Ⅶ―始まり
車の窓の外に、深い森が続いている。
ミュンヘンの空港を出てから、もう数時間経つ。レックス・ハワードという白人男性の運転する大型のメルセデスは、ナリとヒカルと坂本を乗せ、山間の道をひたすら走っていた。
レックスが坂本のことを『プロフェッサー(教授)』と呼んでいるので、片言の英語で理由を尋ねてみたら、ヨシタカのニックネームだよ、同じ名前の作曲家がいて彼のニックネームがプロフェッサーだったんだ、と笑った。音楽好きなエンジニアがつけたらしい。
ヒカルと二人で後部座席に座って、ナリは、通り過ぎる窓の外をぼんやりと眺めていた。隙間に見える岩山と、黒々と続く森。東京と同じように、こちらでもあちらこちらで木々の立ち枯れが始まっていた。
ナリの前には、運転するレックスの赤毛のもじゃもじゃ頭がある。彼はずっと助手席の坂本と、早口の英語で難しい話をしている。内容はナリには全く聞き取れない。
先程坂本がかいつまんで通訳してくれたところによると、つい昨日、サンフランシスコで大規模なテロがあり、彼らのボスのダン・ケリーと連絡が付かないのだという。数少ない情報の中から手に入れた写真をレックスが坂本に見せ、坂本は
「ありゃ、テロじゃないな。殆ど空爆だ」
と、諦めた顔で言った。空港で数回の爆発と、その後、銃撃戦があったという。開発チームの面々も情報を集めているが、ダンの安否は殆ど絶望的と見られているらしい。
「資金は法人名義で充分プールされてるし、仮想現実の中に入りたい出資者はどんどん増えている。だから、恐らくこのまま進む事になるだろう」
というのが、現時点での彼らの見立てだった。とにもかくにもナリ達は、シリコンバレーの開発拠点ではなくデータハイヴへ直接来る事で、結果的に命拾いしたことになる。もしサンフランシスコ行きの便でシリコンバレーに向かっていたら、爆発に巻き込まれるか、羽田空港に戻らされていただろう。
香月は、空港へ見送りにも来なかった。
最後に会ったのは、出発の前日の朝だ。
マンションのドアを出る時、ナリは、これで多分あの人には二度と会わないんだろうな、と思った。高校は休学する、海外へ行く、と言っても、驚いた顔こそすれ、賛成も反対もしなかった母親だ。
メルセデスの窓の外で、乾いた土埃が上がる。
いつの間にか、道路がアスファルトでなくなっている。
細い道を二、三十分走った頃だろうか、坂本が後部座席のナリとヒカルを振り返って、
「見えてきたよ」
と言った。
ナリもヒカルも、坂本が指し示す方向を見た。
ただの山と深い森にしか見えない、と思った時、木立の奥にちらりと、分厚い金属のゲートが貼りついている岩肌が見えた。
「山の中に作ったんすか」
「そう。天然の要塞だよ。コンピュータも、冷凍睡眠の研究施設も、この下にある」
岩盤をくり抜いたのだ。何という資金力だろうと、今更ながらナリは感心しながら少し呆れた。
レックスは、ゲートの前で車を停めた。坂本が車を降りて、ゲートの脇の小窓を開いた。出てきたパネルを何やら叩くと、ゆっくりとゲートが上がり始めた。
運転席のレックスがナリとヒカルを振り返り、にやりと笑った。
「Now we’re going down the rabbit hole. Welcome to wonderland.(さあ、兎穴を降りるぞ。不思議の国へようこそ)」
未知の世界が、地面にぽっかりと口を開けている。
ナリは、隣のヒカルを見た。
ヒカルも、こちらを見ていた。
二人は車のシートの上で、どちらからともなく、指先を繋いだ。
今までもこれからも、後悔は、おそらく、しないだろう。
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