Ⅱ―ヒカル

頭上を仰ぐと、ところどころに頼りないサイズで雲の切れ目が出来ていた。そこから覗く空も、くすんでいる。

とりあえず雨は降っていないから、ナリはビニール傘を傘立てに残したまま、昇降口を出た。

授業を終えた制服姿の高校生が、ふざけながら次々に校門を出て行く。どっちつかずの天気とは対照的な、からりとした笑い声が、あちこちから聞こえた。校庭はがらんとしている。部活動は、ナリが入学する一、二年前から下火になっていた。指導する人手も予算も足りなければ、天候に左右されない安全な場所も不足している。

大きくカーブした坂をメトロの赤坂見附駅に向かって下ってゆくと、曲がり角のところに、違う高校の生徒らしい制服姿の男女三人組が立っていた。背の高い男子生徒と目があった。ナリを見て、はたと目を見開く。

「……あ」

その男子生徒の様子に、隣で女子高生がぱっと明るい顔になる。

「――マツシタ、あの子?」

「うん。――」

ナリは足を止めて、訝しげに三人を眺めた。

最初に目が合った男子高校生と、その隣に、長い髪を耳の横でツインテールにした小柄な女子高校生と、もう少し背の低い丸顔の男子が立っている。マツシタ、と呼ばれた男子生徒は、ナリの正面で、

「あの……」

と口篭りながら目線を泳がせ、意を決したように切り出した。

「いきなりすいません。佐藤ナリさん……だよね」

「そうですけど」

「俺、青学付属の二年のマツシタコウタっていうんだけど」

「……はあ」

「佐藤さん、俺の事覚えてない?」

ナリはぽかんとして、彼を頭から爪先までまじまじと眺めた。

何も思い出せない。黙って首を振る。

「――そっか、はは、そう、だよね」

男子生徒が気まずそうに苦笑いを浮かべた。丸顔のほうの男子生徒が、後ろから彼を小突いた。

「マツシタ、笑ってねーで、ほら喋れよ」

「そーだよ頑張れ!」

「ちょっ、お前ら黙ってろよ!」

マツシタは顔を真っ赤にして、背後の二人を制止した。

「……あの。何なんすか」

ナリが訊いた。

「あ、あの、ごめん。ほんといきなり。佐藤さん、東ゼミの模試受けたでしょ。六月の頭に」

「――受けたけど」

「俺、そん時、隣だったんだ。席」

「ああ……」

ナリは予備校に通っていなかったし、入るつもりもなかったが、同じクラスの女子から誘われて、模擬試験だけを受けに行ったのだった。科目を選択し、丸一日かけて一気に受ける。但し、その日の試験の内容以外の事を思い出そうとしても、言われてみれば隣が男子生徒だった、というくらいしか記憶に残っていない。

「それで俺、そん時、その――佐藤さんのこと、いいなってか、可愛いなって思って。でも終わった後とかもタイミング悪くて、結局、声、かけらんなかったんだけど。佐藤さん制服で来てたから――日比谷の子だってのは分かってたから、それで……俺と同じ中学から日比谷行った奴に聞いて」

男子生徒の身長は、百八十センチ近いのではないかと思われた。手足が長く、髪は短めに刈られており、整った涼やかな顔立ちをしていた。その頬を真っ赤にして、男子生徒がナリを真っ直ぐ見据えた。

「あの! 別にいきなり付き合って欲しいとか、そういうつもりじゃないから! ただ……メッセの垢とかメアドとか、交換出来たら嬉しいんだけど」

「――」

ナリの頭の中には、何かが目一杯渦巻いていた。

困惑でも非難でも、ましてや歓喜でもありえない、もっと真っ白な、空白に似た重たいもので満ちていた。

暫く言葉が吹き飛んで、我に返るのに時間が掛かった。

「……駄目かな」

「――よく、分かんないけど、そういうの――」

男子生徒の真っ直ぐな瞳が突き刺さるようで、ナリは俯いた。

「――そういうの、困る」

「……そ、だよね。いきなり。怪しいよな俺。驚かせて、ごめん」

ナリは男子生徒の顔を直視出来なかった。だが、苦笑のすぐ下に落胆が滲んでいるのが、俯いていてもじわりじわりと伝わってきた。

男子生徒はポケットの中から、二つに折られた小さな紙を引っ張り出して、両手でナリの前に差し出した。

「これ――俺のメアドとかなんだけど、もしも、後でもしも、ちょっと気が変わったら、連絡くれないかな」

「……」

どんな顔を向けたら良いのか分からないまま、ナリは差し出されているメモを見つめた。名前とスマートフォン用のメッセンジャーアプリのアカウントと、電話番号とメールアドレスが書かれているようだ。そして、それを差し出す硬い指先が、震えを懸命に抑えているのが分かった。

