第9話幕間、その時老人は。

「……ふう、やれやれ」


 スマートフォンに表示された同僚からのメッセージを、ノアはたどたどしい手付きで開くと、その単語に苦笑する。

 この単純な動作で『開く』とは――メッセージ着信の知らせを軽く触れただけで、レターナイフも必要なく、届いたメールを読むことが出来る訳だ。


 時代は変わった。間違いなく、良い方に。


 若い頃、パソコンが登場したときに、紙の手紙が電子情報にとって代わられるとは想像もしなかった。

 手紙には歴史がある――電話や、例えばファクシミリが登場しても、けして衰退しなかった歴史が。

 それがどうだ。

 今、手紙をペンで、自分の手で書く人間がどの程度いるだろうか。

 誕生日のカードに印字された、若者がQRコードと呼ぶ現代美術みたいなモザイクを見たとき、ノアはひどく虚しさを覚えたものだ――自身には、『誕生日おめでとうハッピーバースディ』と書く程度の労力を費やす価値もないのか、と。

 実際そうではなかった。

 彼らは、万年筆のインクを減らして当たり障りのない文言を書くよりも、スマートフォンの画面に紙吹雪を舞わせる方が、相手に喜んで貰えると思っただけなのだ。

 当人たちもその方が喜ぶのだと知ったとき、ノアはため息を吐いた。


 時代は、変わったのだ。


『レンに付き合わされる、BB社に乗り込むかも。署長に上手く言っておいて』


 若く野心的なツキ・G・ハーパーからのメールに、ノアは眉を寄せる。


「……まったく」


 思わず、愚痴も飛び出るというものだ。

 署長の下に問題の電話が掛かってきたのは、僅か数分前のことだ。

 定時など知らぬとばかりに書類の山と格闘していた署長が、見慣れぬ番号に顔をしかめながら「もしもし」と言って、そして――。


 ノアはため息を吐いた。

 国をも動かす権力に名指しで協力を依頼された署長が、どれだけ荒れたか、テレビ通話で見せてやりたかった。

 元より他人からの命令が嫌いな男だ、明確な上位存在からの横やりで、同席していた残業中の部下たちがどれだけ迷惑を被ったか。


「署長に上手く言うのは……もう手遅れじゃな……と」


 太い親指をリズミカルに動かしてメッセージを返信する。

 既読readの文字が付かないのを確認し、ノアはメッセージアプリを閉じる。

 忙しくて読めていないのか、或いは――あの特級調査員の男と盛り上がっているのか。


「……ふむ。まあ、良い変化かもしれんな」

 配属直後のツキの目付きを思い出して、ノアは呟いた。「あれは少しばかり、男性に厳しすぎるからのぅ」


 ツキの持つ、男性全てが敵だと言わんばかりの頑なさは、彼女が情熱的に仕事をするための原動力にはなるだろうが、望む結果をもたらす助けにはならないだろう。

 確かに、彼女のような生い立ちであれば、そうなるのも無理はない。そもそも現実として、性別を理由に相手を判断する人間は数多い。

 だが、それは別に、男性から女性に向けた視線だけに限った話ではない。

 謂れのない侮蔑で正当な評価が為されない例は、あらゆる地域で平等に起きるのだ。


 ツキの悪い点は、対抗手段を『敵対』のみにしてしまうところだ。自分を見下したと彼女が思えば、その瞬間、ツキは牙を剥く――物理的に、攻撃するのだ。


 他人に見下されないための生き方というものは、実に難しい――少なくとも、不愉快な相手に噛み付くことではない。

 彼女の父親が好む言い回しをするのなら、『柔よく剛を制す』だ。硬さよりも柔軟さの方が、結局は強いということは往々にしてある。

 そのことに、『moon』と名付けられた彼女が気づけば良いのだが。


「……しかし、ふうむ……BB社か」


 少し考えるような仕草の後、ノアはスマートフォンの画面に触れ、新たなアプリケーションを起動した。

 連絡帳アプリから、ただ『C』とだけ登録された番号を選び出すと、少しだけ強めにそこを押さえる。

 それだけで、画面には『呼び出し中calling』の文字が表示された。


 そのまま手を持ち上げ、スマートフォンを耳に当てる――まるで電話のように、という皮肉がノアの脳裏に生まれた。

 短いコール音の間、ノアはそっとまぶたを揉む。画面に触れるという直感的な操作方法は、ノアのような老人にはとても有り難いものだが、いかんせん目が疲れる。


 それでも、何もかもが安易になったことは否定できない。

 時代は変わったのだ。とても、良い方に――何しろ指先一つで、


「あー、もしもし? どうも、BB?」


 通話の相手が告げた数字に、ノアは満足げに頷いた。

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