Phase 08 ― you were there(君がずっとそこにいた)
永く閉ざされていた扉を、開いた。
真っ白い空間に、イランは足を踏み入れた。続いて、背後から教授も現れた。
何も無い空間に指を走らせると、灰色の線が浮かび上がる。線は次々に増えて空間を区切ってゆく。幾つ目かの区切りが遠くに出来た時、イランは手応えを感じ、その区画を緑色にマークした。そして、二人は足元を蹴ってふわりと浮かび、マークした空間を目がけて宙を泳いでいった。
「久し振りだね」
「ええ。こんな用事で来る事になるとは思いませんでした」
「ナリ」
とても懐かしい名で、教授がイランを呼んだ。驚いて見ると、沈痛な面持ちで教授がこちらを見つめていた。
「……済まない」
「……。どうして教授が謝るんです」
「諸悪の根源は、多分、僕だ」
教授は、多分、と付け加えながらもはっきりと言った。
「人は、理屈通りには動かないものなんだな。――そんなこと、とっくに昔から分かってたのになあ」
「ジェンのことですか?」
「僕自身だよ」
「え?」
「親子はそれぞれ異なる人格の別人で、たとえ親が子を同じ景色の中に居ると思っていても、現実には別々の人生を歩いている。良く知ってた筈なのに、実際のところ僕は何も分かっていなかった」
「……仕方ないです。それは」
緑色にマークされた空間に辿り着く。立方体の形をしたそれは、両手を広げたくらいの大きさで浮かんでいた。
「息子にもう一度会いたいと願いながら、……僕は君やヒカルを見ているように、息子のことも冷静に見ているつもりだった。とんでもない勘違いだ」
「仕方ないです。他人と親兄弟は、違いますから」
イランと教授は、それぞれ緑色の立方体の異なる面に向かった。端から表面を指で撫でてゆき、足掛かりになりそうなところを探す。
「教授にとって、私もヒカルも他人だったから、私はここまで来れたんだと思います」
イランは立方体の表面にあてた手を動かしながら、言った。
「初めてプロジェクトの事を話してくれた日のこと、覚えてますか」
「覚えてるよ」
「あの日の帰り、車で、ヒカルを送った後に私も千駄ヶ谷の母のマンションまで送ってもらいましたよね。その時、私が、坂本さんはヒカルの本名の事とか知ってたんですか、って聞いたら、知ってたよ、って答えたじゃないですか。一言で、物凄く、あっさり」
ちらりとイランのほうを見て、教授が訊いた。
「……そうだっけ?」
「そうなんです」
「僕、冷たいね」
「それで、ヒカルが坂本さんに『ちゃんと子供をやってない』って言われた話になって。きっと私も、ヒカルと似たようなもんだなと思ってたんですけど」
「あ、あったよ。ここから開けられそうだ」
教授が立方体の一点を指し示した。イランもそちらを覗き込む。教授が拳で軽く叩くと、その一点を中心にして、放射線状に浅いひびが入った。
二人は顔を見合わせて頷きあい、ひびを指でなぞり始めた。
割れ目がみるみるうちに、深くなってゆく。
「ちゃんと子供をやってこなかった過去の埋め合わせは、不可能じゃないよ、って言ったんです。坂本さんが」
「……」
「人の役割はそれぞれ違うから、親に頼むのは無理だけど。ヒカルの欠けた部分を埋められるのは、たとえばナリみたいな人だろうなって。私は自分にそんなことが出来ると思ってなかったけど。段々、正しいかもなと思うようになりました。――その逆が、真実だったから」
緑の立方体の一つの面の全体が、ひびで覆われた。
割れ目から光が零れる。
二人が手を離すと、その瞬間、平面が割れて砕けた。二人の前で、立方体が箱のように口を開けている。
イランは、隣の教授の目を真っ直ぐ見た。
「だから、それでいいんだと思うんです。血縁に振り回されるのも、他人に冷たくなるのも、しょうがないし、間違ってない。一人ひとりの役目が違うだけで」
教授も、イランの瞳をまっすぐ見ていた。
そして、微笑んだ。
「――君は、成長したな」
イランも微笑んで、頷いた。
「行きましょう。ジェンのところへ。――一緒に行きます」
二人は、大きく口を開けた立方体の中へ、順に飛び込んだ。
記憶の刻まれた図書館の、更に下へ潜る。
フライズには図書館がひたすら無限に続いているようにしか見えなかったが、レイが階層の違いを見分けてくれた。ここではフライズと俺とじゃ物の認識方法が違うんだよ、とレイは言った。
