Phase 04 ― through the looking-glass(鏡)
目覚ましのアラームが、ベッドサイドでけたたましく響いた。
まどろみの向こうで、鮮烈な音が容赦なく降った。
フライズは、思わず飛び起きた。そして、ベッドの中で毛布にくるまっていた自分に気が付いた。
思わず周囲を見渡す。
「え……ここは、うち? 朝……?」
何が起きたのか、フライズには全く分からなかった。
右手は、何年も愛用しているガラスの立方体のアラーム時計を掴んでいた。部屋の中を見渡す。スクールバッグ、壁にピンで留めたバースデーカード、無垢の木で出来たデスクと本棚。見間違いようのない、家の二階の、自分の部屋だった。
「さっきまで私、森に――ジェンと二人で、いたんじゃなかったっけ? 夢? ここは夢の中?」
これが夢なのか、それともジェンと一緒に森へ行ったのが夢だったのかすら、判別できない。しかし、そのどちらも恐ろしく鮮明だった。
フライズはベッドから抜け出して、部屋の中の日常を一つ一つ確かめる。ビーチサンダルに突っ込んだ足の裏の感触はいつもと全く変わらなかったし、おそるおそる触れた本棚も、柔らかなぬいぐるみのホッキョクグマも、確かにここにある、と確信した。
「なんで……。これ、夢じゃない? それなら私、いつの間にか、うちに帰って来てたの……?」
もしかしたら、どうにかして森から帰宅して眠るまでの事を覚えていないのかもしれない。意を決して、フライズは部屋を出た。
階段を一段ずつ降りると、ダイニングにイランとレイが立って何事かを話していた。イランが先にフライズに気付いた。
「あれ、おはようフライズ」
「お、おはよ」
思わずフライズは僅かに表情を強張らせたが、それには気付かないまま、イランが笑った。
「こういう時はきっちり起きるよね」
「――」
今度は隠し切れず、フライズは目を丸くした。聞いた事のある台詞だ。
「でも残念。この雨じゃ、ピクニックは中止だね」
「え……」
「せっかく早起きしたのにね」
慌てて窓の外に目をやる。その時初めて、静かな雨音が聞こえているのに気付いた。テラスのウッドデッキも濡れている。
改めて見ると、レイは黒いTシャツにフランネルの部屋着姿だが、イランはシャツとデニム、腕にトレンチコートを掛けていて、出掛ける直前のようだった。
「あ……イランは、仕事?」
「ちょっとね」
イランの表情が硬くなった。仕事モードだ。レイがイランの肩をぽんと叩く。
「気を付けろよ」
「分かってる」
頷いて、イランは玄関を出て行った。
「さてフライズ、どうする?」
「えっ……と」
「ジェンに連絡すっか。や、日曜のくそ早い時間は止めた方がいいな」
「レイは……仕事じゃなかったんだね」
「ん。俺は居残り」
「そっか」
レイが冷蔵庫を開けて、卵を幾つも取り出す。次々とボウルに割り入れた。朝食にするらしい。
「真面目な働き者は、メシも食わずに出て行った……と」
慣れた手つきで溶き卵をかき混ぜるレイを、フライズは暫く呆然と眺めていたが、はっとして二階の自室に戻った。スクールバッグの中からタブレット端末を取り出す。
ジェンのIDを呼び出した。しかし、応答が無い。
もう一度、コールする。ジェンの応答はやはり、無い。
「どうしよう……」
迷った末にフライズは、ジェンのIDへ短いメッセージを送った。
『雨だから今日のピクニックは中止だよね? でも、すぐに確めたい事があるの。話をしたい。連絡もらえる?』
メッセージを送り終えて、廊下の窓から隣家のほうを覗いてみた。雨が壁を濡らしている。何もかもが、見慣れた光景だった。
だが、フライズの頭の中では、混乱が未だ続いている。
