未来を変えたかった少年と、未来の消えた少女。

二方 奎

初回・最終話

 気温が三十七度を超えたその日の夜、九時を回ったころ。自室で寝転がる神川宗太のスマホが音を立てた。しかし宗太はお気に入りの小説に没頭していて、耳元数センチの距離にあるスマホの音は届かなかった。しばらくして、スマホの音は途絶えてしまう。

 それでも、それから一秒と経たないうちに再度音を立てた。

「いてっ」

 そんなスマホの頑張りが伝わったのか、宗太は本を顔の上へ落とした。一瞬没頭から抜け出した宗太は耳元に片手を伸ばしながら、スマホを捕まえる。

「もしもし?」

 就寝前の楽しい時間を奪われたことに少々の苛立ちを覚えながら、宗太は電話に出た。

『あっ、もしもし? そーた?』

 電話口からは少し幼さがありながらも聞き心地のよい、少女の声が聞こえてきた。宗太は体を起こし、ベッドの縁に座る。

「どうした、こんな時間に?」

『う、うん。どうしてもちょっと、話したいことができてね』

「それはいいが、この時間はいつも日記を付けている時間だろ? 俺だって本を読んでる時間だって、お前知ってるよな?」

『そ、そうだけど! どうしても、今日じゃなきゃダメなの!』

 声の調子だけで、電話の向こうにいる相手がどのような行動をとっているのか、宗太には分かった。きっといまは両足をバタバタさせながら、少し頬を膨らませている。情景を思い浮かべられるほど、いま繋がっている相手は近い。

「わかったよ、ちょっと待ってろ。すぐ行ってやるから」

『うん、待ってる』

 通話を終え、宗太は立ち上がった。そして首に巻いたタオルで短くて黒い髪を適当に拭いてから、紺色のパジャマ姿のままで家を出た。

 神奈川県横浜市にある、横浜駅。その西口バス乗り場から三十分ほどバスに揺られたところにある七階建てマンションの四四三号室に、宗太は住んでいる。ドアを開けた宗太は一度大きく伸びをしてから右を向き、呼び出した少女の家を目指す。

 着いた。

 十歩。宗太の住んでいる部屋の隣、四四四号室。宗太は自分の家と同じ形をした黒色のドアを叩く。瞬間、家の中からスリッパのぱたぱたという音が聞こえてきたかと思うと、開いた。

「いらっしゃい、そーた」

 出迎えたのは宗太よりも頭一つ半小さな、身長153センチの少女――桃川モモ。宗太と同じ黒色の髪はふわっとカールして、肩のあたりにかかっている。またその艶やかな黒髪が映える白い肌には一つの傷もない。

 フード付きのペンギンパジャマを纏ったモモはつぶらな瞳で宗太の姿をしっかりと捉えてから、宗太を中へと招き入れた。宗太はサメをモチーフにしたサンダルを脱いでから、モモの後ろを付いて行く。リビングでモモの両親に「夜分にすみません」と一言謝罪をしてから、モモが入った部屋へと向かい、続いて入った。

「はいはい、好きなほう使って」

 六畳ほどの部屋で、モモは桃色と紺色のクッションを示しながら、桃色のクッションを抱えた。

「選択肢を提示しながら片方の選択肢を消すって、俺以外にはやるんじゃないぞ?」

「ん?」

 わかっていないという顔をするモモ。宗太はすぐに諦め、紺色のクッションを抱えた。

「それで用件は? こんな時間に呼び出しておいてなにもないとかだったら怒るぞ?」

「ちゃんとあるよ! 大事な話なの!」

 細めた目でモモを見る宗太。そんな宗太と視線を合わせないようにするためか、モモはクッションに顎を埋めて、少しだけ目を伏せた。

「……あのさ、そーた」

 モモは白色の絨毯を見つめながら、小さな声を発した。

「もしもの話、なんだけどさ」

 宗太は細めた目をしっかり開いて、モモの言葉の続きを待つ。

「もし、モモがそーたのこと好きだよって言ったら、そーたは困る?」

「別に困らねえと思うぞ? 好きでいられても困らないし」

「じゃあ、さ――いまギュってしてって頼んだら、モモのことギュってしてくれる?」

「モモ、どうしたんだ? なんで急にそんなこと」

「……答えて」

 モモは顔をあげないまま、いまにも消えてしまいそうな小さな呼吸を繰り返す。

「それは……できない」

 宗太は自分の気持ちを偽りなく伝えた。三歳のころから高校二年生の現在に至るまで、ずっとお隣さん、幼馴染という関係を保ってきた。そんなモモはいつも宗太のことを好きだと言い、そのたびに宗太はからかうんじゃねえと反発してきた。

