Phase 01 ― every single day is a piece of wonderland (毎日が特別な、不思議の国)

 ベッドサイドで、三回目のアラームが鳴った。

フライズは、むにゃむにゃと呟きながら毛布から手を伸ばしてアラーム時計を掴んだ。ガラスで出来た立方体の全ての面に、「7:25 AM」と表示されていた。

 もしゃもしゃの髪を掻き分けて、ベッドから上半身を起こす。両手でカーテンを開いた。窓の外から眩しい朝の光が部屋中に満ちた。フライズの目がぱちりと開いた。

「おはよう、私」

ひとつ大きく伸びをして、フライズはベッドを抜け出し、床にひっくり返っていたピンク色のビーチサンダルを裸足に突っ掛けて、部屋を出た。

隣の両親の寝室はドアが開けっ放しで、人の気配は無い。ベッドの上に猫のマメだけが丸まって寝ているのが見えた。

一階まで階段を降りると、その時キッチンから、ケトルが笛を吹く音が聞こえた。

「レイ! 火ぃ止めて!」

イランが庭に向かって叫んでいる。

「あ? 俺?」

「今、忙しいんだってば」

「人遣いの荒い奴だな」

「あーもう君のコーヒーは淹れんわ!」

夫婦漫才を繰り広げる二人を横目に、フライズがヒーターのゼロのスイッチを押した。ケトルの笛が止んだ。

「消したよ!」

「おろ。ありがと」

居間のイランはそう答えながらも、薄いタブレット端末を操る右手を止めなかった。イランは仕事用の眼鏡をかけ、片耳には音声通話のレシーバーを引っ掛けていた。だが、黒いボブヘアの頭の後ろには寝癖が残っているし、服はフランネルの寝巻きのままだ。イランはキッチンに立っているフライズに笑顔を向けてGood morning(おはよう)と言い、再び目の焦点をタブレットの画面と眼鏡に浮かぶ細かい数列に戻した。フライズも返す。Good morning, Iran(おはようイラン)。

「オンコール?」

「そ」

フライズは仕事中のイランの代わりに、既にフィルタとコーヒーの粉がセットされていたガラスのポットへ、躊躇無く一気にケトルのお湯を注いだ。そして、コーヒーが抽出される間に、食器棚からマグカップを三つ取り出した。

「虫(バグ)がいねえよ……どこだ」

「火は消したんだろ」

イランがぶつぶつ呟いているところへ、レイがテラスからキッチンに入ってきた。白いシャツとアッシュグレイの短い髪が、テラスから差し込む朝の日差しで眩しい。庭で収穫したばかりのトマトを、左手に掴んでいる。初夏の庭は、緑が豊かに生い茂って、幾つもの野菜を実らせているのだった。

「消してくれたよ。フライズが」

「その火じゃねえよ」

「レイ、おはよ」

「ああ、おはよう」

レイはシンクでトマトを洗い、ナイフで八つに切った。そのトマトを、アカシアでできた小さなボウルに放り込み、食卓に置いた。隣にはナッツ入りのパンが薄切りになって、皿に積まれている。

「バグが現在進行形で炎上してないんなら、まずはメシを食え。それから教授(プロフェッサー)に連絡して手伝ってもらえ」

「君が手伝ってくれるんじゃないんかい」

言葉とは裏腹に、イランはにやりと笑った。そして軽く溜息をつくと、眼鏡を外した。だが左耳のレシーバーは付けたままである。そんな格好も、三人が囲む樫の無垢材の食卓と椅子に、不思議としっくり馴染んでいた。レイは自分のマグカップのコーヒーにだけ、ミルクをなみなみと注いだ。フライズも真似してミルクを注ぎ、スプーン一杯の蜂蜜を入れた。パンにバターを塗りながら、イランが訊いた。

