ep.2 命名と提案
浮遊感がなくなり、魔方陣の淡い光が弾けた。少女が目を開けるとそこは見知らぬ小屋だった。少女からすれば何もかもが見知らぬものではあるが。
「動けるか?」
彼女が頷くと、男はそっと足元から彼女を降ろして立たせた。
「……魔力酔いしないんだな、珍しい」
男は独り言をボソッと呟いたかと思うと次の瞬間には独り言など呟いていなかったように振る舞った。
「ここは俺の仮宿だ。安心していい。お前を取って喰おうなんぞ思ってないからな」
慣れた手つきでお湯を沸かし、紅茶を淹れた。
「ここ、座れ」
男は自分が腰かけた斜め向かいの席をパンパンと叩き、彼女に座るように示した。少女は戸惑いながら言われた席に腰かけた。
「ほら、これでも飲みな」
男の口調には似合わないほど繊細なバラの模様が金で縁取られた青っぽいティーカップに、紅色に輝く液体が注がれた。湯気が立ったままのそれを彼女の方へと差し出す。少女は物珍しそうにその様子を見つめていた。
「紅茶、飲んだことないのか?」
手をつけない少女を不思議に思い男は問うが彼女はまだ困り顔のままだった。
「そういえば、名前は?俺はノアール」
よろしく、と言って差し出された手におずおずと少女は手を差し出し握手した。
「私は……」
少女が名前を名乗ろうと思い懸命に思い出そうとするが、何も思い出せなかった。名前を呼ばれた記憶がないからだ。ただいつも「姫」とだけ呼ばれていた。
「私には名前がありません」
男は別に驚いた様子も見せずに、口をつけていたティーカップをティーソーサーの上に置いた。
「じゃあ俺が名付けてもいいか?」
ノアールは少女の目を真摯に見つめた。彼女は彼に邪心がないことを察したようだ。小さくお願いしますと言った。
「お前は白くて美しいからリリーにしよう。気に入ってくれるか?」
リリー。少女は口の中でその言葉を反芻した。実際に見たことはないが本で見たことがある。凛と咲く様子が美しい白い花だと少女は思った。
「とても気に入りました。ありがとう、ノアール」
アメジスト色の瞳を細めてふと優しく微笑むノアールにぼうっと惚けていたリリーは彼の声によって現実に引き戻された。
「ところで、踏み入ったことを聞くようだが、なぜアイツらに追われてたんだ?」
彼はふとリリーの足を見やり痛ましげに顔を歪めたあと、彼女の足元に膝をついた。そして片足ずつその両手で優しく包み込むと柔らかな光がその手から溢れ出した。すると、アドレナリンの効果が切れてズキズキと痛み出していた足がすっと元通りに戻った。治癒魔法でノアールが治したようだ。
「『部屋』の生活が嫌になって逃げ出したら彼らが追いかけて来たんです」
猫のしっぽを踏んだら引っ掻いてきた、みたいな軽いノリで話すリリーに呆れ顔のノアール。
「そらそうだろ。どういう事情で部屋に囲われてたのかは知らんが、アイツらは目的のためなら手段を選ばないえげつねーやつらだ」
「よくわかってんだよ、俺は」と握りしめた右拳に目を落として怒りをおさめるように目を瞑った。
「とりあえず、俺はアイツらに恨みがある。そんでもってお前はアイツらから逃げたい。俺にしてみればアイツらの大切らしいお姫様を懐に抱えておくのは悪いことじゃない。だから、リリー」
一旦そこで言葉を切ったノアールは大きすぎず、小さすぎず、でもしっかりと聞こえる声で言った。
「俺に拐われないか?」
ノアールの夜をも吸い込んでしまいそうな瞳がリリーをじっと見つめる。リリーの元々大きな瞳がさらに大きく開かれた瞬間だった。
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