レイに言われた通りの場所に足を乗せると、身体が床の下に吸い込まれていった。視界が一瞬ホワイトアウトし、眩しさにくらんだ視界が戻ると、二人は世界の奥に向かって真っ直ぐ伸びる、深い深い井戸のような穴に落ちてゆくところだった。
フライズが握り締めている金色の王尺を見て、レイが尋ねた。
「お前、それどこから持ってきたんだ?」
「赤の女王に貰ったの」
驚きを隠さずに、レイが言った。
「お前、ドロシーに会ったのか……」
「あと、白の騎士にも会ったよ」
「――ブリキか」
「あの人たち、オズから来たって言ってた。――ねえ、私達がいるのと別の世界があるの?」
「――」
逡巡するような沈黙があったが、ほんの僅かだった。裏表の無い声で、レイが説明した。
「オズは、ベータテスト……ええと、何て言えば良いんだ? リデルが生まれる前に、要は練習で作られた世界だ。リデルが存在するようになってからは、普段は、時間を止めてあるんだな」
「ふうん。……私ずっと、白の騎士は、おとぎ話の中だけのだと思ってた」
「子供達が、ノワシールを出て迷子にならないように、見張ってもらってたんだよ」
「ああ――そっか」
井戸の底を目指して、二人は沈んでゆく。
静かだった。音という情報が一切存在しない空間を、フライズとレイは滑るように泳ぎ続けていた。現実離れした、しかしながら今のフライズにとっての、紛れも無い現実だった。
この世界が何なのか。自分が誰なのか。フライズにも、ようやく実感として理解でき始めていた。
おとぎ話の主人公が、紛れも無い自分達であった事。
ドロシーという名前を、もっと幼い頃、図書館の絵本で読んだことがあった。オズの魔法使い、という題名だった。案山子とブリキの兵とライオンと共に、魔法の世界を旅する女の子の物語だった。オズという魔法使いの名が冠された、魔法の国――
「ねえ、レイ。――リデルって、誰の名前?」
フライズは、心のどこからか自然に沸いた問いを、気付く前に口にしていた。それを聞いて、レイは少し目を見張った。フライズは、レイの目を真っ直ぐ見た。
「私、知りたい」
フライズの瞳を、レイもまじまじと見て、そして小さく溜息をついた。
「……お前は、大丈夫だな」
「うん」
フライズが力強く、頷いた。
「不思議の国と鏡の国を旅した女の子の話は、読んだことあるか?」
「……? 知らない」
「”Alice in wonderland” and “Through the looking-grass”(『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』)」
「アリス?」
ちょっと古めかしい名前だな、と思いながら、フライズは首を傾げた。
「その二つの物語の主人公のモデルになったお嬢ちゃんの名前だよ。俺らは、みんなで作ったこの世界に、その子の名前を付けた」
「どうして?」
「そのお話が、アリスが兎穴に飛び込んだところから始まるからさ。俺らの始まりも、地面の下に潜った、その先にあったんだ」
「ここみたいに?」
フライズはレイと一緒に、今まさに、世界の深遠へと潜っていっている。レイが微かに笑った。
「そうだな」
程なくして、井戸の底が見えた。
灰色の硬い床に、足を乗せる。
「どっちだ?」
フライズは周囲を見渡した。すると、暗闇を引きずったような痕が、遠くの床に残っていた。
「あっち!」
指差して、フライズは走り出す。後ろからレイも付いて来た。
「なんか見えるのか?」
「レイには見えないの?」
「なんも見えん」
レイが憮然と答えた。
黒い痕跡を辿り、時間を忘れて走る。
目の前に、巨大な扉が現れた。
「この……中?」
扉は黒々と聳え、見上げても上端が分からないほど、どこまでも続いている。そしてフライズの目の高さに、拳が入るくらいの、これまた巨大な鍵穴が付いていた。フライズは鍵穴を覗き込んでみた。真っ暗で何も見えない。
「それ使えるか」
レイが、フライズの手に握られた王尺を見て言った。
「うん」
フライズも迷わず、頷いた。
王尺を鍵穴へ差し込む。
王尺と穴の隙間から金色の光が零れ、扉が僅かに開いた。
二人が通り抜けるには、充分すぎるくらいの隙間だ。
鍵穴から抜いた王尺を再び握り締め、フライズは扉の中へと足を踏み入れた。
扉の向こうには、巨大な円形の、薄暗い空間が広がっていた。
硬いガラスの床にぶつかった足音が、壁に反響する。
床には、曇りガラスで出来た、数十、いや数百の大きな細長い箱が並んでいる。
棺だった。
