Ⅰ―20XX

銀色の電車がモノクロームの人混みを吐き出しては飲み込み、飲み込んでは吐き出す。

乗っているほうも乗せているほうも無機物みたいだ、と思う。

千駄ヶ谷駅の改札を出ると、再び雨が降り始めていた。七月に近付いてもまだ肌寒く、長袖のロングカーディガンを手放せない気温だった。駅の利用客も、大半がジャケットやトレンチコートを着込んでいる。

佐藤ナリは、通学鞄を肩に掛け直して、無色透明なビニール傘を広げた。

斜め前に見える東京体育館は、工事がつい先週終わり、建物外側の覆いと足場が取り外されたばかりだった。黒く塗り変わった外観は、どこか街の空気を反映しているようだった。ベランダからそれを見て、ゴキブリみたいで気持ち悪い、と言っていたのは香月(カヅキ)だ。気味の悪さは、あながち根拠が無いものでもなかった。東京は、とりあえず華やかに装ったオリンピックの余韻など、すっかり忘れ去っている。今後のスポーツイベントの為にそんな巨大な予算を投じる余裕があろうはずも無く、補修工事とは名ばかりで、実際は有事の際に避難場所として使う為の改築と補強だという。

ナリは駅を背後にして、沈んだ灰色のアスファルトの歩道をまっすぐ早足で歩いていった。

道路に面したカフェの、ウッドデッキが朽ちている。このテラス席に人が座らなくなってからどれくらい経つのか、ナリには思い出せない。ぼやけた記憶は、いつも今の風景で薄く上塗りされる。ナリの見慣れた「うちの周り」では、もう何年も昔から、新宿御苑は半分が枯れ木で、カフェのウッドデッキは濡れそぼった朽ち木だったような気がする。東京体育館の屋根だって、ナリが物心ついたときには既に腐食と変色で暗い色だった。銀色だった時代があったなど、そうそう信じられない。

脇道の緩やかな坂を上がり、白いタイルと人造大理石のマンションのエントランスに入った。雨水にあまり触れないよう、身体から少し離すようにして、ビニール傘をたたむ。骨がところどころ錆びていた。もうすぐ寿命かもしれない。最近少しずつ、錆びが広がるのが早くなってきた。

オートロックのパネルに鍵をかざして自動ドアを開ける。郵便ポストは無視してエレベーターで十階まで上がる。鍵を開け、傘は玄関の外に無造作に立て掛けて、部屋の中に入る。

ただいま、と言う習慣は無かった。

ナリは鞄を玄関脇の床に無造作に置いて、洗面所に直行した。高校への行き帰りでわずかに湿っている靴下を脱いで、洗濯機に投げ込むついでに、バスルームを覗いた。

――帰って来てない。

バスルームの中は床もバスタブも乾いており、水滴の痕が点々と白く残っているだけだった。洗濯機の中にある香月のワンピースは、ナリの覚えている限り、少なくとも昨日の朝には投げ込まれていた。

ナリは裸足で洗面所から出て、そこで思い立って、香月の部屋もドアの隙間から少し覗いた。やはりベッドは空だった。

呆れのような安堵のような空白が、人の気配の無い凪で家中を満たしている。

キッチンへ寄ったナリは、冷蔵庫から紙パックの林檎ジュースを出して片手に持ち、もう片方の手で鞄を拾い、肘で自室のドアを器用に開けた。

モーター音が、微かに空気を揺らしている。

鞄は床の上に転がしておき、ジュースはスチール製のデスクの上に無造作に置いて両手を空けると、ナリは二つあるモニタのスイッチを入れた。

ラップトップとデスクトップ、二台のパソコンの画面が明るくなった。

画面には複数のウィンドウが開きっぱなしになっていて、アダルトサイトのピンク色のチャットルームに、履歴がテキストで残っている。更にそのうち一つは、今も会話が進行中だった。画面をスクロールさせて、簡単に履歴を斜め読みした。

――このオッサン、平日の昼間から暇なんだ。

淡白な目でラップトップの画面を眺め、デスクに頬杖をつく。

ナリはキーボードには触れず、そのままチャットの行方を見守る事にした。


『おじさん医者なんでしょ ヘンタイ』

【ヒナコちゃんほどじゃないよ】

『うっそー 教師と医者は変態が多いらしいじゃん』

【それは本当かもね。悪い子が多いから】

『はい全部脱いだよ これでいい』

【いいよ。じゃあおっぱい触ってみようか】

『ん っ  あっ』

【まだ乳首には触れちゃダメだよ】

『え あう んっ』

【可愛いね】

『ふあ あ』

【可愛いね】

【可愛いねヒナコちゃん】

『んん っく あ』

【かわいい】

【かわいい】


医師と自称する男はいくらでもいる。会社を経営していると名乗る男も多かった。昨今の不景気の中、そんなに医者や会社経営者がたくさん、しかも平日の昼間からエロチャットに興じているはずがない。薄い虚構を、彼女達の虚構が信じてあげる。それだけだ。

