ep.9 事情と予感

 先日ノアールに買ってもらった若草色のワンピースを着て鼻唄を歌いながらリリーは掃除をしている。ノアールはまだリビングに顔を出していない。


「おはよ。朝からご機嫌だな」

「あ、ノアール。おはよう!!はい、朝ご飯」


リリーはトーストした食パンを牛乳と共に並べる。蜂蜜の壺を置くことも忘れない。ついこの間までご飯は勝手に出てくるものだと思っていたリリーにご飯の作り方を教えることに苦労していたノアールはこうやって簡単なものとは言えど、「ご飯」がリリーによって作られるということに感動を覚えていた。


「ありがとう」


ノアールは寝癖のついた髪をくしゃくしょとかき混ぜながら席についた。


「あれからもう二週間か」


暦を見つめながら寝起き特有の掠れた声でノアールは言う。リリーはこの声が堪らなく好きだった。


「そろそろ次の家手配しないとだな」


食パンに齧りつくノアールをリリーは物言いたげな目で見つめながら、しかし何も言うことはなかった。今日はリリーが朝ご飯を用意したので、ノアールが食器洗い担当だった。リリーが食べ終わったお皿をノアールの元へ持っていくとたまたま振り返ったノアールとキスしそうな距離になった。驚いたリリーだったがノアールはなぜかその距離を保ったまま力強くリリーを見つめる。彼女はこのままではいけないと感じ、離れた。


「ノアール、あなたは私を欲しがってはいけないわ。それは自我を殺すことになるから」

「アイツらのことを言ってるなら俺は気にしない」

「……そうじゃない、そうじゃないのよ。例えこれが『彼ら』の願いで、私を苦しめるのだとしてもあなたはあなたでいて欲しい」


ノアールにはよくわからないことを繰り返すリリーに「俺のことが嫌いならそうと言えばいいのに」とごちると彼女はそうではない、と強く否定した。余計に混乱したノアールだったが、彼女はそれ以上何かを言うつもりもないらしく、自室へと戻った。


その日の夜のことだった。多少はぎくしゃくしているものの、いつものように「おやすみ」とそれぞれの部屋へと別れたのち、リリーは部屋についている大きな窓を静かに開けた。そして、誰もいないことを確認して部屋の外へと飛び出した。


彼女が走ってたどり着いた先は深緑の森。よく知った気配がそこにあることを感じ取ったが故の行動だった。リリーが感じた通り、そこには魔術師協会の一人が黒いローブに身を包み佇んでいた。その男は魔術師にしては珍しく、刃渡りが彼の身長ほどある剣を帯刀していた。


「姫」

「……」


暫く無言のまま足元の白いサンダルーーノアールに買ってもらったが今の時期には少し肌寒いーーを見つめていたリリーはふと顔を上げてその者の瞳、サファイア色の瞳を強い眼差しで射ぬいた。


「なぜ、私の居場所を分かっていながら捕まえないのです」

「その理由は姫が一番ご存知でしょう」


リリーは悔しそうに顔を歪めた。


「ノアールだってバカじゃありません。この前の訪問で町を特定されていると気づいた時点で次の手を考えているはずです。手遅れになる前に私を……!!」

「手遅れとはあなたが私達の手の届かぬところへ行くという意味ではないはずですよ」


彼女の顔はさらに歪む。美しい顔が台無しだ。


「姫、私はあなたが苦痛から早く解放されてほしいのです。私はあなたを深く愛し、あなたにだけ忠誠を捧げている騎士だ。私はよく知っています。今でも、今この瞬間でさえも『彼ら』はあなたを監視し、蝕んでいる。早くあの者を取り込めば『器』のあなたから彼らは離れていき、晴れて自由の身になれると」

「あのお方が仰られていた、そう言いたいのですね」

「はい」


リリーは悩ましげに睫毛を伏せた。サファイア色の瞳はただひたすらに女神のような容貌の少女を見つめていた。彼女の服装が白ではなく、若草色に変わっていることに眉をひそめていたが。


「……あのお方も残酷だわ。空っぽになった杯など最早必要なくなると仰ればいいものを」

「……といいますと?」

「いえ、別に。……ところで、なぜあのお方やあなたを含めた他の者たちが私のことを姫と呼ぶかご存知?」

「姫が魔術師協会の救世主であり、聖母だからとお聞きしておりますが」

「そうです。私が東洋でいうところの玉依姫だからですよ」


騎士は意味を図りかねるといった顔をしている。


「まあこのことは今はわからなくても良いです。きっと、あなたもそのうちわかるでしょう。私が発したすべての言葉に意味があったということを」

「姫の言葉にはいつも重みがあり、意味があります」


リリーはただただ騎士に微笑む。やがて、彼にくるりと背を向けて家の方向へと歩き出した。


「私にあの者を取り込んでほしいというのなら、その願いを叶えぬわけにはまいりませんね。『彼ら』はまず味方から欺こうと思っておいでのようでしたが、あのお方は簡単には騙されないらしい。すぐに意図に気づき、を泳がせているのですから」

「姫にわかっていただけて光栄です」


背後で騎士が丁寧に膝を折るのがわかった。リリーにとっては慇懃無礼でしかない騎士の態度も、彼からすれば本気だった。騎士はリリーを心から愛していた。主人として、神として、そして一人の女として。


「それでは、またお迎えに上がるときまで」

「ええ」


騎士が森の奥へと去っていく音が聞こえる。リリーはそれを聞き届けたあと小さく呟いた。


「私が無事に生きていればね」


彼女の声は闇夜に吸い込まれ、消えていった。


 翌日、二人はいつものように朝を過ごした。この日はジェイクから預かっている依頼をこなす仕事が入っており、二人は仕事に向けての準備をしていた。あれから実は何度か既に仕事をこなしている。


「今日は久々に妖精案件だな」

「初仕事以来ね」

「厄介なやつじゃなきゃいいんだけどな」


ノアールはブーツの紐を絞めながら言う。


「妖精は総じて厄介よ。特に……」


リリーは何かを良いかけたが言うのをやめた。靴紐に悪戦苦闘していたノアールは聞き逃していた。


「よし行くか」


完全に武装したノアールと若草色のワンピース一枚のリリー。そんな不釣り合いのコンビがここ最近では町一番の報酬取りだ。


妖精によって被害がもたらされているという現場は町外れにある橋の上だった。お昼前というのに、人通りが極端に少なく陰気な雰囲気をすぐに感じ取った。地元の者にその橋について尋ねると今でも借金等でにっちもさっちも行かなくなった親が子どもを売る際にこの橋で受け渡すのだと話した。その話を聞いてすぐにジェイクが言っていた被害に合点がいった。現在出ている被害は子どもが夜更けに出会った者に対して切りつけるというものだ。きっと売られた子どもの心の隙間に妖精が入り込み、人間を切りつけて楽しんでいるのだろう。


「ノアール、あなたは今回妖精と対峙しない方がいい気がする」

「何でだよ。俺は別に子どもじゃねえし、親に売られたことはない。第一、リリーが無詠唱で魔法を使えることは知ってるが、実戦で使ってるのを見たことがない。こんな危ないことリリーだけに任せられるかよ」


リリーは尚も言いたげだったが、ノアールを説得することを諦めたようだった。


「さて、今回は耐久戦だな。橋の近くで張り込める場所とか宿とか探すぞー」


ノアールはなんとなく嫌な予感を感じながらも敢えてそれに気がつかないふりをするのだった。

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