「フライズ、今日は早かったね。起きんの。アラーム何回目」

「三回目」

「進歩したね」

「でしょー」

イランがフライズの頭をわしわしと撫でた。

「親馬鹿ってやつだな」

レイは淡々と感想を述べ、手元ではパンにピーナッツバターを塗っていた。コーヒーにもフライズ同様、いやフライズ以上の蜂蜜を入れている。

「甘党は黙ってろ。黙って虫歯にでもなれ」

「俺が虫歯になれば北京原人も復活するな」

「ペキンゲンジンって何?」

フライズが首を傾げた。とっくに絶滅した虫歯の事は知識として知っていても、ペキンゲンジンは知らなかった。

「ホモサピエンスの先祖の一種」

「ふーん」

学校で習う知識の一種らしい。そう判断して、フライズはレイの説明を右から左に聞き流した。マグカップのコーヒーを飲み干して、席を立つ。

「そろそろ行く?」

「うん」

バスルームで顔を洗い、髪を梳く。一段飛ばしで階段を上がって、二階の自室に戻る。フライズは寝巻きのトレーナーとショートパンツを脱ぐと、シャツワンピースに着替えた。やわらかい生地が気に入っている。上下どちらに何をどう組み合わせて着るか考えなくていいところも、好きだった。

クローゼットから適当に選んだ短い靴下を履き、ビーチサンダルからスニーカーに履き替えて、フライズは机の上にあったリュックサックを背負った。中には、薄いバインダー式のノートと、大粒のビーズが付いているヘアゴムで束ねたペンが四本、それにイランが使っているものより一回り小さいタブレット端末が入っている。リュックサックを取った拍子に、立て掛けてあったバースデーカードが倒れた。先月、十一歳の誕生日に両親から貰ったものだ。フライズはカードを机の上に元通り立て直した。あとで壁にピンで留めよう。

昇って来た時と同じように一段飛ばしで階段を降りると、大きめのリュックサックの中で、少ない荷物が飛び跳ねた。

「行ってきま――す」

「行ってらっしゃい」

イランが右手をひらひらと振った。レイは、三切れ目のパンに自家製の苺ジャムを塗って頬張っていた。

家を出ると、すこんと高い朝の青空が、改めて眩しかった。

広い芝生と小道を隔てた両隣のテラスハウスの庭は、芝生の片隅に少し花壇があるだけの、レイが「デフォルト」と呼ぶ造りだが、フライズ達が住むテラスハウスの前庭は、トマトやキューカンバー(きゅうり)やエッグプラント(ナス)が次々採れる家庭菜園になっている。そんな幾多のの野菜や、フライズが名前も判らないハーブではまだ飽き足らず、レイは先週プラムの若木を植えた。レイいわく、ウメという名のそのプラムは、普通のプラムの品種とは違って、実が成ってもそのままでは食べられないらしい。そんな果物育ててどうするのかな、とフライズは不思議で仕方なかった。

大通りに出たところで、見知ったブラウンの髪の後姿が十数メートル先を歩いていた。フライズは駆け足で追い掛けて

「ジェン!」

と、隣家の幼馴染の名前を呼んだ。

が、返事は無い。

あれ?と訝りながらフライズがもう一度呼ぶと、ようやくジェンははっとして振り返った。

「……あ、フライズ」

「おはよ」

「おはよう」

いつも通りの少し広がった短い髪。見たことのある花柄のシャツに、丈の短いカーキ色のカーゴパンツ。見慣れているはずの幼馴染の姿。しかしフライズには、いつもより心なしか俯いているように見えた。

「……どしたの、ジェン? 元気ないね」

「え?」

ジェンはほんの一瞬だけ、少し緑がかった瞳を丸くした。

「――そうかな? そんな事ないよ」

「ほんと? なら良いけど」

フライズとジェンは、松の木が青々と伸びる並木道をまっすぐ歩いてゆく。二人とも学校に入ったばかりの頃、社会科の授業で、町の地図の見方を教わった。町の形がほとんどきれいな丸なのは、大昔の王様が造った城壁の名残だと、デール先生(ミスター・デール)が言っていた。町の中央に、図書館や教授達の研究所、フライズ達の通う学校やシティホールのあるブロックがあって、そこから何本もの大通りが、少しひしゃげた放射線状に広がっている。

