Phase 07 ― shaking, waking, fading(揺れる、目醒める、そして消えゆく)
森の外れで白の騎士と別れてから、フライズは、町の入り口まで一気に走った。
右手には、赤の女王から渡された王尺をきつく握り締めている。空には厚い暗雲が低く浮かんでいた。町を覆い尽くす黒い雲には、大ガラスの羽根という言葉がぴったりだった。
煉瓦造りの建物が並ぶ大通りに駆け込んで、フライズは目を見張った。
日の光が暗雲に遮られて暗いだけではない。町自体が、色彩を失いかけていた。そして、住人は皆、突然時間を止められたように、ある者は歩いている途中で、ある者はベランダの植木鉢に水をやりながら、動きを凍りつかせていた。
思わずフライズは、自分の家へ足を向けていた。
走り続けている疲労も、忘れていた。
友達と談笑しながら動きを止めている男の子達。車を運転しながら止まっているおばさん。雑貨屋のドアを開けようとしているおじさん。彼らの横を走り抜ける度、フライズは涙が溢れそうになった。
程なくして家が見えてきたが、あの時、ジェンの家を中心に舞っていた雪は、跡形もなく消えていた。
ただ、暗い。
「レイ! レ――イ!」
フライズは叫んだ。しかし返事は無い。
その時、背後の空を黒い何かがよぎったような気がした。振り返って眺めると、家々の屋根が続くずっと向こうに、暗闇の柱状のものが空へ聳えている。まるで地上から空へ、影が吸い上げられているかのようだ。
あの方角は、町の中心だ。
図書館や学校がある辺りだ。
フライズは、今度は町の中心部へと、走り出した。
色彩を失いつつある町を、再び駆け抜ける。
刻々とくすんでゆく景色の中に在りながら、フライズ自身の身体や衣服は例外のようだった。それだけではない。
右手に握り締めた王尺は、不思議と逆に色を得つつあった。赤の女王から受け取った時は、女王のえんじ色の王冠に似合う、黒檀のように暗い色をしていた。それが段々と、フライズの握っている手元の辺りから、金色に変化しつつある。だが、今はそれを不思議がる暇もない。
シティホールの前の広場で、フライズの足が止まった。
「――ジェン」
広場の中央に、モノクロームの空間が膨らんでいる。
その真ん中に、こちらに背を向けて、一人の少女が立っていた。異様な光景に、フライズは呆然と立ち尽くした。
少女の背中に、巨大な黒い羽根が生えている。
だが、それは見間違いようのない、ジェンの姿だった。
ジェンもフライズに気付いて、振り返った。
「……フライズ!?」
ジェンが目を見開いた。ここにフライズが現れるとは、全く想像もしていなかったらしい。
「どうして――」
「ジェンを探しに来たの」
ジェンの背中には巨大なカラスの黒い羽根があり、片手に黒い剣を持っていた。白の騎士から奪った剣に間違いない、とフライズは思った。『大ガラス』の手に握られて、色が変わってしまったのだ。
不思議と、フライズは恐怖を感じなかった。ゆっくりと、ジェンに歩み寄る。
「ジェン……、ごめんね」
「どうして――なに謝ってんの。意味わかんない」
苦々しげにジェンが吐き出して、目を逸らした。それでも、フライズは真っ直ぐジェンを見つめていた。まるで、今にもジェンが逃げ出すのではないかと恐れて、唯一存在する糸を掴むかのように、見つめていた。
「……私、何も知らないのに、ううん、知らないから、浮かれてた。森へ行ったのも、大きな謎々を解くぐらいのつもりで。すごく軽く、考えてた」
「……」
「ごめんね。……ジェンが持ってる物を、知りたかったの。重たいなら、一緒に、運べるかと思ったの。そしたら、ジェンが楽になるかと思ったの」
「……」
「私はジェンが好きで、心配で、だから一緒に行きたかったの。ジェンが行く所へ」
「……無理だよ」
ジェンが、嘲笑混じりの声で呟いた。
「フライズが僕と共有できるものなんて、無いよ」
そして、顔を上げた。
目の前にあったのは、フライズの良く知っている、ジェンの瞳だった。
しかし、フライズの知り得ない哀しみを湛えていた。
