ガチョウの卵を抱いて

「下手ですか」


 潰れた鼻から興奮したように息が漏れる。強烈な光を放つ両目の圧にも負け、小塚は諦めたように長い溜め息をついた。


「……下手だと思う」

「わかってます。それくらい」


 小塚が思っていたよりもずっと落ち着いた声で、少女は答えた。


「どうしてここで歌を?」


 なんだそんなことですか、と少女は呟き、まったく迷いのない口調で言い切った。


「私は歌手になりたいんです」

「え」


 そう返すしかなかった。あまりに非現実的で。

 カシュとは。小塚の知っている「歌手」なら、テレビやライブで歌っている、あの歌手だ。つい先日も夏の野外フェスが取り上げられていて、ロックバンドや歌姫のパフォーマンスに数万人が熱狂した、とテレビで見た。


「君が、歌手?」


 と言わざるを得なかった。

 小塚にもわかる。それがあまりに、そうあまりにも乖離した夢であると。きっと小塚ではなくても、そう言うだろう。

 もう一度、まじまじと少女を見る。値踏みするような眼差しを感じ取ったのだろう、少女はたちまち険しい顔になった。


「私が歌手を目指してはいけませんか?」

「いや、悪くいうつもりはないが」


 無理じゃないか? その一言は、いくら他人の人生とは言え無責任というものだろう。夢を見る権利は誰にだってある。小塚の小学生の夢は野球選手だった。

 だが、どこかで無理が生じる。現実に立ち返る時が来るのだ。自分には才能がない、もっと安定した仕事をするべきだ――さまざまな、夢を諦めるための無理が存在する。そして大概の人間は現実に帰っていく。夢は夢のまま、美しい卒業文集の思い出になる。


 きっと彼女も、それを知っているにちがいない。だってもう分別のつく年頃だ。

 だというのにこの揺るぎない態度は何だ。


「あなたの言いたいことはよくわかります。私は歌が下手で、世の中には私よりも上手い人がたくさんいる。そんなことはわかっています。けれど」


 少女の背中から、強いオレンジの夕日が差した。


「それがどうして、私が歌手を諦める理由になるんですか?」


 鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。だというのに目の前の光が一層強くなった気がした。

 目の前で夢を語る少女の、なんと青臭いことか。現実に立ち返れと諭すことは、夢を捨てた大人としてあまりに容易い。

 それをよしとしないだけの気概が、彼女にはあった。


「歌が好きです。だから歌で生きていきたい。そのためにレッスンもしてます、努力だってしています。もしかしたら才能や容姿といったものは私には欠けているのかもしれない。だからなんだっていうんですか」


 小塚が失笑するほどの歌声の持ち主は、真摯で強気な眼差しを一切崩さない。ただ朗々と、熱くその胸中を語った。


「テレビにでることがすべてじゃありません。地方中心に活動するアーティストもいます。歌が下手でも別の切り口から人気になる歌手もいます。世の中には腐るほどの歌手がいるんです。私一人が歌手を志しても、別に咎められることじゃないでしょう?」

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