「さっき、イランがトラブルシュートで苦戦してたよ。今頃、教授に仕事手伝ってもらってるかも」

「うちの父さんに?」

「うん」

「父さん暇そうだったからいいんじゃないの」

「ひどい」

「だってホントの事だもん」

フライズとジェンは、お互いの顔を見合わせてくつくつ笑った。




娘を見送り、三切れ目のパンを飲み込んだイランは、食卓に座ったまま再び眼鏡を掛けて、タブレット端末をひたすら注視する作業に戻った。

「そのうち鶏でも飼うか。毎朝卵サンドイッチ」

レイが食卓に頬杖をついて庭を眺めながら呟いたが、イランはまったくの無視だった。マグカップのコーヒーも、半分以上残っている。

レイは自分のカフェオレを飲み干して、訊いた。

「そんなデカいバグなのか?」

「――分からない。問題としては今の所、小さい」

仕事の話には返事をする。イランは昔から真面目すぎる、とレイは思った。

「じゃあどうしてそんなに躍起になる」

その一言に、イランははたと顔を上げて、目を休めるようにゆっくりと瞼を閉じた。

「……ドツボにはまってるね、私」

食卓にタブレット端末を置き、一つ大きな伸びをする。イランのその仕草はフライズにそっくりである。

「妙に気になる話だったから。――天気予報(ウェザーフォーキャスト)にブレが出てるんだ」

レイが眉を顰めた。イランはタブレット端末をレイに渡した。

「これ、今朝、カヴェイが電話して来た時の実績値(アクチュアル)」

レイは画面に表示された数値を、上から下まで舐めるように読んでいった。段々と、先程までのイランと同じ硬い表情になっていく。レイはそのまま暫く頬杖をついて、画面をじっと眺めていた。が、ふと思いついて、顔を上げた。

テラスの向こうで、光に照らされる菜園の緑色が、きらきらと揺れた。

ぽつりと、レイが呟いた。

「――ずれているのは、どっちだ?」

イランが目を大きく見開いた。




フライズとジェンは、テニスコートの脇の生垣の穴を潜って、学校へと歩いていった。この近道は、秘密基地を作るのに相応しい場所を探してあらゆる所を調べ尽くしたジェンが、一年生(ファーストグレード)の時に見つけたものだった。その頃から穴の大きさは殆ど変わらないが、段々と潜りにくくなっている。理由は二人の背が伸びたからで、こればかりは仕方ない話だった。

いつも通り、煉瓦造りの玄関から教室に向かって吹き抜けの回廊の下を歩いていると、ちょうどガブリエルとアランがこちらへ向かってくるところだった。気付いたジェンが先に

「おはよー!」

と叫んで手を振った。

長い黒髪にリボンを結んだガブリエルが、おはよう、と返した。フライズはきょとんと首を傾げた。

「あれ? 二人ともどこ行くの?」

「エバンズ先生の宿題出しに」

そばかす少年のアランが答える。見ると、アランもガブリエルも、手にバインダーを持っていた。

「……宿題?」

「そうだよ。スナップショット(作文)を書くやつ。今日までのが出てたでしょ」

フライズは引きつった笑顔を浮かべ、隣のジェンは白い目でそんな友人を見ていた。

「――まさか、また」

「しまったあ……!」

フライズが頭を抱えるのと同時に、上から張りのあるテナーの大声が響いた。

「フライズワイド・S・クロス! これでミス・ホームワークの称号確定だな!」

斜め後ろを見上げれば、吹き抜けを通じて上階からエバンズ先生がこちらを眺めてにやにやと笑っていた。ミス・ホームワークとは、『未婚女性への敬称(ミス)』と『忘れる(ミス)』を掛けて、デール先生がフライズに付けた仇名だ。(昔は、女性に呼び掛ける時の敬称にはミスとミセスと二種類あって、相手が独身か既婚かで使い分けていたんだよ、とレイが教えてくれた。めんどくさいことしてたんだなあ、とフライズは思ったものだ)

老教師は髭を捻りながら、精一杯厳しい言葉を選んだ。

「よくぞまあ、やたらめったら忘れてくれるもんだ。君の記憶たるや、まったく酷い。反省しているんだろうな、フライズ?」

「ごめんなさい先生!」

「参考までに提出期限は、今日いっぱい、だ」

エバンズ先生は、再びにやりと笑みを浮かべた。その言葉の意味するところを捉え、フライズは覚悟せざるを得なかった。

「――はぁい。分かりましたぁ」

フライズががっくりと肩を落として、

「あー…休み時間とランチタイムで、今日中に書ききれるかなあ……」

と嘆くと、隣でジェンもぼそりと呟いた。

「……念のため言っとくけど、手伝わないからね」

「…………はいぃ」

蚊の鳴く様な声で、フライズが返事した。

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