静寂の底で、幾多の棺が、横たわっていた。
そして、部屋の中央にほど近いところに、大きな影が見えた。黒い翼を生やした少女が、黒い剣を抱えている。
「――ジェン!」
フライズが思わず駆け出した瞬間、ジェンは剣を大きく一振りして叫んだ。
「――邪魔しないで!」
ジェンの足元を中心に、木の根のような黒い影が、無数に広がってフライズに手を伸ばそうとした。
「うわ!」
背後でレイが叫ぶ。黒い影の帯は、まるで生きている触手の如く、瞬く間に部屋中の床と棺の上を覆った。
あちこちでガラスの床が砕ける音がする。黒い根が棺を叩き割らん勢いで走る。
襲ってくる根を、フライズは王尺で払った。
金色の王尺が触れると、黒い根は煙のように消えた。
「ジェン! やめて!」
「邪魔すんな!」
「――嫌、だ!」
フライズは叫んだ。
黒い羽根を高く伸ばし、黒い剣を軽々と操るジェンの頬には、涙の痕すらもう残っていなかった。フライズに向かってジェンが、冷たい声で叫び返した。
「何するつもり? 何ができるつもり? 死も知らないくせに! 僕だってフライズだって、箱庭の人形以下だよ! 虚しい夢の中で幸せごっこ!? 残酷なだけじゃないか!」
ジェンの目の前で、フライズは足を止めた。
「……残酷、なの? ここにいるだけで?」
「そうだよ。言ったでしょ?」
「私も?」
フライズの大きく開いた瞳を、ジェンは見つめて、言った。
「……良かったね。生まれた時から正しく愛されて、望みどおりに幸せで、足りないものなんて何も無いよね? けど、知らなかったでしょ? 僕も君も、絶対に何にもなれない幽霊なんだよ? 幸せでも悲しくても、偽物なんだよ」
絶望に冷たく覆い尽くされている。
ジェンの言葉は、どこまでも固く凍り付いていた。
「……幽霊でも、いいよ」
重い唇から、フライズはようやくぽつりと、言った。
「私は――幽霊でも、私はジェンが好きだよ。まだ――大好きだよ」
「……」
「ジェンが夢から醒めても、どうすれば覚えててもらえる?」
いつしか、フライズの頬に大粒の涙が零れていた。
「私は、幽霊でも、何者にもなれなくても、いいよ。夢の外に出られなくても、今まで幸せだったから。だから――」
ジェンは、乾いた目と白い頬で、俯いていた。何も言わずに、フライズの瞳から流れる涙がガラスの床に落ちるのを、見ていた。
「だから、ジェンの悲しみが偽物だなんて、言わないで!」
まだ遅くない。
そう信じたかった。
その時、ジェンの唇が少し笑った。そして、呟いた。
「……こんなの、間違ってる。正しいわけ、ない」
「ジェン!」
刹那、ジェンは大きく翼をはためかせ、黒い剣をフライズに向けて振り下ろす。
咄嗟にフライズは、王尺で剣を受け止めた。鋭い金属音が、ガラスの部屋にこだました。
ジェンは諦めず、再び剣を振るった。
「避けろ、フライズ!」
背後からレイの声がする。後ろを一瞬伺うと、両足を黒い根に掴まれて倒れ付しているレイが、上半身だけでこちらを見ている。
ジェンの剣をどうにか王尺で払い、しかし勢いに押されて、フライズの足がよろめいた。
その隙に、巨大な黒い翼が、フライズの身体を横から叩いた。
フライズは、自分の身体が床に叩きつけられるのを感じた。
間髪いれず、ジェンの剣がフライズの上に迫る。
思わず強く目を閉じた瞬間、乾いた破裂音が空間を切り裂いた。
「――っ、ああぁ!」
ジェンの悲鳴。続いて二発、三発と破裂音が走る。
フライズはおそるおそる目を開け、あっと叫んだ。ジェンの翼が銃弾に射抜かれている。ジェンが顔を歪めてうずくまった。同時に、遥か頭上から声がした。
「ジェレミー!」
上を仰ぐと、教授とイランの姿があった。空からこちらを目掛けて降りてくる。
イランの右手には、拳銃が握られていた。床の上に降り立つのとほぼ同時に、イランはレイのほうにも向けて数回、引き金を引いた。銃弾がレイの身体を縛り付けていた根を砕く。どうにか立ち上がれたレイに、イランが言った。
「お待たせ」
「……。随分物騒なもん持ってきたな」
「一応何か装備しときたかったんだけど、私の発想じゃベタなものしか作れなかった」
「いいぞ。美人に似合ってる」
「後で聞くわ」
珍しいレイの褒め言葉を、イランはあっさりと受け流す。二人とも、話しながらもジェンから目を離していなかった。
ジェンは、突然現れた教授の姿に、呆然としている。
「……父さん」
「ジェレミー、済まなかった」
「今更? ――遅いよ」
