目指して走っていった。手を振って、笑顔でフライズは彼らを見送った。

石段の脇に、小さな自転車が停めてある。荷台には、不恰好に鳥かごが括りつけられていた。

鳥かごの中で、白い鳩が一羽、止まり木にとまっている。

フライズは鳥かごに向かって

「お待たせ。行くよ」

と声を掛け、自転車に跨った。

風を切って走る。

躊躇い無く自宅を通り過ぎて、フライズは町外れを目指す。

大通りを真っ直ぐ進む。

暫く自転車を漕ぐと、家々の屋根が途切れ、一気に視界が広がった。

地面が、唐突に途切れた。

崖の傍で、フライズは自転車を停めた。

眼下に広がっているのは、あの日以来、ノワシールの町をぐるりと囲む、海だった。



フライズは、鳥かごから出した鳩を、海の方向へ放った。

鳩は真っ直ぐ、海の上を飛んでゆく。それをただ、見送った。鳩の姿は、やがてほんの小さな点になり、すぐに見えなくなった。

右手にも左手にも、どこまでも、同じ崖と同じ空と、凪いだ海が広がっている。空には雲ひとつ無い。海面にも、単調なさざ波しか見えない。

この景色に存在するのは、一見、恵みの海であるようで、実際は余白なのだ。

そこに、白く塗りつぶされた記憶、あるいは記録があっても、もう、自分の目には見えない。

だが、絶望してはいなかった。

フライズは崖の淵に腰かけ、鳩の帰りを待った。

これで幾度目になるか、もう数え切れない。あの日からずっと、殆ど毎週のように、場所を少しずつ変えて、鳩を放っている。自転車の前のかごにサンドイッチと本、後ろに鳥かごを載せて来て、朝から夕暮れまで海を眺めながら本を読んで時間を潰した日も、幾度もあった。

そしていつも、イランとレイは、笑って見送ってくれた。何の収穫も無く帰宅するフライズを、笑わずに出迎えてくれた。

空には雲ひとつ無い。

――と、見つめ続ける遥か彼方に、白い点がぽつんと現れた。

鳩が戻ってきたのだ。

鳩の姿が徐々に近付き、はっきりと見えるようになった時、フライズは息を呑んだ。

鳩がくちばしに、何かを咥えている。

フライズは海のほうへと、腕を差し伸べる。鳩は慣れた様子で、フライズの指先にとまった。

鳩がくちばしに咥えていたのは、トウシンソウの茎だった。

白く可憐な小さな花が、並んで咲いていた。

フライズは、トウシンソウの茎をそっと手に取った。

――またね、って、言ったでしょ?

胸の内で記憶が熱く溢れ、フライズは、海の彼方に向かって微笑んだ。

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鏡の向こうで謎を解いたら 森くうひ @mori_coohi

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