Ⅳ―順列シンフォニー
七月の下旬、プロジェクトの参加者全員が研究室に召集され、ミーティングが開催された。細川や坂本、他のスーツ姿の職員達の見守る中、ブレインストーミング形式で、情報技術により実現できそうな事柄のアイデアを自由に出し合うという場だった。細川が、顔中にはち切れんばかりの笑みを浮かべて、イニシアチブを取った。
「夢物語だと思うような事でもいいのよ。あなたたちの瑞々しい感性で、思いついたら何でも言って」
ナリも参加こそすれ、ノートを広げて薄い笑顔で頷いているだけで、頭の中に建設的な考えはさっぱり沸いてこなかった。
横目でヒカルの様子を伺うと、今日も両手をジャケットのポケットに突っ込んだまま、何人に囲まれようと無表情だった。まるで、指示されたから来ただけです、と言わんばかりの風体である。そこまで潔く振舞う勇気はナリには無かったから、他の中高生達の発言内容を、何となくノートに書き留めていた。
「人工衛星から、畑とか田んぼの様子を常に観察できたらいいよね。それでドローンで肥料撒いたり水やり出来たら、畑が広くても農家の人は楽になりそう」
「それ、同じようなデータがあれば陸だけじゃなくて魚の群れとか、遭難した船とかも探せるんじゃないですか」
「あ、海底の油田も?」
「なるほどねえ」
生徒達が発言する度、細川はにこにこと頷いて、ホワイトボードに内容を書きとめた。そして突然、ここ一時間弱、沈黙を貫き続けているヒカルに、話を振った。
「ヒカル君はどう?」
「……俺ですか?」
「そうよ。思いついた事、何でもいいんだから」
「そうですよー。溝口さんも発言しましょうよ」
促す細川に同調して、参加者の男子高校生が言った。
「折角同じ研究生なんだから、俺らばっかじゃなくて溝口さんの意見も聞きたいっすよ」
「え……。けど」
ヒカルはホワイトボードを仰いで、書かれている文字列を一通り目で追ってから、呟いた。
「……これ、全部ありますよね。既に」
「えっ?」
ナリは耳を疑った。細川と中高生達全員も、ヒカルの発言に目を丸くしている。
「まあ、意図は分かるんですけど。茶番ぽくないすか。こういうの」
「茶番って――」
細川が口を開けたまま、眉を顰める。その細川の顔も、未だ呆気に取られている中高生達の事も、ヒカルはまるで気にせずに席を立った。
「じゃ」
短くそう言って、両手をポケットに突っ込んだまま、ヒカルは部屋を出て行く。信じられない、という顔の研究生に混ざって、ナリも呆然としていたが、我に返ると席を立った。口の中で、ちょっと、と小声で呟いて、細川と左右の高校生に軽く会釈する。ナリも部屋を出て、ヒカルを追いかけた。
エレベーターホールで、ナリはヒカルに追いついた。下りのボタンが押されている。
ヒカルは何も言わないまま、程なくして到着したエレベーターに乗り込んだ。ナリもその後に続いた。
エレベーターの中は、二人きりだった。
不意に、ヒカルが口を開いた。
「――なんで、追い掛けてきたの」
「なんで、って……」
「生徒会長に言われた?」
「生徒会長?」
聞き返しておきながら、ナリは小さく噴き出した。誰の事を指しているか、直ぐに分かってしまったからだ。場を仕切るように数多く発言していた、あの男子高校生だ。初日から社交的な笑顔を振りまいていた。
「生徒会長って……」
「あいつ、フォロー頼むとか、しそうじゃん」
「別に、頼まれた訳じゃないけど。てか、頼まれたくないし」
「あ、そ」
ヒカルは頭上の階数表示を眺めている。エレベーターが一階に到着し、ポーン、と電子音が響いた。エレベーターを降りて淡々と歩いてゆくヒカルを、ナリは追った。
「ねえ」
「何」
ナリが背後から呼ぶと、ヒカルは足を止めて振り返った。
「なんで知ってたの? あの、既に全部ある、って」
「……」
「まさか、ハッタリだった?」
「……まさか」
ヒカルは、ナリの最初の問いには答えなかったが、代わりに言った。
「諺で。井の中の蛙、大海を知らずって言うじゃん」
「は?」
「あれ、俺らに蛙を馬鹿にする資格はないと思うけど。大海にいる奴らが蛙をヨイショばっかすんのって、なんか違くね?」
