第17話夢か現か。
「…………」
「あ、ありがと……」
よろけた私の身体を支えながら、レンはしかし、真正面を向いたままだ。
真正面――壇上に現れた、少女入りの水槽を。無機質な仮面の奥で、目が爛々と輝いているようだ。
『……ご紹介、ありがとございます』
やや辿々しい英語に、私たちはもう一人の登場人物を思い出した。
短く刈り上げた黒髪、平べったい顔立ちの東洋人だ。ぬっぺりとした顔のパーツのせいで、若者にも老人にも見える彼は、確か、リー博士と呼ばれていたか。
『東洋では、水を特に親密に感じています。私の故国では、周囲の国たちも、海には愛憎を併せて持っているかと思います』
体勢を立て直して、私は呟く。「あれは、日本人? それとも中国人?」
レンは肩を竦めた。「待ち合わせをしてみなきゃ解らないな」
『……桃源郷は、海の向こうにあると、私たち言います』
「どうやら、遅れてくるらしい」
『海はヒトの世界ではありません。あの世とこの世とを隔てる壁であり、詰まりは神の領域なのです。そこに踏み込もうという、私の無謀な試みを、心ばかりから援助してくださったバース氏には、感謝の言葉しかありません』
「……桃源郷、或いは竜宮城」
ポツリと、レンは呟いた。「海に出て異界に紛れ込む話は、アジアではありふれているね」
西洋でも、水は区切りだ。
例えば村は、森の他に川でその領域が決められたし、吸血鬼は川を越えられない。
「灯籠流しというのもある。川に穢れを流し、祓うという民間信仰だ。これは川が海に繋がることからだろうし、海にも同じことをする。人形を流すことも、他に、人を流すこともあったようだ」
「人を?」
「口べらしや生け贄だろうね。お坊さんが極楽浄土へ向かうために、流されたこともあったようだよ。他に神話でも、川を渡るには神と言えど助勢が必要であることがほとんどだ」
「……何か、死後の世界にも川って無かった?」
「三途の川、或いはギリシャ神話、インド、ハワイのにもあったかな? 先立っても言ったが、川は区切りだ。境界なんだよ。そこを渡るということは、一度死ぬということだ」
「だとすると」
私は、背筋に生じるひやりとした悪寒を意識しながら、呻き声をあげる。「アイツは、何人渡らせるつもりなのかしら?」
『……感謝には、二通りの意味があります』
私たちの雑談をよそに、リー博士の話は続いている。
『してもらったことに対する、という本質は変わりませんが、しかしながら、二つ。一つは、助けてはもらったが、しかしながら、目標を達成できなかったときの感謝です。これはとても、とても悲しい』
「……こういうとき、スピーチの原稿くらい用意するものじゃないのかな」
心底不思議そうに、レンが呟く。「何で事前準備の時間があるのに、あんなに片言なんだ?」
「演出じゃないの?」
『しかしながら』
それともあれは口癖なのか。私たちの疑問は他の誰とも共有できてはいないようだ。『今回は幸いにして、もう一つの意味で感謝を示すことが、私はできます』
もう、一つ。
既に示された一例が『失敗』ならば。このあと示される残る一つは、恐らく――。
『有り難い、本当に有り難い援助の末に、私はこう、皆様に伝えることが出来ます。目標を――私は、達成したのです。
人類が、地球に残された三分の二以上の空き地を利用するための、私たち、最後の壁を突破したのです!
水中呼吸。私たち開発したこの薬使うと、人は、水中でも生活することが出来るようになるのです』
「……さて、ご感想は?」
「ん?」
私の質問に、レンは首をかしげた。「何についてかな、ツキ?」
私は無言で、壇上に視線を向ける。
バース氏と、彼の相棒らしい怪しげな東洋人の周りには、出席者の内私とレンを除いたほとんど全てが集まっていた。
彼らは口々に、二人への称賛や質問を繰り返しているが、その眼は私たちと同じ方へと向けられている。
人魚。
水槽に沈められたまま、少女はゆったりとした仕草で、群がる人々へと順繰りに視線を向けている。
まるで、東洋のカラクリ人形のようだ。
「人魚、ねぇ……」
「思ったよりも、気の無い返事ね」
私は、どの程度踏み込むべきか思案しながら、恐る恐る口を開く。「……アンタの、お待ちかねじゃあないの?」
「ふん」
鼻を鳴らすと、レンはグラスを口に運ぶ。
その、ウイスキーだかバーボンだかが入ったロックグラスは、一体いつの間に持ってきたのだろうか。また例の手品か。
「確かに、僕は世界各地を無遠慮に飛び回って、【人魚】を探し求めてきた。君に敢えて説明するつもりはないけれど、まあ、僕にとっては宿命ともいうべき存在なのでね」
「じゃあ」
「だから」
レンは、やや語調を強めた。「あれに関して、別段何もないよ」
飲み物を、飲むために。
レンは仮面を半分外している。
普段ならば見えない、生身の部分。生々しい朱色の唇がコップの形に歪み、琥珀色のドロリとした液体を喉に運んでいく。
あぁ、と私は思った。レンって、本当に生きてるんだ。
「そもそも、あれがホンモノかどうかは解らないぜ?」
「え?」
私は水槽に向き直った。相変わらず、少女が沈んでいる。「……あれが、フェイクだっていうの?」
「例えば、僕らは誰も、あの少女が沈む瞬間を見ていないよね?」
「それは、まあ……」
「だとすると。幕が開く寸前に沈めた可能性がある」
あ、と私は短く呟いた。
言われてみれば、確かにそうだ。あの幕が開く前から少女が沈んでいたとすれば、それは超人的な潜水能力だろうが。
寸前であれば、驚異的な、というレベルで済むだろう。
「それもそうだし。そうだな、例えば……水のカーテンだ」
「カーテン?」
「水槽の真ん中に、アクリル盤とかで衝立を作るんだ」
中身が半分ほど残ったグラスをテーブルに置いて、レンがそっと指を走らせた。
瞬間、コップを真っ二つに割るように一筋の線が走り、水面が割れた。そうして、私の側にだけ酒が満たされたグラスに、レンが指を突っ込む。
「衝立のこちら側は、ご覧の通り水はない。けれど……」
指を入れたままで、グラスを持ち上げる。目の高さに掲げられたグラスを覗くと、レンの指が酒に沈んでいるように見える。「こういうわけ。これなら、例えば同じアクリルで台を作れば、水中で浮かんでいるようにも見えるわけだ。あとはシャワーでも浴びれば、水から上がったように見えるよ」
「なるほど……」
「他にもコンピューターグラフィックや、特殊効果、金に糸目をつけないなら幾らだって手段は思い付く……究極的にはそもそも、呼吸できる水だってあるしね」
とはいえ、とレンは呟いた。
「初めての経験だが、あまり、良い気分じゃないな。飲み直したいが……君は、どうする?」
「付き合うわ」
野次馬、或いは禿げ鷹たちの饗宴に背を向けて、私たちは歩き出した。
金持ちのお上品な料理よりも、煙いヴァンのダイナ-が、私には似合っている。名前も読めないシャンパンより、エールを一息で飲み干す方が、随分と心地好い。
レンは、果たしてどうなのだろうか。
少なくともここのシャンパンは口に合わなかったみたいだが――好みなんて、解らないし。
だが、どうしてだろうか。
レンに、ここの酒が口に合わないと思ってもらえたことが、何故だかやけに嬉しかった。
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