痛みと哀しみと絶望に満ちた声で、短く嗤う。そうしてジェンは、再び翼を勢い良く広げた。ぼろぼろの翼が一瞬、視界を黒く埋め、次の刹那、全ての羽根が抜けて弾け飛んだ。
無数の黒い羽根が、鋭く飛び散る。
「ファイアウォール!」
イランが叫んだ。その声と同時に、レイは大きく両手を広げていた。緑色の光が網のように床の上を走る。光は棺を上から守る形で覆った。
だが黒い羽根は、緑色の覆いに突き刺さってもエネルギーを失う様子を見せず、数秒で部屋のあちこちからガラスの割れる音が聞こえ始めた。羽根は覆いを突き抜け、ガラスの床と棺に、容赦なく突き刺さる。
「追いつかねえ! 修復しろ!」
「無理! 早すぎる!」
「さすが向こうはデジタルネイティブだな」
「感心すんな!」
羽根は、ガラスの部屋の壁にも、無数に突き刺さっていた。
細かい破片が、きらきらと光りながら降り注ぐ。
フライズは翼を失ったジェンの元へと、駆け出していた。
ゆっくりと、視界が揺れる。
ジェンが高く跳び上がる。
そして、足元のガラスの棺に向けて、黒い剣を振り下ろした。
「だめ――!」
フライズは叫んで、咄嗟に、棺に覆いかぶさるように、ジェンの下へ滑り込んだ。だが、横から鈍い衝撃を感じて、倒れた。
硬く、鋭い音が、響いた。
時が止まったような静寂。
もはや、ガラスの部屋の中には、残響すら無かった。
おそるおそる顔を上げて、フライズは目を疑った。
フライズの剣が、教授の身体を大きく貫いている。
剣の先は、教授の身体の下で、ガラスの棺の蓋を割って、止まっていた。
「――父さん」
棺の中には、栗色の髪の少年が、瞼を閉じて横たわっている。
教授の声が、微かに聞こえた。
「……ごめんよ。君が死にたいと願うのを、阻むのは、これで……二度目なんだね」
ジェンは、瞳を大きく見開いて、剣の先を見つめていた。
「――何、してんの。遅すぎるって、言ったのに」
「僕の、我儘だよ。ジェレミー」
剣が刺さった胸は微動だにせず、だが、刃の周りから少しずつ少しずつ、静かに白く色を失っていく。
血が流れる代わりに、白い光が砂のように零れてゆく。
「済まなかった。最後まで……僕は、何よりも……自分の、願いを、優先していた。あの時も、そうだった」
途切れ途切れに、穏やかな声で、教授はジェンに語りかけていた。
「……皆、諦めてた。医師は、君が、植物状態だと、判断を下した――けど、僕は、……君に、もう一度、会えるんじゃないか、と」
「……なんで」
ジェンの大きく見開いた瞳から、涙が落ちた。
「……気が付いて、たの? 僕が――僕の意識が、死んでないって」
教授が静かに微笑んだ。
「さすがに、確信は……無かったけど、ね」
「どうして――」
「君の脳波や……心電図や心拍数、膨大な量のあらゆる君の記録を、ひたすら、読んだんだ。医師もコンピュータも気付かない、君の、手掛かりを、探した」
「――嘘だ」
教授の指が優しく、ジェンの頬に触れた。
少年の大粒の涙が、殆ど白く消えかけた指先を、濡らした。
「済まなかった。悲しい記憶を……勝手に、消して、ここに、君を、連れてきた。――やり直せるかと、思ったんだ――」
「そんな、……簡単に、いくわけ、ないじゃない」
「……そうだね」
さらさらと零れた光が、静寂に溶け、消えてゆく。
レイもイランも、言葉を失って、ただ呆然と立ち尽くし、ジェンと教授の二人を見つめている。
「ありがとう。……君と、過ごせて、僕は、本当に、楽しかった」
静かな声が、消えてゆく最後の光と共に、囁いた。
「――愛してるよ」(I love you)
「父さん――」
嫌だ。
行かないで。
消えないで。
叫び出したいのに、声にならない。
すべてが白い光に満ちる。溢れ出すばかりの心が、虚しく喉に詰まる。
黒い羽根が刺さってひびだらけだったガラスの部屋の床と壁が、次々に剥がれ始めた。
破片が部屋の中に舞い上がる。
「リストア! 急げ!」
遥か遠くで、レイが叫ぶ声が聞こえる。
視界が白く眩しく揺れる。その向こうへと、必死に目を凝らす。
フライズの瞳に、泣き叫ぶジェンの横顔が映った。
支えとなっていた教授の身体を失い、剣が、それを掴んだジェンの両手が、力無く崩れてゆく。
涙と共に、棺の中の少年の胸に、剣が落ちようとしていた。
フライズは弾けるように跳んで、ジェンの手を掴んだ。
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