先程履歴を斜め読みした限りでは、「ヒナコ」とチャット相手の男性は、最初は交互にテキストをやり取りしていた。だが、男性は、「ヒナコ」が答える前にどんどんテキストを打ち込んで来るようになっている。

薄っぺらいスクリーンの人工の光が、ぬるい体温を映す。

肌一枚を隔てた興奮と、ただの液晶画面の点滅との違いが、曖昧になる。

何の匂いもしない。雨も、紙パックのジュースも、違う場所の存在でしかない。


【かわいい】

【ヒナコちゃん】

【かわいいね】

【かわいい】

【かわいい】

【まだイっちゃだめだよ】

『んんっ やっ    おじさん いじわる』

【おっぱいだけでそんなに感じるの?】

『う あう』

【ちゃんと答えなさい】

『ん』

【いけない子だね。もう一度聞くよ】

『あっ   っく っ はい』

【イキそうなの?】

『 はい』

【でもまだ、大事な所はまだ触ってないよね】

『はい』

【それなのに?】

『いきそう です』

【JKなのに、いやらしい子だね、ヒナコちゃん】


今のところ、テキストの流れるペースが速い。これならチャットは当分の間、延々と続く。そんな予感がした。

「……平凡」

ナリは独り呟いて立ち上がった。

クローゼットを開く。とりあえず一番手前にあったスウェット地のスカートとパーカーを取り出して、制服から部屋着に着替えつつ、片手の指先だけでパソコンのタッチパネルを指先で操作した。他のチャット履歴も、大まかに遡る。画面の色やフォントや女性側の名前はそれぞれ異なるものの、結局中身はどれも似たり寄ったりだった。性格のアルゴリズムを極端に変えない限り、会話内容に目に見えるような違いは出ない。ナリには不思議だった。今時、平凡なアダルトサイトのスパムメールですら、もう少し捻った内容になっているだろうに。

デスクトップのパソコンのほうには、黒い画面の上から下まで、プログラム言語と数字の行列が、滔々と流れていた。

時折、横目で数列の滝をちらちらと見ながら、ナリは全てのチャット履歴をメモ帳アプリにコピーして保存した。フォルダの中には、同じファイルが無数に並んでいる。ファイル名はどれも、チャットの開始時と終了時の日付と時刻を組み合わせたものに統一してある。

一通りの保存作業を終えて、ひとつ大きな伸びをした。

ナリはパソコンのモニタをそのまま放っておいて、スマートフォンだけパーカーのポケットに入れ、部屋を出た。

洗面所で洗濯機のスイッチを入れ、液体洗剤を測って流し込もうとした時、香月のストッキングがそのまま放り込まれている事に気が付いた。溜息をつきながら、それを洗濯ネットに入れた。

もしも私がこんな風に家事をしない娘だったら、あの人の生活は、あの人が大嫌いな生活感という垢にまみれるんだろう、とナリは思った。

――あの人は娘の私に興味無いのに。

香月のワンピースの素材はシルクかもしれないが、そこまで気にするのはもう当の昔にやめていた。ナリが気を遣おうと遣うまいと、服はお構い無しに投げ込まれる。

柔らかい生成り色が、バスタオルや靴下と同じ水流に飲み込まれた。洗濯機が回り始めたのを確認して、洗面所の扉を閉めた。モーターの音が、床まで低く沈んだ。

ナリはリビングのソファに深く座った。

ソファの正面の壁には、大きな薄型テレビが掛けられている。たまたま手の届くところにリモコンがあったので、無造作に電源ボタンを押した。映し出されたのは浜辺と見知らぬ俳優達だった。古いドラマの再放送らしい。

画面の向こうの海はきらきら光り、青空に白い雲が眩しかった。

ナリの世代には、もう現実味が薄れてきている景色だ。

懐かしい、あの頃は良かった、あの頃の何々が見たい。そういうオジサン、オバサン達の懐古趣味と、予算の無いテレビ局の思惑が噛み合っているだけにすぎない。ニュース番組は対照的に、連日連夜ひっきりなしに、縮小する経済や異常気象や緊迫した国際情勢を伝えている。逃げ出そうにも、安寧な未来が開けている場所が思いつかない。だから一部の大人達は記憶の中へ逃げてゆく。

テレビのリモコンのボタンを適当に押す。次々とチャンネルが変わる。どこも代り映えしない。午後のワイドショーが政治スキャンダルを報道していたり、ロシアとアメリカで同時多発的に起きているテロの映像を、モザイクだらけで流している。

ナリは、手元のスマートフォンで大手銀行のネットバンクのページを表示した。キャッシュカードも持っているが、必要な事は全てネット上で完結する――電子マネーに変換すれば自動販売機でも何処でも使える――ので、久しく使っていない。