ジェンから夢の話を聞いたのが、金曜の午後、学校の後だった。その後、土曜日に二人で図書館へ行き、ピクニックの計画を立てた。その日の夜、夕食の時に、レイとイランに翌日ピクニックに行くと話した。そして日曜の朝から、お弁当を持ってジェンと二人で、川と森へ出掛けた。
フライズは、タブレット端末のカレンダーと時計も調べた。念のため、アラーム時計の内臓カレンダーの日付も確認した。何回見ても日曜の朝だった。レイとイランの口ぶりも、時計も、何もかもが合致している。おかしいのは、自分の記憶だけだ。
階下から、レイの声がした。
「おーい降りて来い、朝飯だぞー」
「今行く!」
ひとまず、フライズはレイの前では平静を装う事にした。ジェンから、メッセージの返事かコールが着てから考えよう。
フライズには、このおかしな記憶について、ひとつ確信があった。
ジェンも同じ状況に違いない。
ダイニングに降りてゆくと、オムレツと胡瓜のサンドイッチが食卓に並んでいた。オムレツにはケチャップがたっぷりかかっている。レイにオムレツを作らせると、溶いた卵の中へ塩と胡椒の代わりに砂糖を一振りしてからフライパンに流し込むので、イランはよくげんなりしている。だがフライズは、そのオムレツとケチャップの甘さも、今日はあまり感じなかった。普段と何ら変わらない風を装いながら、うっかりすると考え事をしている顔になってしまう。
カフェオレを飲み終えるのも早々に、フライズは自室へ戻った。タブレットの画面をチェックする。変化なしだった。メッセージは着ていない。もう一度、ジェンのアカウントをコールする。呼び出し音を二十回鳴らしても、応答は無い。
これからどうすれば良いのだろう。
三十分以上、ベッドの上でひっくり返って天井を睨めながら悩んだ挙句、意を決してフライズは別のIDをコールした。
少し長く待たされたが、今度は慣れ知った声が飛び込んできた。
『もしもし?』
「あっ、もしもし? 教授? フライズです」
『おはよう。どうしたんだい?』
教授の声はいつも通り、穏やかだった。
「あのね、ジェンと話したいんだけど、家にいる?」
『いや、出掛けたよ。君と一緒じゃなかったのかい?』
「え――」
不思議そうに教授が尋ねた。
『どうして僕にかけたんだい?』
「あ――ジェンにコールしても、出なかったから……」
『ふーん。ああ、そういえば今日は一緒にピクニックに行く予定だったんだっけ』
「そう! そうなの、それで雨だから――」
『ジェンもそんな事を言ってたな。これじゃピクニックは中止だって』
「ジェンがどこへ行ったか聞いてない……よね」
『いいや。ごめんよ、僕も仕事があって少しばたばたしていたからね。今朝はそんなに話をしてなかったんだ』
「有難う」
通話を終えて、フライズはベッドの上で暫くそのまま考え込んだ。
――思い出すんだ。
あの森での光景を、一つずつ追い掛ける。
周りが暗くなって、元の道を戻ろうとした。方位磁石がおかしくなった。それから風が吹いて、ジェンと二人で白い騎士を目撃した。そういえば、その時のジェンの様子が少しおかしかったかもしれない。
ジェンは真っ直ぐ白い騎士のほうを向いてはいなかった。どこか別の所を見ていた。そして、最後に何か言っていた。何て言っていたんだっけ――
そうだ。
――『母さん』
そう呟く声を聞いたのだ。
フライズは直感した。ジェンは再び森へ行ったのだ。一人で。
外では静かな雨音が続いていた。
もう正午近い。朝からずっと、自室にこもって延々と悩んでいる。
ジェンが独りで森に行ったとしても、自分がこれからどうすべきなのか、フライズには結論が出せずにいた。ジェンを追いかける? 今、ジェンが森のどこにいるのかも分からないのに? 方位磁石も地図もあてにならない森へ、一人で?
