第8話共通点の探し方
……冷えていく。
周囲の空気が、全身を包む気配が、そして私の体温が。
生死の機に瀕した時、肉体は血流を操作し、体温を調節し、アドレナリンを分泌させてそっと、死への準備をする。心より先に、身体が敗北に備えるのだ。
敗北、そう、敗北だ。
人類が十万年の間に延々と積み上げてきた理性や常識と呼ばれる壁の奥、知性の始まりより遥か昔から刻み込まれた、本能とも呼ばれる感覚が私に伝えている。
目の前の男は、瞬きのうちにお前を殺し得る存在であると。
冷たい感触は直ぐに消えた。殺意だとか気配だとかいう、目に見えない非科学的なものは消え失せ、形ある者だけが残る。
「……驚いたな」
レンは静かに呟いた。「驚いたよ、本当に……まさか、ここまでとはね」
その目。
仮面の奥から覗く瞳が、急速に色を亡くしていくようで。
狼が獲物を見定めるような視線に、私は――笑った。
「やっと私を見たってわけね」
「…………?」
「上から目線には飽き飽きってことよ。世の中には、私を見下す連中が多すぎるわ」
情が欠落した瞳のままで、レンが首を傾げる。「それは御愁傷様だね」
「まさか」
私は鼻で嗤ってやった。「やりがいがあるわ」
敢えて。
私をえこひいきして私が言うのなら、半分といったところだ――半分、笑みは強がりだった。
姑息な虚勢だ。世界を相手に戦っているという宣言は、その後当然に訪れる敗北を、クリスマスみたいに彩ってくれる。
よりドラマチックに、まるで勝利のように。
残りの半分は、本気だった。他人を見返すことは、私の人生における目標の一つだ。
「…………ふふ」
ガラス玉が瞼に隠れる。次に空気に触れたとき、それは再び瞳に変わっていた。「なるほど――悪くない」
私は笑う。本気度は八割といったところだ。「それは強がり?」
人間味を取り戻した仮面男は、黒い瞳に喜色を蔓延させながら、あくまでも強気に肩をすくめて見せた。
バットマンに追い詰められたジョーカーが、『ようやくゲームが始められるぜ』、とでも言うように。
ニヤリと、笑った。
「ふ、『
「それはどうも」
「……被害者たちの通院履歴、それから服薬履歴を調べたが、目立つものはなかった。彼らは普通に生きていて、普通に風邪を引いたり怪我をしたりしていただけだった。ところが」
レンの右手に、いつの間にかクレジットカードが握られている。「被害者の口座を調べると、死ぬ六ヶ月ほど前から異常な額の出金が相次いでいる。保険や預金は解約、カードはとっくの昔に使用停止だ」
「ドラッグ?」
「僕らもそう思った。だが、彼らの誰もそうした薬に手を出した様子はなくてね。裏社会の誰もが、そんな素人に無茶な売り方はしていないと証言したよ」
「あんな連中の言うことを信用するの?」
売人なんて、人を蝕み、堕落させて金を搾り取る、人間のクズの見本みたいな連中だ。「逮捕を避けたくて、出任せを言ったのかも」
クスクスと、片手で口を隠しながら、レンは上品に笑った。「真実を話させる方法は幾らでもあるよ、特に、僕らのような組織にはね」
悪どい笑みに軽く身震いしながら、私は「それで?」と先を促した。
「それでも何かの目処を見付けて、アンタはここに来たんでしょ?」
「何に使ったにせよ、被害者たちはいずれも、六ヶ月ほどの期間の短い内に、ほとんど全財産と呼んでも良いような額を消費している。口座からの貯金の流れ、それと併せて、突如生活態度が悪化した者を検索した」
検索した、か。
銀行の口座を監視するシステムは、映画やドラマなんかでは良く出現する。ろくな説明もなく、ジェダイのライトセイバーみたいにあって当たり前、というスタンスで。
監視国家という着想は、最早目新しさもユニークさもない。
電子機器の発展に伴い、情報のやり取りは複雑な安易さに塗り固められている。誰でも気軽に自分の情報を発信し、他人から情報を受け取ることが出来る。横流しの機関銃を買うことも、ピザの注文と同じように簡単だ。だが、その仕組みは複雑で、誰も詳しくは知らない。
買い物をするとどこに足跡が残り、誰に見られるのか、それが解らない。
解らないままに人は生活を続ける――iPadで自然主義者が健康食品を注文する、スターがパーティーの光景を報告する。
誰に見られるかも、解らないままに。
インターネットで、知らず知らずの内、人は
「良い時代になったよ」
レンも苦笑混じりに頷いた。「人一人で、世界の経済を監視できる」
私は半ば呆れながら、肩をすくめた。「アンタたちなら、犯罪者をあっという間に捕らえられるでしょうね」
「そうだね、だからしない」
「……出来ない、じゃなく?」
「解っていることを聞くなよお嬢さん。僕たちは、あらゆる法を無視する。そうすべきだと、創設者は考えたのさ……スミス・ドール・スミソニアン。有り余る金を自らの幼稚な夢に捧げた
「目的って?」
「こそ泥の逮捕でないことだけは確かだね……さて。とにかく監視の末、僕らは重要な手懸かりに気が付いた。金銭は裏社会に流れず消費されている」
おっと、とわざとらしく、レンは両手を挙げた。「ここからは、君にお願いするべきかな?」