「……」
ナリは少し考えてみてから、答えた。
「……ごめん。言ってる事が全然分かんない」
「よっ、ヒカルに佐藤さん!」
突然、前方で二人を呼ぶ声がした。
ヒカルとナリが、同時に声がした方へ顔を向けると、セキュリティゲートの前に、笑顔で片手を上げている坂本がいた。
「コーヒー飲みに行かない?」
「……坂本さん、いつの間に先回りしたんすか」
ナリの頭に真っ先に沸いた疑問を、ヒカルが代弁していた。
官公庁とオフィスばかりの土地柄なのか、週末の午後、スターバックスの席は三分の一も埋まっていなかった。
「あそこはねえ、エレベーターなかなか来なかったり混んでたりすると、階段のほうが早いわけよ。だから朝の出勤時間帯にぶつかった時なんか、僕、よく階段で昇り降りするの。運動不足も解消できるかと思って。あ、若者には縁の無い話か」
そう笑いながらも、白いシャツと、黒いストライプ地のベストとスラックスに身を包んだ坂本は、案外すらりと引き締まった身体の持ち主だった。坂本は、トールサイズのホットコーヒーを頼んでから、ヒカルとナリを振り返った。
「何がいい? 奢るよ」
「……いいんですか?」
「だって財布持ってきてないでしょ」
坂本の言う通り、鞄は研究室に置いてきてしまっていた。先日に続いて、今度は身一つでヒカルを追って来てしまって、一体自分はどうするつもりだったんだろう、とナリは心の中で自嘲した。
「キャラメルマキアート。アイスで」
ヒカルが躊躇無く言った。ナリも慌てて続く。
「えっと、じゃあ――ソイラテで。ホットの」
三人は、一番奥の座席に腰を下ろした。
「奢られといて何ですけど、坂本さん、こんなとこで俺らと油売ってていいんすか」
「大丈夫じゃない?」
「あのう……」
おそるおそるナリが言うと、坂本とヒカルが同時にナリのほうを向いた。
「ヒカルさん……と、坂本さんって、元々お知り合いだったんですか?」
「ああ、うん。最初にヒカルをこっちに引っ張ってきたのは細川さんだけど」
「太川おばちゃん」
「それ、本人の前で言わないようにね……。一応、恩人って言ってもいいぐらいなんだから」
坂本が窘めると、ヒカルはあからさまにうんざりした顔をした。ナリが再び訊いた。
「恩人、ですか?」
「そう。こいつ、クラッキングで警視庁の組織犯罪対策課にしょっぴかれそうになったとこを、細川さんの並々ならぬ福祉精神に救い上げられたの」
「頼んでないんで」
ヒカルがばっさり切り捨て、坂本は肩をすくめた。あまり根掘り葉掘り訊くべきじゃない、という予感で、ナリはそれ以上質問するのを止めた。
「その破壊力をセキュリティソフトやファイアウォールに生かせないかって僕が散々ケツ叩いて、ようやくやる気出したとこなの、こいつ。ヒカルに佐藤さんのクリエイティブさを分けてやってほしいよ」
「――私、そんな立派なことしてないです」
「卑下しなくていいよ。こないだ少し見せてもらったスクリプトはきれいだった」
「……」
ナリは顔を上げた。坂本がにっこりと笑う。
「一つの円にはシェイクスピアの全ての戯曲が含まれている、っていう話は知ってる?」
目をぱちくりさせて、ナリは隣のヒカルの顔を伺った。ヒカルも軽く首を振った。
「グレッグ・イーガンの小説に出て来る話なんだけどね。円周率って、今計算できてる範囲を見る限りでは、どうやら無限に続く数列らしいでしょ。もし本当に無限に続くのであれば、そこにはどんな数列も含まれているわけだ。つまり、ありとあらゆる言葉が」
「あらゆる……言葉?」
「そう。例えば、『To be or not to be, that is the question』、生きるべきか否か、それが問題だ、っていう『ハムレット』の台詞、このアルファベットを一つずつ数列に直す。そうすると、さっきの一文は数字の羅列に変換できるだろ? えらい長くなるけど」
「それって、コンピュータの中で起きてる事ですよね」
「その通り。で、円周率の中には全ての数列が存在し得る――という事は、シェイクスピアの芝居の台詞だって、一つ一つ数列にして探せば、円周率の中のどこかにあるわけだ。勿論、佐藤さん、君の名前も。僕の名前もヒカルの名前も、円周率のどこかに書いてある」