「……僕は、小さい頃から、母さんと二人暮らしだった。母さんは、父さんが僕らを捨てたって言ってた。……どっちがどっちを捨てたなんて、子供からしてみればどうでもいいのにね」
フライズの前にいるのは、十一歳の少女でありながら、少年でもあった。
「うちから遠い全寮制の高校に行きたいって僕が言ったら、あなたも私を捨てるのねって母さんがすごい怒って。泣いて。あの日、車の中で言い合いになって」
ジェンがかつて話してくれた悪夢が、フライズの脳裏に蘇る。
――外は雨が降ってるの。
――車が道路から外れて。滅茶苦茶に歪んでて。
――車の運転席のところに、さっきお母さんが着てた花柄がちょっとだけ見えるの。
――呼んでみようと思っても、全然声が出なくて、
「母さんは、あの時もう、死んでた」
掛けるべき言葉が無い。
見付からないわけではなく、フライズの中には、無かった。
ジェンが唇の端で、微かに笑った。
「……それからずっと、僕は僕の中に閉じ込められてた」
「閉じ込められてた……?」
「分かる? 分かる筈ないよね? うっすら開いた目で周りの様子が見える、耳も聞こえる。なのに――手も足も、全身どこも、一ミリも動かせない。意識があるのに誰にもそれを伝えられない。しょっちゅう僕の様子を見に来てるつもりの伯母さんも、医者だって脳とか色々検査したくせに。気が付かないんだ――僕がここにいるって」
大きく見開かれたジェンの瞳が、うっすらと濡れている。
その瞳の端から、一粒の涙が落ちた。
泣くことすら出来なかった長い時間が、ジェンの内にはあったのだ。
「友達が何人もお見舞いに来たよ。本当は心の底で、僕には聞こえてないって思ってるくせに、たくさん僕に話し掛けるんだ。一年経っても二年経っても来る。僕の事を忘れないって言ってた。チューブやケーブルが一杯繋がってる僕と一緒に写真を撮って、ネットに上げて、誰と誰がコメントくれたとか教えてくれる。……頼んでもいないのに、拒否もできないって何なんだよって思った。最低だった」
フライズは、ただ黙って聞いていた。
ジェンの頬には、次々に、大粒の涙が零れ落ちていた。
「自分達はハイスクールに進んで、車の免許も取って、好きな服を選んで、パーティーを楽しんで、ガールフレンドとヤッて、俺達の世代は将来の夢も未来も暗いとか言いながら、みんな、生きてた。それで、僕の事が可哀想で仕方ないって本気で思ってた。可哀想だ可哀想だって!」
彼らは、きっと『そんなつもりじゃなかった』のだろう。フライズには痛いほど分かった。同時に思った。
『そんなつもりじゃなかった』は、なんと無責任な言葉だろう。
善意。同情。浴びせるように投げ掛けられるそれらは、決して差し出されることのない掌に向かって落ち、孤独をいとも簡単に素通りして、深い足元に泥のように溜まっていったのだ。
「フライズに分かる筈ないよね!? そんなに可哀想がるならその身体くれよって言いたかった! 駄目なら殺してくれって伝えたかった! 死ぬのも一人じゃ出来ないのに、僕と同じ場所には誰もいないんだよ!? 人間が他人に寄り添うなんて――不可能なんだよ!」
不可能じゃないと思う、と叫びたくても、フライズには出来なかった。
どうすれば良いのだろう。
「挙句の果てに、父さんが僕の脳をスキャンしてコンピュータの中で動かし始めた。酷すぎる。人を玩具にして。今更、幸せな家族ごっこを夢の中でやり直すつもり? 馬鹿にするのも大概にしろよ――そんなん、もう充分すぎるんだよ! 僕は夢の中の人形になんてなりたくなかったんだよ! 煙みたいな夢にするぐらいなら、殺せよ!」
広場の噴水も花壇も、完全に色を失っている。
足元の影が、徐々に濃くなっていた。
手を伸ばすべきか、フライズは迷っていた。
どうすれば良いのだろう。
もし、イランとレイがここに居てくれたら、二人ならどうするだろう。
その時、ジェンが微かに笑った。
「……殺して、欲しかった」
ジェンの背中の羽根が、勢い良く広がる。足元の影が舞い上がる。
翻った大ガラスの羽根は、フライズとジェンの間を遮った。
「フライズ、さよなら」
「――だめ!」
時の流れと共に凍り付いていた空気が、一気に流れだす。