躊躇いながら、メモを受け取る。

「――ありがとう」

ナリが見ると、男子生徒は微笑んでいた。メモをスカートのポケットに突っ込んで、ナリは軽く会釈し、三人の横をすり抜けて、駅へ向かって歩き出した。背後の三人を一度も振り返らず、坂を下り、次第に早足になるのを抑えながらメトロの駅へ続く階段を降りて、丁度ホームに入ってきた電車に飛び乗った。

電車が動きだしてから初めて、ナリは自分の鼓動の速さに気付いた。

何が起きたのか分からなかった。どう答えるべきだったというんだろう、という戸惑いが、今頃になって沸いた。

マツシタという男子生徒の雰囲気は、真面目で爽やかな印象を与えるものだった。モテるタイプと言うべきだろう。そんな彼に、『可愛いと思っ』たと言われて、咄嗟に出てきた言葉が、

――そういうの、困る。

だった自分は、滑稽だと思った。まるで、誰にも笑ってもらえないくらい、滑稽で安っぽい青春ドラマだった。スカートのポケットに入っているメモをどうするのか、についても、何一つ考えが沸かない。そのくせ、紙切れ一枚は鉄の板並みに重かった。

四ツ谷でメトロから中央線に乗り換えて、千駄ヶ谷に着くと、ナリは早歩きで階段を降りて改札を抜けた。

小雨がぱらつき始めている。傘はない。学校に置いてきてしまった。

だが、ナリは少しも足を緩めず、人波を通り過ぎた瞬間、躊躇い無く走り出した。

電車の中からずっと、鼓動だけが煩かった。心臓の脈打つ早さに後追いで合わせるように、ナリは走った。

雨はどんどん大粒になる。

あの三人はきっと今頃、どこかで雨宿りしているのだろう。

マツシタコウタ以外の二人は、恐らく付き合っている。彼らは、恋という甘い匂い漂う日常に、慣れている。彼らの共通の友人が偶然出逢ったナリに恋心を抱いているのを知って、彼の背中を押しまくったのかもしれない。

――気持ち悪い。

ローファーの靴底が、濡れたアスファルトに滑る。足の裏をぎゅっと歩道に押し付けて、ナリはマンションの入り口まで走った。

オートロックのエントランスに飛び込んで、ようやくナリの足が止まった。

肩で大きく息をしているのに、頬が冷たい。

鞄から鍵を取り出す自分の手が、遠い他人のそれであるように感じられた。

自動ドアが開くと、一直線にエレベーターへ向かい、自宅のドアを開けた。

今日も、玄関に香月のパンプスは無い。いつも以上にほっと胸をなで下ろす自分がいた。

ナリは真っ直ぐ自室へ入って、湿気を含んだ髪やスカートにも構わず、ベッドの上にうつぶせに倒れこんだ。背後でどさり、と鞄が床に落ちる音がした。

それきり、薄暗い部屋の中は、細かく窓を叩く雨の音と、パソコンのファンの音だけになった。

確かに、模擬試験の日は丸一日隣席だったのだから、名前くらいは受験票を覗き見れば簡単に分かるはずだ。しかし彼は、言葉も交わさなかったナリの事を、わざわざ友人を伝手に探したという。

何故か不意に、ナリの脳裏に、幼い頃の記憶が蘇った。

誰から言われたのかはあやふやだが、耳の奥底にこびりついている言葉だった。

『ナリちゃんはお母さんに良く似てるから、将来美人になるわね』

お母さんに良く似てるから。

その時、香月は、社交辞令の笑顔を浮かべていた。いつも通りの、ほのかな香水の香りがしたのを覚えている。

――気持ち悪い。

ナリはうつ伏せたまま枕を叩いて、強く目を閉じた。日が暮れて部屋が暗くなってもまだ、ベッドの上でそうしていた。




ナリが幼い頃から今に至るまで、ずっと香月は、歳を経てなお艶を増す、枯れない大輪の花のように生きていた。

香月が勤務先の同僚に娘の存在を伏せている事も、ナリは知っていた。小学生の頃から、香月が不在の時に電話が鳴っても絶対に出ないよう言い渡されていたし、学校絡みの連絡を仕事用の携帯には絶対に寄越すなと、きつく命じられていた。

