ep.7 憤怒と乾杯

 朝のひんやりした空気が二人の若者の頬を撫でる。リリーは瞼をふるりと震わせ、瞼の奥に隠されたエメラルドとアメジストが世界を写す。一方、ノアールはまだ仰向けになって眠っている。リリーは身体を起こすと欠伸と伸びを同時にしてから立ち上がった。


「ノアール、起きて」

「うーん……」


普段のノアールらしくない態度に思わずリリーの頬も緩む。


「ノアール、もう朝だよ」

「母……さん?」


ノアールがぼんやりとした眼のままリリーを見つめて呟く。リリーはぎょっとしたような顔をしてすぐにノアールの元を立ち去り湖の方へと向かった。そして手に酌んできた水をノアールの顔の上にぶちまけた。あまりの冷たさに微睡んでいたノアールも一気に覚醒する。


「ちょっ、リリー!?何するんだ!!」


ノアールは顔を腕で拭きながら怒っている。当のリリーはつんと澄ましており、ノアールが水を拭き終えるのを見届けるとすたすたと酒場を目指して歩き始めた。


「おい、置いてくなっての!!!」


慌てて立ち上がった彼は案外歩くのが速いリリーのあとを走って追いかけたのだった。


 ドンッという音共に並々注がれたビールが目の前に二つ置かれる。


「っつーわけで、リリーお嬢さんの初任務完遂にかんぱーい!!」


ジェイクの野太い声が酒場中に響き渡り、その場にいた男女の「かんぱーい!!」という盛り上がった声が返ってきた。


「いやー、お嬢さん本当に凄いよ。あれだけ皆の頭を悩ませてた問題をたった二日ほどで解決しちゃうんだぜ?」

「それほどでもないですし、結局妖精は取り逃がしましたけど、ありがとうございます」


にこにこと微笑むリリーは可憐だった。


「それに、若者も最近じゃあ昔話が怖くなってパーティーをあの湖周辺でやろうなんていうバカ野郎は減ったって話さ。亡霊がいたっていう噂も尾ひれがついてまわってるお蔭もあるけどな!!」


がははとジェイクは笑って、呼ばれた客席の方へと歩いていった。


「朝不機嫌だった時はどうしたものかと思ったが、機嫌が直ったみたいでよかった」


ノアールが心底ほっとした表情で言うものだから、リリーは思わず吹き出した。


「何がおかしい」

「別になんでもありません、ふふふ」

「笑ってんじゃねーか!!」

「笑ってませんーーー」


二人の押し問答が暫く続いたが、やがて飽きて昨日の憑依について話題が移り変わった。


「憑依されると瞳の色って変わるんだな」


ジョッキに写りこむ自分の瞳を見つめながらノアールは言う。リリーは睫毛を伏せながら答える。


「ええ、私はね。あなたは変わらないわ」

「え、あれはリリーだけに起こる現象なのか」

「そうよ」


どうして、と続けたかったがリリーのただならぬ雰囲気を感じて今聞くことをノアールは遠慮した。


「フィオナさんが私に憑依したとき、彼女の記憶が私の中に流れ込んできました。昔話、あれは大方当たっていますね。湖は彼女の涙で出来たわけではなく、自然に湧き出た水によって湖へと成長しただけのようですけど。よって、彼女は入水自殺です」

「火のない所に煙は立たぬってか」

「ええ」

「とにかく二人が長い年月を経たとしても再び巡りあえて良かったと俺は思うよ」

「同感です」

「ところで、憑依させるときに使ってた魔法、あれは何なんだ?」


彼女は少し戸惑った様子で目を泳がせたが、話す決心をしたようだった。


「古代魔法です。死者と通信する魔法」

「死者と……通信……そんな魔法が」

「ええ」


ノアールは少し考え込むような素振りを見せた後、すぐに何でもないと言っていつもの通り振る舞った。


「じゃあ、ジェイク。これで俺たちはお暇するわ」

「お、もう帰るのか。明日町長に証明書を提出して報酬を預かってくるから明日の午後にまた来てくれ」

「りょーかい、おやすみ」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


ノアールはジェイクに背を向けて片手を上げて闇の中へ消えていく。リリーはジェイクにペコリとお辞儀をして闇の中へと消えていった。


「ほんっと、あいつらの関係謎だわー」


ジェイクの呟きは酒場の喧騒に掻き消された。

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