Ⅵ―君思う、故に君在り

薄汚れた夜の帳が降り始める頃、国道沿いで二人は坂本と落ち合った。

ヒカルは目印に、自宅から徒歩数分の、駐車場のある大きなコンビニを指定していた。そろそろ着く、という電話を受けてナリとヒカルが歩いてゆくと、丁度、ありふれたハイブリッドカーが駐車場に滑り込んでくるところだった。

銀色の流線型のフォルムが、明るすぎるコンビニの照明を反射して眩しい。目を細めると、運転席で坂本が片手を上げているのが見えた。

二人は後部座席のドアを開けて、車に乗り込んだ。

「悪いね、カフェやファミレスじゃ話し辛いことだったから」

「いえ、別に」

「晩ご飯食べた? まだならドライブがてら、後で奢ろうか」

坂本が運転する車は、途中で国道から逸れ、海側に向かった。

程なくして埠頭の公園に入り、駐車場に車を停める。

駐車場は僅かに高台に位置していて、運河に面した夜景が望めそうな場所だが、実際の夜景は随分心許なかった。埠頭も沿岸の工業地帯も、まばらにしか照明が点いていない。その景色を眺めて、坂本が言った。

「ひどいもんだよな。貨物船も少ないなら工場の稼動ラインも半分以下ときてる」

「前からこんなもんだったような気、しますけど」

坂本の言葉と目の前の夜景に、ヒカルが首を捻った。

「ま、君らは物心ついた頃から、どん底の世の中を見てきてるからね。でもここ数ヶ月の状況は、異常なんだよ」

小さく溜息を吐いて、坂本は続けた。

「今はまだ、北米もEUもアジアに対して緊迫体制は取ってない。だが、金持ちや社会の中枢に近い人間ほど、非常時に備えて金や資源をプールし始めてる。もう何年も前からだ。そして、恐れていた事態が現実になる寸前にある」

ありふれた日常は、もう、薄い表面だけ残して朽ち果てている。

坂本はそう言っている。

ナリにも何となく分かっていた事だった。ただ、興味を向けなかっただけだ。

世間の大多数の大人と同じように、問いかけも答え合わせも放棄してきた。

いつ何処でどんなテロがあったか、どこで災害が起きたか、国内外のニュースを注視したところで、ナリの身の回りは何ら変わらないから。自分には何の力も無いから。ありふれた日常が崩壊する時には、きっと自分も一緒に崩壊するしかないと、思っていたのだろう。

ヒカルが訊いた。

「……坂本さんは、俺らをアメリカに連れて行きたいんすか」

「アメリカ、もしくはドイツだ」

「坂本さんて、スパイだったんすか?」

「そんな高給貰ってないよ」

坂本が苦笑混じりに否定した。

「僕の雇い主は民間人だ。ダン・ケリーっつうオッサンで、政財界に影響を及ぼすぐらい、むちゃくちゃ金のあるアメリカ人だと思ってもらえれば大体合ってる。そのダンが私財を突っ込んで作った、名目上はIT企業が、他にも金持ちの出資者を集めて、言わばシェルターを作るプロジェクトを進めている」

「シェルター……核戦争が起きても大丈夫、みたいなのですか?」

今度はナリが訊いた。

「それに近い。だが厳密には、君の思ってるシェルターと違う。巨大なデータサーバと、人間の脳を読み取る設備の施設だ」

「人間の、脳を――」

「大雑把に説明すると、人間の思考回路と記憶をスキャンして、巨大なサーバ上で走らせる」

「意識だけで生き延びる、ってわけですか」

「そういうこと。食料も水も無くてもコンピュータを稼動させる電力さえあれば、我思う、故に我在り、だ。電力は複数の自然エネルギーで賄う。スキャンされた人間のデータは、スパコンの中に存在する仮想現実の空間で生きる人格となる。時間の流れは現実よりもだいぶ遅くなるけどね」

「CPUの処理速度の問題っすか」

「そう。中に入る人数が、多いんだ。ダン達金持ち以外に、エンジニア達も一緒にそのデータ人格になる必要がある。開発やメンテナンスは続く筈だからね。大勢の人間が暮らす町が、スパコンの中に構築される」

「へえー…」

どこか他人事のように、ヒカルが呟いた。

「今の時点ではカリフォルニアのサンタクララ、いわゆるシリコンバレーで開発をやってるが、スパコン自体は物理的にはヨーロッパだ。ドイツとスイスの国境に近い辺りにデータハイヴ(データの巣)がある。……ダン・ケリーの見立てだと、先進国首脳会議の交渉は、この先の数週間が山場だ。僕は海外への渡航自粛勧告が出る前に、ぎりぎりのタイミングを見計らって、東京を出るつもりだった。君らが合意するなら、パスポートさえ早急に申請してもらえれば、君らの航空券は僕が用意する」

坂本が、後部座席のナリとヒカルを振り返った。初めて見る、鋭い眼差しだった。

「僕は、君らに、生き延びて欲しい」

ナリは、目を逸らすことが出来なかった。

「佐藤さん、ヒカルに君も一緒にって言われて、君の事を調べさせてもらった」

「え――」

「実際調べたのは僕じゃなくて、ダンの下に居る、その道に詳しい奴だけどね。――あの綺麗なスクリプトは、伊達じゃなかったんだな。ああいう才能の使い道があるとは」

坂本がにやりと笑う。思わずナリは、耳まで赤面しそうになった。

間違いなく、坂本はナリの作ったアダルトチャット用のAIを見たのだ。

「褒めないよ、僕は。しかしまあ、たまげたよ。……君はあのお母さんの元で、これまで良く頑張ってきたと思うよ」

褒めないと言いつつ、それは紛れも無い、褒め言葉だった。ナリは気恥ずかしくなって、俯いた。

大人に認められるような事をしてきたとは、思っていない。

それなのに、ヒカルはともかくとして、国内外の技術者を見てきたはずの坂本が、どうしてエンジニア候補としてナリと向き合っているのだろう。

とらえどころの無い夢のような、不思議な気分だった。

「僕がしようとしてるのは、ただのヘッドハントだ。……で、ここからはこっちの勝手な我儘だけど、僕は、君らに大人を踏み台にして欲しいと思ってるんだろうな」

まばらなライトを遠く眺めながら、坂本が言った。

「――君らは、大人の犠牲になってきた子供だ。今までも、そして、これから更に犠牲になろうとしている。その、せめてもの、罪滅ぼしに」

フロントガラスの彼方に、工場の群れが、墓場のように黒々と立っている。

昼間は稼動しているのか、それとも廃墟なのか、ナリには知る由も無い。

ヒカルが沈黙を破った。

「あの、一つ訊きたいんですけど」

「ん?」

「坂本さんは、なんでその億万長者のアメリカ人の下で働いてるんすか。天変地異が起きても核戦争が起きても生き残るためですか」

ヒカルの問いかけに、坂本は逡巡しているようだった。

少し躊躇った後、彼は口を開いた。

「……僕には、息子がいるって話したよね」

「はい」

「元妻と出会ったのは、昔、スタンフォードで客員研究員をしてた頃だ。結婚して一年くらいで息子が産まれた。……でも、結婚生活は、あんまり持たなかった。息子が四歳の時に、僕は一人で日本に戻って来た」

感情を交えず、淡々と話す。感情を白く塗りつぶした声だった。

「息子は十三歳の時に、母親の運転する車で事故に遭った。もう四年近くになるかな。――それからずっと、植物状態なんだ」

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