そうやって香月は、泥臭い生活感を欠片も感じさせない存在であり続けていた。

香月のお金の使い方は、粋で華やかだった。洗練された生活をするために、彼女は働いていた。週末は恐らく恋人と共に過ごしているのだろう、まず家には帰ってこなかった。いや、香月にとってこのマンションのこの部屋は、家ではないのかもしれない。勤め先の、有名なヨーロッパ資本の大企業の仕事が忙しいのは事実であろう。その多忙な仕事以外のオフの時間を、子供への滅私奉公に費やす理由が、香月には思いつかないらしかった。

ナリが小学生の頃から、ダイニングテーブルの上には時々、数枚の紙幣が置いてあった。

美しくカットされた、クリスタルガラスのペーパーウェイトの下に、紙幣が無造作に置かれている景色は、ナリにとってありふれた日常だった。

ナリが小学校を卒業する直前、香月はナリに大手の銀行で口座を作らせた。

「これで、もし学校で必要なものがあってもすぐお金を渡せるから」

香月がそう言うのを聞いて、ナリはその時、

――ああ、お母さんはいちいち帰って来るのがめんどくさいんだ。

と思ったのを覚えている。

留守番のナリは、いつしか家事と勉強で時間を潰すようになり、更に中学校に上がった頃からは、パソコンに向かって暇を埋めるようになった。インターネットで得た知識から、見よう見真似でプログラムを組み始めるまで、そう長くは掛からなかった。アダルトチャットのサクラのアルバイトを始めたのは、インターネット上に著作権フリーで公開されているプログラムを使えば、稚拙な人工知能が自分にも作れると気付いてから程なくしてである。香月が置いてゆく紙幣が、徐々に減っていった頃だった。

大容量のデータ転送が普通になった昨今、いまだに殆どテキストだけのアダルトサイトが存在する事実に、ナリは驚いた。男達が要求するのは、せいぜい写真程度だった。理由はすぐに分かった。ある男は妻と家族が寝静まった夜更けに、またある男はオフィスの窓際で仕事中に、卑猥なチャットに興じていた。文章のほうが興奮するんだ、という男もいたが、少数派だった。

稼いだバイト代は、まず設備投資に向かった。

ナリの部屋にパソコンが増えても、香月は全く気付かなかった。部屋のドアが多少開いていようとも、興味が無いものに視線は向かないらしかった。

高校の入学式の直前、制服や教科書の値段を知った香月は、あっさりと支払いをすませながらも、面倒臭そうに言った。

「もう赤ん坊じゃないんだから、居候みたいな生活してないで自分でバイトぐらいして稼げばいいでしょ」

うちにはお金がないわけじゃない、ただ、この人は、興味が無い娘のために自分が稼いだお金を費やさなければならない事にうんざりしている。

そんな風に、ナリの目には映った。

その頃既に、ナリは水面下で、子供のお小遣いの範疇を超える金額を手にしていた。

最初は一人、やがて三人の架空の女子高生を操って、ナリは着々と銀行口座の残高を増やしていった。




一学期の期末テストの結果が出揃った。

その頃になっても、相変わらず太陽の光はぼんやりと雲に遮られ、空気が肌寒かった。連日、冷えた雨が、か細く降った。

夏休みは暑くて眩しいものだ、というイメージは、ナリの中で遠くぼやけている。懐かしさを感じるほど、そんなに暑さを堪能した覚えもない。

ナリのテストの成績は、全科目で学年二十位以内というものだった。特に数学、物理、生物、英語は一桁の順位を取っている。ホームルームで担任教師が、テスト結果の印刷された細長い紙を配った。前時代的なシステム。隣の席の女子生徒が通りすがりにナリの手元を覗き込み、

「うっわあー、佐藤さんすごいね。頭良すぎ!」

と歓声を上げた。ナリは小さく笑って、そっかな、と控えめに首を傾げておいた。女子生徒はナリを、天才だー、と持ち上げて、直ぐに後ろの席の親しい友人と喋り始める。どうだった。やばいでしょコレ。てかモモの点数何なの、英語だけ十位で物理なんてほぼブービーじゃん。やかましいよ。ウケる。

