Phase 03 ― woods and clues(森と糸口)
フライズとジェンは、週末の二日間を使って、土曜日に作戦を立てて、日曜日に森へ行く事にした。大人抜きで未知の場所へ出かけるのだから、念のための対策は必要だ。
土曜日の午後、二人は図書館で待ち合わせた。
まず町の地図を広げて、データをそれぞれの普段使いのタブレットに取り込んだ。次に、お小遣いを出し合って、文具店で方位磁石を買った。大人への言い訳も入念に相談した。最後にお弁当用のターキーブレストのハムを買って、ジェンが家に持ち帰った。
知らず知らずの内にフライズの胸の中では、辛い悪夢の正体を突き止めるという当初の目的がぼやけて、ジェンと二人で不思議な謎を解きに行くのにわくわくしていた。しかも大人に内緒で、禁じられている森へ出かけるのだ。
夕食のテーブルを囲みながら、フライズはレイとイランに向かって切り出した。
「ねえ、明日ジェンと二人で川辺へピクニックに行ってもいい?」
「川辺?」
「うん。今頃トウシンソウの花が咲いてるはずでしょ」
「あー、そうかもね」
イランはテーブルの上の大きなスキレットから、ラザニアのお代わりを自分の皿に取り分けた。庭で取れた茄子とトマトがたっぷり入っている。
「ランチはどうするの?」
「ジェンがサンドイッチを作るって。どうせ料理当番だからって言ってた」
「サンドイッチか。胡瓜分けてやりゃ良かったな」
レイが誰へともなく呟いた。今年は胡瓜が沢山取れて、連日サラダになっていた。ピクルスにしても、まだ余っている。
「明日持ってくか、胡瓜」
「お裾分けはおいといて、フライズ、森には近付かないようにね」
「分かってるよ」
フライズが想像していた通り、イランは釘を刺してきた。町にごく近い川辺へは、昔何度か行ったから、川辺ならイランもレイも教授も許してくれるだろう、という算段だった。課外授業で、川のこちら側に広がる畑のじゃが芋を掘りに行った事もある。
「川のこっちの岸か橋のとこまでで帰ってくるなら、行って良いよ」
「ありがと」
果たしてしつこく心配する素振りは無かったので、フライズは内心胸をなで下ろした。
「い草の花見て、楽しいかねえ」
猫のマメがレイの足元に来て、夕食のおこぼれをねだったので、レイがフォークに刺した胡瓜の輪切りを差し出した。マメは匂いを嗅いで、欲しいのはこれじゃない、とばかり鳴いた。
「イグサ?」
「トウシンソウの事だよ。ま、畳も見た事ないんだから分かんねえか」
「タタミ?」
「今度見せてやるよ、立体映像でな。床の間と掛け軸付きにしてやる」
レイが胡瓜をぽりぽり齧りながら言った。
日曜日の朝、フライズは七時に目覚めた。学校がある日と同じ時刻にアラームをセットしておいたのだった。最初のアラームで起きてきたフライズを見て、イランが
「こういう時はきっちり起きるよね」
と笑った。
「レイはまだ寝てるの?」
「寝てるよ。フライズ、レイより早起きだよ」
顔を洗い、デニムとタータンチェックのパーカーに着替える。キッチンに行くと、イランが雑貨店の茶色の紙袋を差し出した。
「これ、レイがジェンのうちに持ってけって」
「胡瓜?」
「うん」
「こんなに?」
フライズは目をぱちくりさせた。紙袋はずっしりと重たい。
「まだあるよ」
イランが苦笑いした。そのイランが朝食用に作っていたのも、胡瓜とマヨネーズとマスタードのサンドイッチだった。
フライズはパンを切るイランの隣でお湯を沸かして、大きなポットで紅茶を淹れた。少し冷ましておいて、出掛ける直前に水筒に詰めればいい。
「そういえばフライズ、お昼もサンドイッチって言ってたっけ」
「そうだよ」
「ごめんごめん。サンドイッチ二連続だね」
「いいよ。ジェンのサンドイッチは多分胡瓜じゃないから」