 それでも、今日のモモはいつものモモと違って見えた。だからこそ宗太は、モモが壊れてしまう前に、いつものモモに戻そうと考えた。幸い、翌日は夏休み明け最初の登校日になっている。だからこそ、一緒に学校に行く約束だけして、今日はこの場を離れようと決めた。

「とりあえず、今日はこれで帰るからな。明日、また一緒に学校行こう。な?」

 宗太はクッションを置き、立ち上がった。

「……ねえ、そーた」

 宗太が部屋を出ようとしたところで、モモの声が宗太の足を止める。

 モモは顔をしっかりと上げ、まっすぐに宗太を見てから――満面の笑みを浮かべた。

「ごめんね、急に変なこと言って。宿題頑張ったから、甘えたくなっちゃっただけなんだ。明日の朝、また会おうね。おやすみ!」

 モモは立ち上がって、宗太の背中を押した。突然のことに宗太の足取りはおぼつかなかったが、それでもモモの部屋をなんとか出ることができた。そして、モモの部屋のドアが閉まる。

「おじゃましました」

 モモの両親に一礼してから、宗太は自宅へと戻った。


 翌日も、気温がとても高かった。宗太は真っ白なワイシャツの首元を右手で掴み、空いている左手に持ったうちわで肌と服の間に風を送り込む。

いつもモモと待ち合わせをしている自宅の前。しかし夏休み前と同じ八時になっても、モモは現れない。モモの両親は毎朝六時ちょうどに仕事へと向かってしまう。仮にモモが寝ているとすれば、遅刻は免れない。

「こういうときに限って寝坊助するの、本当にやめてくれよな」

 宗太はスクールバッグをその場に置いてから、モモの家の前に立った。インターホンを押す。だが、帰ってくるのは無音だけだった。

「ったく」

 宗太はあまりよくないこととわかっていながら、モモの母親からもしものときは使ってと預かっている合鍵を、鍵穴に差し込んだ。

 ドアを開き、靴を脱ぐ。そして昨日と同じ経路をたどっていく。

「ほら、ママさん朝ごはんの支度してくれてるじゃんか」

 リビングのテーブルに置かれたメモを見て、宗太はため息を漏らす。メモにはしっかりと、モモの大好物である桃のシロップ漬けをたくさん入れたヨーグルトが冷蔵庫に入っている旨が書かれていた。

「ここまでしてもらって」

 恵まれているんだぞと思いながら、宗太はモモの部屋の前に立った。一応ノックをしてみる。反応は、やはりない。再び溜め息を漏らしてから、宗太はドアをゆっくりと開けた。

 モモは薄い掛け布団をお腹に載せた状態で、横になっていた。頭から足の先まで一直線に伸ばし、両手は掛け布団の上。そんなきれいな寝相のモモの肩を、宗太は二度叩いた。

「おい、モモ。もう朝だぞ」

 しかし、モモは起きなかった。宗太はもう一度、肩を叩こうとする。しかし、モモの左手近くにある一冊のノートが視界に入ったことで、宗太の手は肩ではなくノートのほうへ向かった。

 表紙に『まいにちのにっき』と書かれた、紺色のノート。宗太はノートを手に取り、ベッドの縁に寄り掛かってから、一ページずつ捲った。そこには日付とその日あった楽しかったことが長文で書かれている。

 しばらく微笑ましく日記を読んでいた宗太。しかし昨日のページを開いたところで、表情から笑顔は消え、目つきは真剣になった。

 一行目。そこには、『自分の明日が見えるって言ったら、そーたは笑うのかな?』と書いてあった。宗太には一瞬、その一文の言っている意味が分からなかった。

「自分の明日が見えるなんて言われても、はいそうですかとはならないだろ、普通」

 小さく的確な言葉を挟んでから、二行目に視線を移す。

『思春期症候群? っていうやつなんだよって言ったら、もっと笑われるかな?』

そう書かれている。それが、宗太にとっては衝撃的だった。

 思春期症候群。

 宗太でも、名前くらいは知っている。現実ではありえないようなことが実際に起こる、オカルトじみた不思議な現象。その現象に誰かが付けた名前、それが――思春期症候群。

 小説や漫画のなかでは大いにあり得そうなそれが現実に起こると思っている人は、まずいない。宗太もそうだ。だからこそ、モモの日記に思春期症候群という言葉が出てきたこと自体が驚きに値する。その驚きを失わないまま三行目。