早々にナリは、テスト結果の紙を鞄の中に押し込んだ。どうせ誰に見せるわけでもない。香月も興味無いだろう。

土曜日だった。午後から、ITLFTの初回ミーティングが開催されるという。

くすんだ大通りに、空車のタクシーがまばらに走っている。首相官邸の方向に向かい、路肩に機動隊の青いワゴン車や警察車両が何台もびっしり並んで待機していた。横断歩道を渡る人々は、それらを気にも留めず通り過ぎる。

青山通りの交差点角のファーストキッチンで昼食を済ませ、メトロに乗った。

電車内の液晶モニタには、今日のニュースが流れていた。銀座であった大規模なデモと、マレーシアのクーデターと、イタリアの無差別銃撃事件を報じている。近いのか遠いのか、モニタに映る写真との距離が曖昧に見えた。

ナリは空いている座席に座ると、先日教師から受け取った封筒の中身を、改めて取り出した。

A4サイズの紙の一番上には、『十代のための情報技術研究室 研究生に選抜された皆様へ』と書いてある。

情報科学の授業で、課題に沿って簡単なプログラムを組んだ時に、それが担当教師の目に留まって、推薦メンバーへの応募を勧められた。いずれの教師ともあまり深く関わりたくないナリは、その教師をそれとなく避けながら断る理由を考えていたが、適当な文句がいまいち思いつかないうちに、流されるように話がついてしまった。それでもナリ自身は、どうせ落選するだろう、と高を括っていたのだった。

封筒の中に入っていた地図に従って、虎ノ門でメトロから地上に上がり、文科省別館のエントランスを入った。受付で封筒の中の紙と学生証を出すと、ドライな雰囲気の女性職員が淡々と対応した。ナリはネックストラップ付きのビジター用のカードを手渡されて、エレベーターに乗った。

エレベーターホールを抜けるとすぐに、『ITLFT 十代のための情報技術研究室』と印刷された貼り紙が目に入った。張り紙の横のドアが開け放してある。中の様子を伺いながら入った。

部屋には職員と思しきスーツ姿の男性が数人と、太めの身体をベージュのスーツに詰め込んでいる中年女性がおり、部屋の中央に並べられた椅子には五、六人の高校生らしい男女が座っていた。

ナリはおずおずと声を出した。

「あの」

「はいはい、研究生の方ね。今日は。お名前は?」

すぐに、中年女性が満面の笑顔で答えた。

「佐藤ナリです」

「佐藤さんね。あちらの空いてる椅子にどうぞ」

ナリは左右に誰もいない椅子を選んで、腰を下ろした。

見渡すと、壁際に並べられたデスクには、ワークステーションが何台も並んでいる。その他に、無線のキーボード、何台ものラップトップ、一台だけのプリンタ、ルーターなどが秩序無く置かれ、部屋の端ではケーブルがスパゲティのように床を這っていた。それらに囲まれている高校生達の格好はばらばらで、学校の制服と私服が半々くらいだった。

ナリの後にも数人、新たに高校生が入ってきた。少しずつ部屋の人数が増えた頃、何の気なしに後ろを振り返ると、いつの間にか背後の壁際に、一人の少年が立っていた。

まず目を引いたのは、彼の髪の色だった。

頭のてっぺんから右半分の髪だけが金に近い茶色で、目に掛かるくらいの長い前髪の下に、黒のセルフレームの眼鏡を掛けていた。スウェット地のジャケットのファスナーは一番上まで閉じていて、前髪とジャケットの襟の間に顔が覗いている。更に、首には濃い緑色のヘッドフォンが引っ掛かっており、両手をポケットに突っ込んだ姿勢と相まって、この場の雰囲気とはあまりにも不釣合いな存在に見えた。