中身がハムだと分かっている、というのは念のため伏せておいた。昨日は図書館で一緒に宿題をしていた事になっている。とはいえ作戦会議以外に宿題も片付けたから、嘘はついていない。
サンドイッチを食べてから、二人並んで皿とマグカップを洗った。フライズはまだ温かい紅茶を水筒に詰めて、斜め掛けの鞄にそれを入れた。
「気をつけてね」
「うん」
イランがフライズの頭をもしゃもしゃに撫でた。
家を出ると、道路を挟んで向かい側の家の前で、赤毛の中年男性が車を洗っていた。フライズを見て、にこにこと手を振る。
「おうフライズ、お早う。日曜なのに早起きだね!」
「おはようハワードさん。ジェンとピクニックに行くの」
「そうかい。そりゃあ良い。楽しんどいで」
「うん!」
ハワードさんは屈託無く笑った。
フライズは隣家の玄関の呼び鈴を押した。ジーッという音が家の中で響くのが聞こえ、すぐに男性がドアを開けた。
「ああ、フライズ。おはよう」
「おはようございます、教授」
長く伸ばした細い銀髪を、頭の後ろでいつも通り細く束ねている。教授はフライズににっこり笑いかけると、家の中に向かって大きな声で呼んだ。
「ジェン! ジェニファー! フライズが来たぞ」
「分かってる!」
ジェンを待つ間に、フライズは胡瓜の紙袋を差し出した。
「これ、レイがどうぞって」
「へえ、何だい?」
「胡瓜。うちの庭ですごく沢山採れるの。食べきれないぐらい」
「そりゃ有難う。レイにも宜しくな」
すぐに家の奥から足音がして、小さなリュックサックとバスケットを持ったジェンが、家の奥から走って来た。
「お待たせ」
「おはよ、ジェン。――じゃあ教授、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
教授はジェンの頬に軽くキスをして、
「日暮れまでには必ず帰ってくるんだよ」
と念を押した。昨夜ジェンと教授の間でも、フライズとイランの間であったようなやり取りが交わされたに違いない。フライズは思わず笑いそうになるのを胸の中に押し込んだ。
二人は早足になりすぎないよう注意しつつ、しかしあまりのんびりもせず、平静を装いながら歩いて町外れに向かった。
家々の屋根が途切れると、目の前に一気に緑色の麦畑が広がった。
「フライズ! 車が来た!」
不意にジェンがフライズの腕を引っ張った。振り返ると、畑の間をピックアップトラックが走って来ていた。
「どうしよう? 見られても平気かな」
「一応隠れよう!」
二人は慌てて道を外れ、水路の脇に降りて精一杯低くしゃがんだ。
トラックは砂利を踏みしめて、二人が身を隠している農道の一本向こうを通り過ぎてゆく。荷台でケージに入れられた鶏がひっきりなしに鳴いている。二人は小声で囁き合った。
「この辺は早く通り過ぎたほうが良いかもね」
「うん」
トラックのタイヤの音がすっかり聞こえなくなってから、フライズとジェンは身体を起こした。風が麦畑を渡る音だけが流れてゆく。二人は急ぎ足で、第一の目的地である川辺を目指した。
程なくして左右の麦畑が途切れた。道の先は、川に掛かる石造りの橋に繋がっている。
川は、両側から豊かなトウシンソウの緑に囲まれていた。
浅い水辺から、真っ直ぐ細い茎が無数に立ち上がり、至る所に白い小さな花の塊を付けている。あたかも白い花火を散りばめたようだった。
フライズとジェンは、どちらからともなく暫く黙って立ち尽くし、その光景を見ていた。
風が柔らかく川面を撫でる度、緑の海に浮かぶ白い花が揺れた。
そして、橋を渡りこの川を越えて、更に真っ直ぐ進むと、道は暗い森へと続いている。
ここまで来た目的をうっかり忘れ、この川辺の景色をもっと眺めていたいと思ってしまいそうになった時、ジェンが口を開いた。