『いつも日記を書く前に見てた。だから明日テストがあるとか、午後から雨が降るとかわかってたんだ。なんだか魔法使いみたいだよね』

 丸っこい文字が楽しそうに並んでいるその行を、宗太は険しい目つきで見る。

 心当たりはあった。「朝から小テストがある気がするんだよね」や、「あと五分くらいしたら、雨が降るんじゃないかなあ」など、なぜこいつはわかるんだろうと思わせる言動が、宗太の記憶のなかにも、確かに存在する。

 そして、四行目。

『今日、明日はどんな楽しいことがあるかなって思って見てみたんだ。そしたらね――』

 そこまで目を通してから、宗太は日記を投げ捨てた。そしてすぐにベッドに上がり、モモの体を強く揺する。

「おいっ! モモ! しっかりしろ! おいっ!」

 投げ捨てた日記は壁にあたり、床に落ちる。開いているページの最後の一文。



『もう、目が開かなかった』



「おいっ! モモ! 起きろよ! おいっ! いつまでも寝てるなよ!」

 宗太はいままで出したこともないような大声を、モモの耳元で何度も発する。それでもモモの目は開かない。続けて体を強く揺する、肩を叩く。それでもモモの目は開かない。

「全部! わかっててあんなこと言ったのかよ! 俺がモモの頼みを断るってわかってたのに! それでもお前は、俺を呼んだのかよ! こうなることがわかってたから!」

 荒れた息遣いだけが、モモの部屋に響き渡る。

揺するのをやめた。叩くのをやめた。声をかけるのをやめた。

 宗太は目の前で顔色一つ変えないモモを、憎むような眼で見る。

「なんで、あのときギュってしてやらなかったんだろうな」

 自分が決めたことだとわかっていながらも、宗太はそう問いかけずにはいられなかった。

「もしあのときギュってしてやってたら、今日は元気に目が覚めたのかもな」

 力の抜けた声で、宗太は言った。それでも、モモの目は開かない。

「あのときをもしやり直せたら、俺はどうするんだろうな」

 できるはずがないことを、願った。

 宗太はモモの両肩に手を掛けて、ゆっくりと小さな体を起こす。力が抜けてぶらぶらとしている首から上を自分の肩に預け、両手を背中に回した。

「こうしてやるだけで、よかったのにな」

 冷たい肌の感触を、モモの頬から自分の頬へ受け取る。

「こんなに冷たくなって、いつも元気で熱々なモモはどこ行ったんだろうな」

 優しく問いかけるように、宗太は言う。

「こんなことなら、ちゃんと言っておけばよかったな」

 宗太はモモを抱く腕の力を少しだけ強めた。

「モモが俺のことを好きでいてくれたように、俺もずっとモモのことが好きだったんだ」

 出会ったころからいまに至るまで、その気持ちが揺れたことはない。ただ恥ずかしくて、自分にずっと好きだと言ってくれるモモが少し恨めしくて、いままでは言葉にできなかった。

「俺に、好きって言葉で人を救える力でもあればいいのにな」

 後悔がいま、大波となって宗太自身を飲み込んでいく。自然と、宗太の瞳には涙が溜まっていた。その涙を零さないように体を少し放してから、互いの額をくっ付けた。

「ずっと、好きだったんだぜ? モモのこと。きっと……誰よりも」

 いつも以上に近い距離で、遅くなった告白をした。それでも、モモの目は開かなかった。

 宗太は再びモモの体を優しく抱きしめてから、揃って横になった。

 閑散とした部屋の中は、一人の少女の楽しさと嬉しさと、愛おしさと悲しさと、そして寂しさが充満している。そして同時に、一人の少年の楽しさと嬉しさ、愛おしさと悲しさ、そして寂しさと後悔が、充満した少女の感情に寄り添っていた。

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未来を変えたかった少年と、未来の消えた少女。 二方 奎 @hutakata

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