彼を頭の上から足元まで凝視してしまいそうになって、ナリが慌てて目を逸らした時、ベージュのスーツの女性が、

「では、皆さんお揃いなので」

と進み出た。

「皆さん、ITLFTへようこそ。えー、私はこのプロジェクトの顧問の、細川です」

彼女の見た目から、随分昔に図鑑で見た、毛皮の薄汚れている大きな白熊を思い出していたところだったので、その見た目とは裏腹な苗字にナリは心の中で苦笑した。

細川女史は人懐っこそうな笑顔を絶やさず、しっとりと甘い声で、プロジェクトの内容を説明した。

ここには、下は十四歳の中学三年生から、上は十九歳まで、十五名の『ティーンネイジャー』が集まっている。プログラミングやデジタル環境での芸術活動などに長けている十代の若者の中から、特に才能の見込まれる者が選抜され、研究生となっている。年内一杯の約半年間、研究生はここの臨時IDとカードキーを貸与され、この部屋にある機器を自由に使って構わない。他のメンバーと共に二人以上で、或いは自分一人で、何らかの作品を一つ以上作成してデータを提出する事が求められる。アプリケーションでも映像でも音楽でも、何でも構わない。ハードウェアの形態も問わない。プロジェクト終盤の十二月に発表会が行われ、その場で完成した作品の内容についてのプレゼンを行う。期間中に随時、お互いの交流やアイデア交換、意見交換の為のミーティングを行なう予定。――

細川女史は、選ばれた研究生の皆さん、と強調した。ナリはその話を聞きながら、事前に渡されていた封筒の中身を取り出した。細川女史が語る概要もそれ程複雑ではないが、手元の書類は更に輪を掛けて、滑稽なほどシンプルだった。全部で二枚。しかも二枚目には、この初回ミーティングの開催日時の詳細と、場所の案内図しか載っていない。選ばれたと言われても、重みは特に感じなかった。大体、どう考えても、政府は官公庁へ子供を招いて能天気なミーティングなど開いているほど暇じゃないだろう、と思った。ナリにはどうでもいい事だったが。

「じゃあ、初回だから皆さん自己紹介しましょうね。こちらの端のあなたから順番で良いかしら」

相変わらず人懐っこく、しかし有無を言わさぬ雰囲気で、細川女史は最も近くに座っていた男子高校生を指名した。

「あ、立ってね。その場で構わないから。皆さんに顔が見えるように」

指された男子生徒も、笑顔で椅子から立ち上がった。

学校名と氏名、得意な分野――スマートフォン用のアプリケーションを趣味で作っているらしい――などを、はにかんだ笑顔で明るく話す彼を見て、今更ながら、もしかしたら場違いな所に来てしまったかもしれない、とナリは焦りだした。順番が廻ってくるのが殆ど最後で、それまでの間に精一杯無難な自己紹介を考えていたためか、他の研究生の名前が全然記憶に残らなかった。

「……都立日比谷二年の、佐藤、ナリです。学校の授業の中で、テキストで会話が出来る、喋れるペットみたいなAIを作って、それで先生に推薦されて来ました」

宜しくお願いします、と締め括ってぺこりと頭を下げる。部屋にいる全員がぱらぱらと拍手する。椅子に腰を下ろして、ナリは胸をなで下ろした。宜しくお願いします。日本語には何と便利な決まり文句があるのだろう。付け加えておけばとりあえず形を整えられる。それだけの、何の意味もない言葉。

椅子に座っている全員が話し終えた後、細川女史は壁際の少年に向かって言った。

「ヒカル君、ほら、あなたも自己紹介」

「……え」

他の研究生が全員、一斉に後ろの壁を振り返る。

ナリも改めて少年をまじまじと見た。

「いや、俺はいいっす。そういうの」

ヒカル君、と呼ばれた彼は、ぼそりと答えた。柔らかい声だったが、他の中高生の輪の中に入る気など毛頭ない、という意図がありありと表れていた。一瞬、細川女史の顔が凍りつき、部屋の空気は気まずくなった。

「――そ、そんな事言わずに。折角の機会だから。ね。あなたも一応研究生なんだし」

「……」

貼りついた笑顔で、細川女史が再度促した。

「――溝口ヒカル、十九歳、浪人です。宜しく」

ヒカルはそれだけ言って、適当に会釈して挨拶を締め括った。細川女史は開いた口が塞がらないという顔で絶句したが、すぐに我に返って場を取り繕った。

そこから先の細川女史の話は、全然ナリの耳に入ってこなかった。

ヒカルは眼鏡の奥の瞳に、更に淡い色のコンタクトレンズを入れていた。もしかしたら、長い前髪もセルフレームの眼鏡もカラコンも、その奥に隠れる為なのかもしれない、とナリは思った。

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