独り悩んでいるうちに、もしかしたら最初から――二人で森へ行こうと提案したのが、そもそも間違っていたのかもしれない、という思いが頭を擡げた。
友達の悩みを共有すると称して、自分は何をしただろう。フライズは正真正銘、本気でジェンが見た悲しい悪夢の手掛かりを探すつもりだったが、振り返れば、自分の言動すべてが浮かれていたように思えてきた。まるで謎解きのゲームをしている気分だった。浮かれて、大切な何かを見失っていた。
自分が間違っていた。ジェンに謝るべきかもしれない。
でも、そのためにはジェンを探し出さねばならないのだ。
フライズは、のろのろと階下に下りた。
キッチンからほんのり甘い匂いがする。
シンクのざるに洗ったトマトが山積みにされ、レイがそれを包丁で切っていた。レイはフライズのほうを見たが、無言で直ぐにトマトへ目を戻した。フライズは黙って、レイの隣に立った。そのまま暫く、レイの手元を見ていた。
レイは濡れて光るトマトを次から次へと掴んでは二つに切り、へたを取り、細かく刻んでボウルに放り込んでゆく。全部、庭で実ったトマトだ。少し小さい。
「何作るの?」
「トマトソースにしちまう。腐らせんのは勿体無いからね、さっさと煮とく」
「おいしそう。私、チキンパスタがいいな」
「覚えとく」
憂いの滲んだ表情でただ隣に立っていても、レイは何も言わなかった。それがフライズには嬉しかった。包丁が木のまな板にぶつかる音と、トマトの切れる音と、テラスの外の雨の音が、静かに淡々と続く。
「……あのね、レイ」
小さく沈黙を破って、フライズはレイに訊いた。
「どした」
手を止めず、刻んだトマトをボウルに移しながらレイが答えた。
「あのね……もし、もしもね、友達が一人で悩んでたら、どうして悩んでるのか聞いたほうがいいよね」
「ま、そうだな」
「だよね……」
「――一人と二人は、全然違うからな」
フライズは、レイのほうを見上げた。いつも通り静かな横顔がそこにあった。全てのトマトを刻み終えると、レイは続けて銀色の大きな鍋に大蒜を放り込み、オリーブオイルをたっぷり注いだ。
「悩んでる本人は喋りたくないかもしれない。もしくは自分が、余計な事聞いちまったって後悔するかもしれない。けど人は独りじゃ生きていけないように出来てる。だから聞いたほうがマシだ」
「もし、友達が話したくないって言ったら、レイはどうする?」
「オーケー、なら話さなくて良いよ。それで終わり」
「そっか。じゃあ、もしも……話してくれたら、――どんな顔をすればいいのかな」
「顔かよ。そりゃ難しいな」
「どうして?」
大蒜の香りの中に、レイがトマトを一気に流し込んだ。外の雨音が消し飛ぶような、熱い音がした。キッチンは温かな湯気と甘い匂いでいっぱいになってゆく。
「顔を作る必要はねえだろ。その悩みを聞いて自分がどう思ったか、嘘を吐くのはあんまりよろしくないと思うぞ」
「でも――」
「例えばだ。仮にイランが真剣に貧乳で悩んでたとするだろ」
「へ?」
突拍子も無い例えに、フライズはぽかんと口を開けた。レイはお構いなしに続ける。
「でも俺がその悩みを聞いて、馬鹿だなあこいつ、と思ったら、多分それは俺の顔に出るぞ」
「えええ、えっと、イランはそれで傷付くんじゃない?」
「知るか」
「えー!」
レイが躊躇なく言い切り、フライズは呆れずにはいられなかった。
「いいの?」
「いいも悪いもねえよ。俺がイランを完全に理解して同調するのが正しいのか? もしそうするべきなら、何の為に皆それぞれ違う身体の上に違う頭を乗っけてんのか、分からなくなる」
「……?」
「つまりな、俺は俺でイランはイランだろ。一人じゃなくて二人だ。だからこそ、こうやってうちで一緒に生活してるんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「解決策を作ればいい」
「どういうこと」
「俺は貧乳で充分というかむしろ貧乳のイランが好きだ、という事を説明する。次に、何故貧乳が悩みの種になるのか、イラン自身から理由を説明してもらう。その上で、どうしたら貧乳が悩みではなくなるのかのアイデアを」
「わ、分かった。もう分かった」
段々と気恥ずかしくなってきて、フライズはレイの言葉を遮った。
「ええと――つまり、大切な人が悩んでたら、聞いて、解決する方法を一緒に探したほうがいい……って、レイはそう思ってるんだよね」
「そういうこった」
レイは右手で鍋をかき混ぜながら、左手でフライズの頭をぽんぽんと撫でた。
「まずは悩みに共感するべきだっていう奴らもいる。それが相手に寄り添っている証しになるってな。けど俺に言わせりゃ、そんなの話を聞いてお終いだ。単純に他人に耳で聞いてもらっただけで解決するなら、悩みじゃねえよ。それは悲しみとか苦しみとか、とにかく別のもんだ。――ちょっと難しかったか」
「ううん」
フライズは、いつの間にか自分が少し笑顔になっている事に気が付いた。
