さいわいなことり
有澤いつき
カナリアの夕暮れに
下手くそな歌だ。きっと誰もがそう思う。下手までは言わなくとも、上手いとは誰も思わないだろう。
男……小塚の帰宅ルートはおおよそ決まっている。朝が早い会社だから、夕方四時には退社できるようになっている。円形の軌道を描く鉄の箱に詰め込まれ、くたびれたスーツとともに吐き出される。巨大なターミナルビルを通過して乗り換え、今度はひたすら真っ直ぐ都と圏の境へと。ギリギリ東京都と呼べるベッドタウンが、小塚の自宅のある街である。
しかし、今日はとびきり疲れていた。出社と同時に厄介な案件を押し付けられ、理不尽な相手のクレーム対応。悪びれず納期を短縮してくるハゲ頭を叩き割りたい思いをぐっとこらえ、代わりに自分の頭を下げた。帰りの混雑した電車の雑談さえ煩わしく感じるほどだ。
信号待ちをしなくていいという理由から河川敷沿いを歩いて帰ることにしているのだが、小塚は今日も顔をしかめた。そして今日ばっかりは、こんな最悪な気分の時にここを通るんじゃなかったと後悔する。
毎週水曜と金曜、この河川敷には少女がいる。姿はまだ米粒ほどにしか捉えられないが、この歌声は間違いない。今日も少女はこの河川敷で歌を歌っているのだ。
「esta via tresmoto la……」
渋面をつくる。足を一歩、また一歩と自宅に近づけるほど、当然ながら少女との距離も近くなる。必然的にその歌声は大きさを増し、歌の輪郭を明確に浮き立たせていく。
下手くそだ。
音痴だと言いたいわけじゃない。でも音を外さなければ歌が上手いかと言われれば、そんなことはないだろう。
彼女の歌はのっぺりとしている。確かに声はそこそこでているし、河川敷でやるくらいだからよく遠くまで飛んでいる。小塚の耳にも百メートルくらいの距離から聞こえてきただろうか。でもそれは、上手いと呼ばれることではない。
たとえば音の抑揚。ずっと同じ強さで歌いつづけている。たとえば音の処理。最後の音までハッキリと発音しているし、ぶつ切りで余韻というものがない。
素人の小塚にもわかる。そんな専門的な知識がなくたって、この少女の歌は下手だ。地声でがなり散らしているだけの、小鳥のさえずりには程遠い……ガチョウのわめき声と同じだ。
「……何か?」
例の、下手な歌うたいの少女に声をかけられる。こんなことは初めてだ。
気づけば少女の近くまで来ていた。どうりでよくわからない異国の歌詞もやけに明瞭になってきたと思った。疲れきった顔を取り繕う余裕も、今日の小塚にはなかった。「ああ……」と気のない生返事をして、またとぼとぼと足を進めようとしたのだが。
「あなた、ここを通るたびに不愉快そうな顔しますよね。そういう顔で見られるの、とても気分が悪いんですけど」
言葉の意味を呑み込むまでに、少し時間が必要だった。随分と強い語気の、それこそさっきまで歌っていた歌声みたいに最後までハッキリとした言葉で。
そこで小塚は、初めて少女の顔を見た。
勝ち気そうな目をした少女だ。顔だけでいうのなら、お世辞にも美人とは言えない。歌と一緒でいまいちな顔立ちだ。声量の割には身体は小さく、潰れた鼻を鳴らす姿はコブタみたいだと思った。
そうか、俺は彼女に文句を言われたのかと、ようやく冴えない頭で理解する。普段なら大人の対応よろしく、社交辞令のひとつでも告げて悠々と帰るところなのだが、クレーム対応でくたびれた今日の小塚に、歌下手な少女に割く心の余裕がなかった。
「下手くそがよく言うよ」
言ってから、しまった、と思った。いくら回らない頭だからって、言っていいことといけないことがある。しかも相手は名も知らぬ女子高生だ。
小塚はすぐに血相を変え、謝罪しようとした。
「す、すまない! いくら疲れているとはいえ、心にもないことを……」
「私の歌、下手ですか」
しかし、少女の声は恐ろしいほど冷静だった。
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