ワンタイムパスワードのアプリケーションを起動させて、慣れた手つきで自分の口座へログインする。

画面に、百万をゆうに超える数字が表示された。

これが、ナリの全財産だった。




翌朝も、外の景色はじっとりと雨に濡れていた。

薄い灰色のもやが、そのうち東京全体を覆って、ビルも道路も高架の線路も霧みたいに蒸発しそうな、そんな雰囲気だった。

浅い眠りから目覚めて、半分寝惚けながら制服のワイシャツとスカートに着替えた。靴下は昨日乾燥機で乾かした洗濯物の山の中から引っ張り出そう、と思って洗面所のドアを開けた瞬間、

「きゃっ!」

と小さな悲鳴と息を呑む音がして、ナリは香月と真正面から鉢合わせになった。

「なんだ、いきなり開けないでよ。あーびっくりした」

香月はシャワーを浴びた直後らしかった。薄手のバスローブを着て、タオルで長い髪の水気を拭いている。

「帰って来てたんだ」

ナリは一応、香月に訊いた。実際のところは、明け方ごろに遠くで玄関の開く音が聞こえたから、彼女が帰って来ているのは分かっていた。

「邪魔しないでよ。始発帰りで眠いんだから」

香月はナリの横をすり抜けて、洗面所を出て行った。はいはい、という返事は心の中だけに留めておいた。

昨日ナリが乾かしてかごの中に投げ込んでおいた洗い上がりの服には、香月は一切触っていないらしかった。そして洗濯機の中には、新たなカットソーとストッキングが投げ込まれている。ナリは心の中で溜息をついた。

靴下を履く目的だけ達成してキッチンへ行くと、香月が冷蔵庫から出したミネラルウォーターをボトルのまま飲んでいた。

香月の横顔は、美しかった。ピンク色の肌が、濡れた長い髪に縁取られて、首筋までなめらかな曲線を描いている。顎も首筋も、バスローブの下に覗くふくらはぎも、柔らかい脂肪に包まれていながら、その厚みには一切無駄が無い。香月は、その時その時の自分の年齢に合わせて、自分を美しく見せる方法を知っていた。昔から、ごく稀に香月が授業参観や学校のイベントに姿を見せると、同じクラスの生徒達がざわめいたものだった。

もっとも、ナリが美しい母親を誇りに思ったことは、一度も無い。

「寝るんなら、ドアチェーン掛けないで寝てよ」

「そう長々と寝てらんないわよ」

ナリの言葉に香月が、あからさまに不機嫌な声で返した。

「あんたが帰ってくる前に私は出てなきゃいけないの。のんびり寝てる暇なんてないの。また人手を減らされたばっかりで忙しいんだから」

あーあ、と香月は溜息をついた。

大体二、三日に一度、出掛けた時とは違う服で戻ってくる。

今の香月の恋人が何処に住んでいるのか、ナリは知らなかった。




窓寄りの席からは、日枝神社に茂る銀杏の、色褪せた緑が見える。

空は今日も細かい雨に濡れている。

「佐藤」

授業の後、担任の教師がナリを呼んだ。

「あとでちょっと職員室に来い、渡すもんがある」

何だろう、とナリはぼんやり思った。

名指しでナリだけが呼び出されても、周りのクラスメイト達が取り立てて反応する事はなかった。

教室の中で、自分の存在感を浮かず消えずの状態に保つのが、ナリは得意だった。この特技は小学生時代に既に培った。浮いてしまうと悪目立ちする。かといって、存在感が消えてしまうと、情報を掴み損ねたり、否応なしに集団行動を強いられる授業や学校行事で、面倒な実害が出たりする。

特定の女友達同士グループの輪に割って入る気は、ナリにはどうしても沸かなかった。女の子の集団は、何とも言えず気持ち悪い。女の子同士というのは何故あそこまで、同年齢で同性の集団に帰属したがるのかと思った。集団の仲間全員でお揃いのラベルを作って、自らに貼らなければ不安になるらしい、と気が付いたのは小学校四年の時だ。

香月は教育熱心とは程遠かった。中学校までは義務教育のエスカレーターに放り込んでおけばいいと思っていたのか、もしくは何も考えていなかったのか、ナリには分からない。ただ、いざ高校受験となると違った。今更ながら、ナリが『バカ校』と揶揄されるような『ダサい』高校へ進学するのは、香月には許せなかったらしい。たぶん、そんな学校に学費を払いたくない、というのが最大の理由だろう。

中学の成績は良かったから、ナリは公立高校の中でも最も上位に当たる進学校に、余裕で入れた。そして知った。成績の良い学校ほど、より『洗練』されたコミュニティになるのだと。勉強が出来れば友達づきあいのスキルも高い、とは限らないが、頭の回転が速くて想像力のある生徒ばかりが束になれば、結果的に健全なイメージの集団になってゆく。少なくとも他人の自由は尊重してくれる。恋愛にも流行のイケメン俳優にも興味が無いナリに、変な女の子、という派手なラベルを貼らないでいてくれる。

職員室でナリは、担任の教師からA4サイズの封筒を受け取った。

「お前、選抜されたってよ」

白い封筒には、文部科学省の文字と丸いロゴが入っていて、プリンターで印刷した『ITLFT - Information Technology Lab for Teens 十代のための情報技術研究室』というラベルが貼ってあった。

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