もしかしたら自分は間違っていたかもしれない。
でも、出来る事はやるべきなのだ。
どうにかしてジェンに会って、謝って、許してもらえるならそれからまた、二人で答えを探そう。
レイの横顔を見上げて、フライズは言った。
「……ありがと」
レイも鍋から目を離し、真っ直ぐフライズの顔を見下ろした。彼もまた、微かに笑っていた。
「さすがはうちの娘だ。――愛してるよ(I love you)」
「私も(I love you, too)」
鍋の乗っているヒーターを弱火に切り替えて、タイマーを設定する。このまま三十分以上、煮込むようだ。こくのある匂いがキッチン中に満ちている。
と、その時、フライズはテラスのほうに目を向けて、小さく叫んだ。
「あ!」
「どうした」
「――雪だ」
「何だって?」
庭に続く居間のガラス戸のほうへ、フライズは駆け寄った。
何か細かいものが、空を舞っている。戸を開けてテラスに出ると、後ろからレイもやって来た。
「あれ? 違う、雪じゃない。――これ……羽根?」
雪に見えたものは、黒い鳥の羽根だった。周囲を良く見渡すと、指の先程の小さなものからてのひら大のものまで、様々な大きさの鳥の羽根が、宙を舞っている。
レイが空を仰ぎながら、背後からフライズの肩を抱いた。
そこでフライズが、ある事に気付いた。
羽根はふわふわと空中を漂っているが、上から落ちてきているのではない。どこかから風に吹かれてやって来ている。それを何となく目で追いかけて、フライズは目を丸くした。
隣の、ジェンの家の屋根の上で、羽根の群れが黒く渦を巻いている。
「なに、あれ……」
やはり羽根の飛んで来る方向に気付いたレイは、一瞬だけ呆然とし、すぐに叫んだ。
「フライズ! 中に入れ!」
「でも――」
強引にレイが、フライズの肩を抱いて居間の中へ駆け込んだ。すぐにガラス戸を閉める。
「どういう事だ……」
表情を強張らせて、レイは呟いた。
「――私、ジェンのうちに行ってみる」
「何だと?」
「ジェンのうちに行く」
フライズははっきりと繰り返した。
だが、レイがいつになく厳しい声で、それを打ち消した。
「駄目だ。ここにいろ」
「でも! ――行かなきゃ」
「どうしてだ」
「え――」
咄嗟に言葉が出てこなかった。フライズは口篭った。
「……わかんない。けど……行かなきゃ」
懇願するように見上げると、レイが両手でフライズの肩を掴んで、顔を正面から覗き込んだ。
「どうしてもか」
「……うん」
「――」
暫しレイは渋い顔で躊躇ってから、強く言った。
「――なら、俺も行く」
「え」
「俺の傍を離れるな。絶対に。約束できるか?」
これほどに真剣なレイは、初めてかもしれなかった。
「……うん」
フライズは強く頷いた。
「よし」
短く言って、レイはフライズの肩から手を離した。
玄関傍のクローゼットを開け、レインコートをフライズに手渡した。レイ自身もフード付きの上着を羽織った。
「俺の隣にくっ付いてろ。離れるなよ」
「分かった」
扉を開けると、風に吹かれた羽根が舞い込んできた。二人は玄関を出た。フライズはレイの腕につかまるように寄り添い、小走りで隣家へ向かった。すぐにドアの前に辿り着き、呼び鈴を鳴らす。
家の中からは、物音一つ聞こえなかった。
フライズが、冷たいドアノブを掴んだ。
「――開いてる」
レイとフライズは、おそるおそる扉を開いた。玄関ホールで周囲を見渡し、レイが二階へ続く階段へ向かって、声を掛けた。
「教授(プロフェッサー)? いますか?」
答える声はない。
レイは二階へ上がっていった。それをフライズは見送って、ゆっくりとキッチンに入ってみた。悪いかと躊躇いつつ冷蔵庫の扉を開けると、森へ行くためのランチ用に一緒に買ったハムの紙袋があった。
冷蔵庫を閉じて振り返る。
食卓用のテーブルの向こうは、居間へ続いている。
フライズは居間へ歩いていき、思わず立ち止まった。
暖炉(マントルピース)の上の壁には大きな鏡が掛けられており、更にその前には幾つもの写真――ジェンが幼い頃の写真や、教授との親子写真、幼馴染であるフライズと写っている写真も――が飾られていた。はず、だった。
だが、写真立ての中身は、全て真っ白になっていた。
手を伸ばして、一つの写真立てを手に取ろうとした。が、その拍子に別の写真立てを倒してしまった。
フライズは目を見張った。
写真立てが、鏡の向こうにめり込むように倒れたのである。
暖炉の上の鏡が、もやのように溶けていた。
フライズは、暖炉の横にあった椅子に登り、鏡に触ろうとした。しかし伸ばした指先は、何にも触れなかった。
「溶けてる――」
手が銀色のもやの中に埋まる。
誘われるように、フライズは暖炉の上に登っていた。
音が背後に遠ざかる。
「――フライズ! 待て!」
耳にレイの声が届いたが、その時既にフライズは、鏡の向う側へ飛び降りていた。
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