坂本は悪戯っぽく笑った。彼の説明は、耳慣れない哲学的な響きを含んでいた。だが、坂本をロマンチストと一笑に付す気は、ナリには全く起きなかった。
「――しかし、だ。円周率の中にシェイクスピアの戯曲が含まれるとしても、台詞はばらばらかもしれない。『生きるべきか』『問題か』『それが』『死だ』とか並べられちまえば、意味もへったくれもなくなる。ワーグナーのオペラの楽譜を印刷したやつを全ページ、一万メートル上空からばら撒いてあるから感動してくれと言われても、無理だ」
「ワーグナーって何すか」
ヒカルがぼそっと口を挟んだ。坂本はさらりと説明する。
「昔の作曲家だよ。やたら長いオペラを幾つも書いた。四時間ものが更に四部作とかある」
「はぁ……」
「どれほど完璧な台詞も楽譜も、細切れになって大海原にランダムに散らばってたら、僕らにとっては何の意味もないだろう? 結局、人の手で編み上げなければいけない」
「――そう、なんでしょうか」
ナリはコーヒーのカップを持った自分の両手を見つめて言った。
「そんなの、すぐに人じゃなくても出来るようになるんじゃないでしょうか」
「人工知能に代わりが勤まる、って事?」
「……そうです」
言葉を選ぶのにいつもより時間が掛かる。しかし、坂本とヒカルは黙ってナリが話すのを待っていた。
「あの――今は無理でも、すぐに、そういう事もAIが出来るようになるんじゃ、ないでしょうか。さっきのたとえ話の――ばらばらになってる本のページを、ちゃんと並べ替えて、綺麗な物語にするようなのも。一枚一枚のページを読んで内容を把握するぐらいなら、コンピュータのほうが絶対、早いし」
「うーん、そうだねえ」
ナリに反論されて、坂本は嬉しそうだった。
「俺もそう思います」
ヒカルが口を挟んだ。
「ナリの言う通り、ページの並べ方を色々片っ端から試す作業とか、人よりコンピュータのほうが、確実に早い」
「そうです。その、作業が早いってことは、コンピュータのほうが考える時間が沢山あるってことだから――すぐに、人は勝てなくなるんじゃないかなって」
ナリとヒカルが話すのを、坂本は満足気に頷きながら聞いていた。
「そうであっても――僕らは、最初の知性を書ける」
坂本は真っ直ぐナリの目を見ていた。今更ながら、坂本がナリのプログラムを『きれいだ』と評したのは嘘偽り無い正直な感想だったのだと、悟らざるを得なかった。ナリは、とっくに冷めている紙カップのソイラテを一口飲んだ。褒められるのは不愉快な事ではない筈なのに、まるで足元がゆらゆらと揺れているような気分だった。そして、ヒカルが自分の事を『ナリ』と呼んでいたのにもようやく意識が及び、揺れに拍車を掛けた。ナリは泡立つ心の内に向かって、早く静まれと言い聞かせた。
坂本はコーヒーを啜って、誰にともなく呟いた。
「そうか……。見くびってちゃ、いけないんだな」
「は?」
「ああ、いや、君らの言う通りなんだろうなと思ってね」
怪訝な顔のナリに、坂本が苦笑した。
「自分が作ったプログラムだと思って侮ってはいけないんだろうなと。子供がいつまでも子供だと思ってちゃ、いかんよな……」
「それ、俺らの事ですか」
珍しく少し憮然とした声で、ヒカルが訊いた。ナリは少し驚いて隣のヒカルを見た。坂本も目を丸くした。
「え? ――あ、子供って? 違う違う。君らの事じゃないよ」
手を大きく振って、坂本は否定した。
「僕、息子がいるのよ。太平洋の向こうにだけどね」
「……金髪の嫁さんに捨てられたんすか」
「何で分かるの?」
「捨てられたんすか」
「……ノーコメントで」
「捨てられたんすね」
「あのさあ何でそこで僕のほうから捨てたとはならないの? 逆かもしれないとは思わないの? ていうか僕、ここんところ一年の半分近く日本にいないんだよ? 単身赴任的なアレは想像しなかったの?」
「しなかったす」
いつの間にかヒカルの表情は、いつもの冷静と無表情の間に戻っていた。だが、ナリには何となく、ヒカルが慌てて自分の勘違いをフォローしようとしていたのが分かった。