「ねえ、ちょっと早いけど、ここでお昼にしよっか」
「――うん。賛成」
二人は道を降り、土手の柔らかい草の上に腰掛けた。トウシンソウの茂みを見下ろしながらバスケットを開くと、青いスカーフに包まれたお弁当箱が顔を出した。ジェンが結び目を解いて、プラスチックの蓋を膝の上で開く。
「わあ、すごい!」
思わずフライズは歓声を上げた。昨日買ったターキーのハムだけでなく、レタス、チーズ、スライスしたトマト、薄い卵焼きなどがパンに挟まれている。
「美味しそう! ジェンすごいね!」
「でしょー」
ジェンは得意げに笑った。
「こっちの薄いのは、ピーナッツバターのサンドイッチだよ」
「ね、胡瓜入ってる?」
「ううん。なんで?」
「うちの庭、今めちゃくちゃ胡瓜が豊作なの。毎日食べてるの。うちで食べきれないから、今朝教授にも渡した」
「へえ。じゃあうちも明日から胡瓜サンドイッチだ」
「明日もジェンが料理当番?」
「明日は父さん。でも仕事が立て込んでると超手抜きになるから、胡瓜そのまんま齧ってるかもしんない」
ジェンがそう言って頬を膨らませたので、フライズは噴き出した。
絶えず流れる川の水の音を聞きながら二人は、フライズの持ってきた水筒の紅茶と一緒に、サンドイッチを半分ずつに分けて食べた。
土手の下で、無数の花が白くきらめいていた。
お弁当箱が空っぽになると、靴と靴下を脱いで川岸まで降りて、トウシンソウを摘む事にした。後で森へ行くとしても、ここまでは立派な『川辺のピクニック』なのだから、二人とも嘘は吐いていないし、更に花盛りのトウシンソウを持って帰れば証拠になる。
二人それぞれ、ぎりぎり片手で掴める位までトウシンソウを摘んでから荷物をまとめ、橋を渡った。
森の入り口は、遠くから見て思っていたよりも近かった。
道の両脇の藪が、一気に深くなる。
森の入り口で、フライズとジェンは足を止めた。
「……ここからだね」
「本当に、付いて来るの?」
ジェンの目線は、森の中の道が辿る先を見つめていた。最初は白っぽい砂利が敷かれていたはずの道は、いつの間にか灰色にくすんで、ここから先、徐々に森の薄闇に消えてゆく。
「本当にって、何それ?」
「だから、本当にフライズも一緒に来るの?ってこと」
「今更引き返すわけないじゃん! だって、森へ行ってみようって言い出したの、私なんだよ?」
フライズは鞄から、地図用のタブレットと方位磁石を取り出した。
「行こう、ジェン。それで何か思い出したり、夢と似てる景色とかあったら教えて」
ジェンの手を握って、フライズは歩き出した。
木々に遮られて日差しが地面まで届かないせいか、空気がひんやりと冷えていた。
「道から外れないように、気をつけなきゃね」
「橋を渡ってから、ずうっと一本道だったよね?」
「うん。地図でもそうなってる」
タブレットに目を落とすと、地図上の道は少しずつ左右にカーブを繰り返している。そのせいで、背後を振り返っても、森の入り口はもう見えなかった。
時折、遥か頭上で、枝葉のざわめく音がする。他は鳥の羽音一つ、聞こえなかった。
何故か、生き物の気配がしない。
薄暗いのは、森の中にいる所為なのか、それとも既に日が傾きかけているのか。
方位磁石と地図を照らし合わせれば、そんなに長く歩いていない事が分かる。
にも拘らず、段々と自信が無くなってくる。
フライズは、隣のジェンの横顔を、何度も確かめた。同じ一本道を歩いているのに、どうしてか奇妙な不安を感じた。
「……ねえ」
ジェンが唐突に足を止めた。
「どうしたの?」
「――気のせいかもしれない、けど。あのさ。……ちょっとずつ、暗くなってない?」
フライズははっとした。ジェンも同じ事を考えていたようだった。