道化じみた所作に、私は鼻を鳴らした。
狐の面は、確か、神に捧げられる
神を身近に持つ東洋らしい考え方だ。人が面を被っただけで、神の道化になれるとは。
まあ、確かに。
悪い気は、しない。
「……どこかの性悪仮面のせいで、私の手元にはほとんど情報が残ってなかったわ」
私はレンを睨み付ける。
レンは首をかしげた。
「けれど、少しは残ってた。ピンボール二回分の小銭に、使い終わったアップルカード、そして――ポイントカード」
「ポイントカード?」
完全に虚を突かれた様子で、レンは目を丸くした。「あれには、名前も何も書いてはいなかったが……」
「そこまで見たのに、何のポイントカードだったかは見なかったのね」
ミステリーで探偵が長々と講釈を垂れるのを、私はいつも煩わしく思ったものだ。さっさと結論を言えば良いのに、何でわざわざ他人の説を否定したり評価したりするのだろうかと。
だが――なるほど。
これは中々、気分が良い。
「注意力不足ね、ワトソン君? 手懸かりはいつだって目の前にあるのに、貴方は全く見てあげてない」
「解ったよ、先生」
降参、と両手を挙げながら、レンはため息を吐いた。「反省してます。だから、そのうっとうしい名探偵みたいな言動は止めてくれ」
「そうね――ここは誰の奢りだったかしら?」
「……僕だよ」
「次のビールは?」
「あぁ、あぁ。好きにしてくれ」
取引成立と、私は笑う。
レンは不貞腐れながらグラスを空にして、二人分の飲み物を頼んだ。
直ぐに出てきた飲み物を、レンは両手で抱え込んだ。
「さあ、聞かせてくれ。何故解ったんだ?」
「簡単よ。あれはディックモールのポイントカードだった」
かつてディック氏が、自ら漁に出て獲った魚を売るために立ち上げた商店は、今では全米に広がる一大スーパーマーケットに成長した。
几帳面な創設者のやり方は、五十年後の今にまで引き継がれている――全ての取引は記録されて、保管されているのだ。
ポイントカードと警察手帳があれば、簡単に、購入履歴を六ヶ月遡れるくらいに。
「被害者の主食はピーナッツバターに田舎風パン。それと――BB社のミネラルウォーター」
そう。
特筆すべき異常な履歴はそれだった。被害者はBB社のミネラルウォーターを、サイズ問わずとんでもない量買い占めていたのだ。
「頻度と量からいって、ダムを作ろうとしているんでなければ異常よ」
「……そして、全米の支店で同じような買い占めが起きていないかを調べたわけか」
「他の被害者の情報は、警察で調べられたわ。時期、それに支店の住所を照らし合わせると、ドンピシャ。ちょうど一致したって訳」
「……見事だ」
感嘆の声を漏らしながら、レンはジョッキを差し出した。
「一捜査員の権限で、この短時間にそこまで迫れるとはね……本当に、驚いた。スカウトしたくなるな」
「アンタの弟子なら御免よ、自称魔術師」
「もっと収入の良い仕事さ……とはいえ、
「レベル高いわね……」
そんなものに気軽に誘われても、困る。
憧れのニューヨーク市警になるためそれなりに勉強はしているが、多分、そんな程度では全く足りないのだろう。
「私は夢があるの、魔術師の弟子になってる暇はないわ」
「でも、給料は良いよ? ……このくらい」
「……っ!?」
夢が揺らぐような額面に、私は思わず噎せてしまった。
一、十、百、千……桁間違いとかでなく?
「さて、まあ君の将来はゆっくり後日語り合うとして」
「え? ……う、い――いや、私には……夢が……」
「目下の問題は、このミネラルウォーターだね……どれどれ、BB社の予定は……?」
端末を数秒操作して、ほお、とレンが妙な声を出した。
「……何なの?」
「絶好の機会、というやつだ。ツキ、明日と明後日は君、非番になるから」
「はあ?」
眉を寄せる私の前で、レンは携帯端末を耳に当てた。
「もしもし、クラムボン市警の署長さんだね?」
ぶっ、と口からなにかが吹き出した。
電話? 署長に? 何で、どうやって?
疑問符が私の頭の中をぐるぐると回る内に、通話は進んでいく。
「私はレン・ウスイ。SDS会の者だと言えば、話が通じるタイプの人かな? ……うん、結構。実は、そちらのツキ……えっと……ペーパー? 巡査をお借りしたいんだけど……ハーパーか、了解。ありがとう、感謝する。僕らに協力してほしいことがあれば何なりと言ってくれ。うん、では」
端末を離して、レンは微笑んだ。「これで交渉成立、と」
あっという間に、私の予定は抑えられたらしかった。
署長、怒ってないと良いけど。
「大丈夫、クビになったら僕が責任をもってあげるよ」
「……確かに、その額は魅力的だけど……私英語しか出来ないわよ?」
「大丈夫だよ」
レンは、笑みを浮かべて見せた。
見る者を安心させ、不安を解消し、反論を飲み込ませて説得するのに充分な、誠実で自信に満ちた笑顔だった。
「人手不足だからね、いつでも席は空いている……僕の弟子ならね」
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