風に包まれ、暗闇が渦を巻き、咄嗟にフライズは一瞬目をつぶった。
「ジェン!」
目の前の人影が、地面に飲み込まれてゆく。
慌てて手を伸ばす。指は空を掴む。
フライズが踏み出した足は、しかし地面には沈まなかった。硬い石畳を踏んだ。気付けばジェンの姿は無く、フライズは独り、周りをくすんだ灰色の霧に囲まれていた。
巨大な影だけが足元に残っている。
――ジェンを、追いかけなきゃ。
でも、どうすれば良いのか分からない。
足元の影を踏みしめて、立ち尽くす。
フライズは、ジェンの姿が溶けていった地面を見つめていて、ふと自分が持っている王尺に目を留めた。
もはや影と闇ばかりになりつつある世界にありながら、王尺は金色に光っていた。
フライズは、王尺を両手で持ち、目の前に掲げた。
そして気付いた。色を保っているのは、王尺だけではない。
自分の手も、足も、服も、まだ色を失っていない。
――私、これを使える。
未知の確信が、フライズの内に生まれた。
フライズは、王尺を頭上に大きく振り上げ、次いで、ジェンが消えていった場所の地面を、力いっぱい叩いた。
王尺の先がぶつかった一点から、白い光が弾けた。
光は、さざ波のように、それでいて力強く、広がってゆく。
光に覆われた地面が、鏡のように透明になる。反射の眩しさに、思わず目を細める。
フライズは上下を見失った。
いつしか、身体が白い空間にふわりと浮いていた。足元にあった地面が、地面であり壁だった。まるで、あの時のマントルピースの上の鏡のようだ。
フライズは、どこまでも広がっている白い鏡に触れた。
その瞬間、鏡の向こう側の空間が、フライズの目の前に広がった。
一枚のガラスを隔てた向こうに、図書館のような景色が、どこまでも続いている。
美しい光景だった。
背の高い本棚が数え切れないほどあり、その一つ一つに、びっしりと本が並べられている。色とりどりの背表紙。古びた本に真新しい本。厚さも大きさも一冊ずつ異なる本たちが、きらきらと光りながら、果てしなく続く。
フライズは自分に言い聞かせるように大きく頷いて、右手に握り締めた王尺を確かめた。
そして、ガラスの向こう側へと、飛び込んだ。
瞬間、目の前が真っ白になる。
やがて霧が晴れる。
フライズは、記憶を孕んだ記録の海の中へ、落ちてゆく。
自由に身体を動かせることを確かめ、ひとつの本棚に近付いて、分厚い本を一冊、手に取った。吸い寄せられるように、指がその本を選んだ。
本を開くと、目の前に、今度は見たことのない町の光景が、瞬く間に広がった。
映画でしか知らないくらいの、巨大な都市だ。高架の線路が走っており、道路にはノワシールの何倍もの密度で車が行き交う。四角くて背の高いビルが連なり、それらの谷間を木々の頭が埋めている。だが、木々の葉は殆ど枯れており、裸の枝ばかりが寒々しく霧雨に湿っていた。
ノワシールの町には列車が無かったから、駅も列車も本や映画でしか知らない。フライズは思わず、初めて見る駅に近付いた。
『SENDAGAYA STATION』という看板が見えた。
と、突然、後ろから懐かしい声がした。
「こら。他人の黒歴史をあんまり覗くんじゃない」
「レイ!?」
フライズは驚いて叫び、振り返った。
今朝まで一緒に居たのと寸分違わぬ、レイの姿が、そこにあった。
「はー。やっと追いついた。無事で一安心――」
「レイ!」
何かに弾かれるように、フライズはレイの胸に飛び込んだ。
「おっと」
僅かによろけながらも、レイはしっかりとフライズを抱きとめた。
「レイ! 会いたかった」
「おい。独りでこっちに突撃したのは誰だよ」
娘の言葉に苦笑するレイの声も、今朝まで聞いていたはずなのに随分懐かしく、あれからとても長い時間が経っているような気がした。
「ねえ、これはレイの記憶なの?」
「うんにゃ。この景色は俺も覚えてるけど、実際は俺の記憶じゃない」
「じゃあ誰の?」
「イランのだ」
きっぱりと、レイが言った。
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