「息子さん、お幾つなんですか?」
「ええと、十六歳」
そう答える坂本の目には、微かに哀しみの色が混ざっていた。私と同じくらいなんですね、と言いかけて、ナリはその台詞を飲み込んだ。坂本のためではなく、話を逸らしたかった。
暫しの沈黙が流れ、坂本が腕時計をちらりと見た。
「そろそろミーティング終わるかな?」
「……まだ、やってるんじゃないですか?」
ナリはそう言いながら、終わっていればいいのにと思った。今更、あの場に戻る気にはなれない。しかし鞄を置いてきてしまった。
「君ら、ミーティングのあと研究室のパソコン使うつもりだった?」
「あ、ええと……はい」
気まずさを見抜かれて、ナリは控えめに頷いた。ヒカルは黙ったままだった。
「僕、先に研究室に戻るから、偵察するよ。嫌じゃなかったらメールアドレス教えて。終わってるかどうか教える」
数秒、返事を躊躇した。不思議と嫌悪感は抱かなかった。坂本のすぐ傍に、ヒカルの姿があったからかもしれない。ナリはスマートフォンを取り出した。
「――じゃあ、お願いします」
「はいよ」
ナリのスマートフォンの画面に表示されたメールアドレスを、坂本はその場で自分のスマートフォンに打ち込んだ。端末を更に操作しながら、坂本が言った。
「試しにメール送るね」
直ぐに、初めて見るアドレスからメールが届く。送信者名が『Yoshitaka Sakamoto』と表示されており、本文には、送信元とは全く異なる別の電話番号とメールアドレスが書かれていた。ナリは首を傾げた。
「……? これ――」
「あ。何してんの坂本さん」
ヒカルが、隣からナリのスマートフォンの画面を覗き込んで言った。思わずヒカルと坂本を順に見ると、ヒカルはうんざりした顔で溜息を吐き、坂本はにこにこ笑っている。
「それヒカルの連絡先ね。今度ウイルスでも送ってあげて」
唖然とするナリの肩を軽く叩いて、坂本は空っぽのコーヒーカップを持って席を立った。
とはいえ、坂本から教えてもらったヒカルのアドレスに、安易にメールを送る口実が、ナリには思いつかなかった。
台風も来なければ、気温も二十五度を超えない夏休みだった。外出中、エアコンを切っていても問題ないくらいで、パソコンを稼動させるのに有難い気温ではあった。
八月に入ってからも、ナリは一日か二日おきに研究室に通っていた。試しに無駄に大きなプログラムを作ってみても、研究室のワークステーションならフリーズせずに走ってくれるので面白かった。午後から夕方にかけて研究室に行くと、ヒカルが一人で画面に向かっている事が多かった。ナリと同様に、人が少ない時間帯を狙って来ているようだった。ヒカルとは、話をせずとも顔だけは合わせているのだから、わざわざメールを送る用事も発生しなかった。
近付いて来るお盆休みの時期が憂鬱だった。
香月の勤める外資企業にお盆休みは無かったが、日系の取引先が景気の悪さを反映してどこもかしこも一週間以上休みになるので、おのずと香月の仕事量も激減する。そして、もし、そのタイミングで恋人と上手くいっていなかったりすれば、自宅に帰ってくる頻度が上がるのだった。
顔を合わせないほうが、穏やかでいられる。
だから、研究室から帰って来て、玄関に赤いソールのハイヒールが脱ぎ捨てられているのを見て、ナリはまっすぐ自分の部屋へ向かった。
しかし、その日に限って、香月が部屋からリビングへ顔を出したのである。
ナリの足が、思わず止まった。
「……ただいま」
「おかえりー」
香月は細身の麻のワンピースを纏っていた。部屋着ではない。香月自身も帰って来てからそう経っていない様子だった。
「これ、返しとくね」
さらりとした口調で言って、香月は何かをナリに差し出した。
柔らかな楕円形に整えた爪に、桜貝のような淡いピンク色のネイルカラーが塗られていた。その指先が差し出したのは、見覚えのある大手銀行のキャッシュカードだった。
ナリは目を見張った。
「――何で」
自分のカードだった。カードと香月の顔を、ナリは交互に見つめた。
信じ難かったが、何が起きたのか、すぐに想像がついた。
――私が寝てるかシャワー浴びてる間に、財布から抜いたんだ!