「……ジェンも、そう思う?」
「フライズも? やっぱり、そんな感じがするよね?」
「うん。――森の中の、日陰だから暗いんだと思ってたけど、でも……」
「フライズ、時計見せて。夕方には、まだ、早いよね?」
タブレットの画面の隅に表示されている時刻は、ようやく二時を回ったところだった。
「どうしてだろ、森がどんどん深くなるから暗いんだっていうよりも、これ、何だか……変な感じ」
フライズは頭上を仰いだ。森へ入った時には小さくちらちらと見えていた空の光の欠片が、いつの間にか無くなっていた。
遥か上で、枝葉のざわめく音がする。
ジェンが言った。
「――もう、いいよ。帰ろう」
見ると、ジェンは困ったような顔で、だが真剣にこちらを向いていた。
「帰ろうよ。来た道を戻ろう」
フライズも頷いて、二人で踵を返した。
歩き出してから程なくして、フライズは方位磁石の異変に気付いた。
「――ジェン。これ見て」
「……嘘」
ジェンが目を見開いた。
回れ右で元来た道を戻っている筈なのに、磁石の指す方向が変わっていない。
「どうして……」
方位磁石と地図を見つめ、二人は呆然と立ち尽くした。ジェンが再び呟いた。
「――どうして」
「分かんない……けど、でも、同じ道を戻るしかないよね」
「――急ごう」
二人は頷きあって、早足で森の出口を目指した。フライズもジェンも、どちらからともなく小走りになった。
その時、一陣の風が前から後ろへ吹きぬけた。
ジェンが立ち止まり、風の行く先を振り返った。
「――あ」
フライズも慌てて足を止めた。
「どうしたの?」
ジェンは何も答えず、森の奥を見つめている。
気が付くと、音が消えていた。
ひんやりと冷えていた筈の空気が、いつの間にか柔らかくなっている。
――来るんじゃなかった。
フライズの心の中で、大きな後悔が弾けた。
レイが話してくれた騎士のお話の中の、地図も磁石も役に立たない、というのは本当だったのだ。
森は踏み込んできた人を、誰彼構わず迷わせる。
森では地図も磁石も役に立たない。
一本道を歩いてきたつもりでも、いつの間にか帰り道を見失う。
そうして――
突然、耳元で鮮明に、枯れ草と地面を踏む足音がした。
森の奥からの足音が、何故か頭の中に響くように聞こえた。
暗い森の奥に、背の高い白いものが見えた。
段々と近付いてくる。
フライズは目を疑った。白い馬に、白い鎧の騎士が跨っていた。
鎧は暗い森の中で、銀色というには白すぎた。
騎士の顔は兜に覆われていて見えない。
更にフライズは、隣のジェンを見て、違和感に気付いた。
ジェンは騎士を見ていない。
ジェンが見ているのは、騎士とは違う方向の、道を大きく外れた所に生えている大木の、その根元だった。
何が起きているんだろう。
フライズは親友の名を呼ぼうとした。が、声が出てこなかった。
喉が塞がっているのではない。
彼女の名前が思い出せない。
影のように深い森の奥から、馬に乗った白い騎士が近付いてくる。
音が消えた森の中で、風が強く吹いている。温度の無い風が、フライズとジェンの周りで吹き荒れている。
白い馬が立ち止まった。騎士は手綱を放し、兜を取った。
露わになった顔は、思いのほか穏やかだった。白髪と白い髭を蓄えていた。深い青い瞳で、騎士はこちらを見つめた。
影が周りで渦を巻いた。
足元が空洞になり、その刹那、
「――母さん」
呟くような、声が聞こえた。
「―――――ジェン!」
思い出した親友の名を叫んで、フライズは闇の中に落ちていった。何も見えなかった。
ただ、最後に見えた騎士の顔が、心なしか微笑んでいたような気がした。
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