熱い怒りが一気に込み上げた。
「何してんの!?」
ナリは叫んで、香月の手からカードを引ったくった。唇が震えている。
だが、そんなナリを見ても、香月は冷ややかに笑っていた。
「へー。怒るんだ」
「当たり前でしょ!? まさか勝手に使ってないよね!?」
香月が鼻で笑った。
「勝手にとか。馬鹿じゃないの? 暗証番号ずーっと私の誕生日のままにしといて」
「――使ったんだ」
ナリはその場で、ポケットからスマートフォンを出した。震える手を精一杯焦らせて、大急ぎでネットバンクにログインする。
目に飛び込んできた残高は、二百万以上、減っていた。
「何これ――」
洋服やコスメ、レストランでの食事に華やかにお金を使う香月なら、自然に手に取りそうな金額だった。むしろ、全額引き出されていないのが意外なくらいかもしれない。
悪びれる様子など微塵も見せず、香月は軽く言った。
「あの暗証番号、気持ち悪いから変えといてよね」
「……は? 何言ってるの? 勝手に使っといて、何それ?」
「勝手に勝手にって、よく言うよね。名無しのくせに」
ナリが顔を上げると、香月は面倒くさそうに長い髪をかき上げながら、キッチンへ歩いて行くところだった。
「もしかして、自分独りで稼いだとか思ってんの? 勘違いしすぎでしょ。あんた何処に住んでんの? 私のマンションでしょ? 調子に乗ってんの、気が付いたほうがいいよ。痛すぎだから」
香月はナリに背を向けて、冷蔵庫を開けた。
ナリの胸の中に、ありとあらゆる怒りの言葉が、破裂しそうな勢いで沸きあがっていた。だが、唇は震えるばかりだった。人は怒りと悔しさが度を越すと、どの言葉から口にすれば良いのか分からなくなるんだな、と頭の片隅で思った。
「馬鹿じゃないの? 熱くなっちゃって。頭冷ましなよ。ほら」
薄い笑いを浮かべ、香月がミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「――ふざけるな!」
気付くとナリは、ボトルを香月の手から叩き落していた。平手で香月の手を叩いた乾いた音と共に、ボトルの重たい衝撃が床を微かに振わせた。
香月は一瞬、凍りついた目をしたが、その表情はすぐに緩んだ。うんざりと肩を落とし、眉を顰める。
「産まなきゃよかった奴なんだって、何度言ったら分かるの?」
ナリの脳裏に、幾度も聞いた香月の声が蘇った。
――産まなきゃよかった。
――あんたなんか産まなきゃよかった。
――失敗した。こんなの産まなきゃよかった。
――産んだらマンション買って養育費くれるって言うから産んだけど。
――全然割に合わない。産まないほうがよかった。
「自分を何様だと思ってるのよ。せめてゴミじゃなくなる努力ぐらい、素直にすれば?」
「……分かった」
ナリは喉の奥から、ようやく声を出した。
「よく分かった。私は――」
香月の顔を正面に見据えて、搾り出すように言った。
「――私は、あんたの為に、努力なんか。絶対、したくない!」
そう叫んで、ナリは乱暴に鞄を掴み、部屋を飛び出した。
ついさっき脱いだばかりのスニーカーに再び足を勢い良く突っ込み、空いている手でビニール傘を掴んで、叩くように玄関を開けた。
ドアの閉まる金属音が、いつもより大きく、だがどこか遠くで響いたように聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます