第127話 悪夢
時は遡る。
その日、菱谷の前に一体の魔物が現れた。
魔物は少女の姿をしており、胸元が開いた黒い服を着ている。頭にはヤギのような二本の角、背中には蝙蝠のような黒く大きな羽を生やしていた。
「よく、私の前に姿を出せたな」
魔物に対し、菱谷は凄まじい殺気を向ける。
「今すぐ殺してやりたいが、その前に……『私の質問に正直に答えろ』」
菱谷は魔物の少女に『言霊の魔法』を発動した。
「先輩は今、何処に居る?」
「アンドウは……」
魔物の少女は答える。
「ケーブ国に居るわ。吸血鬼が支配している大森林よ」
「吸血鬼?」
「お願い、アンドウを助けて!」
リーム・メキセイ・ムメイは菱谷に向かって祈るように両手を組み、頭を下げた。
***
リームは寝ている人間の夢の中に侵入し、相手の精気を吸う『夢魔』と呼ばれる魔物だ。
男性型の夢魔を『インキュバス』女性型の夢魔を『サキュバス』と呼ぶ。
夢魔は自分の分身である精神体を創り、それを相手の夢の中に送り込む。精神体は魔力により本体と繋がっているため、精神体を通じて本体は獲物の精気を得る事が出来る。
リームは元々ケーブ国の大森林で、仲間の夢魔と共に平和に暮らしていた。
そんなある日、吸血鬼クロバラの封印が解かれる。
強大な力で大森林を支配したクロバラは夢魔達を捕らえると、彼らを二つのグループに分けた。
一方のグループには人質として大森林に残るように命じ、もう一つのグループには、『静かで優しい愛』を持つ人間を連れて来るように命じた。
その際、吸血鬼クロバラは『静かで優しい愛』を持つ人間を連れて来る事が出来た夢魔とその家族は自由にする。と約束した。
『静かで優しい愛』を持つ人間を連れて来るように命じられたグループの夢魔達は自分の家族を救うため、各地へ散らばる。
しかし、リームは恐怖のあまりそのまま逃げだしてしまった。
彼女は怖かった。
仮に吸血鬼の言う人間を連れて来る事が出来たとしても、吸血鬼が約束を守る保証はない。下手をすれば、用済みとばかりに殺されてしまう可能性だってある。
そう考えてしまったリームは、遠くへ逃げた。
だが逃げた先で、今度は人間に捕まってしまう。
サキュバスを捕まえるように命じたのは『協会の聖女』。
『聖女』には懸想している相手が居た。『聖女』はその相手を誘惑するためにサキュバスの血肉を材料とする『サキュバスのキャンドル』を欲していたのだ。
捕まってからの日々は、まさしく地獄。
毎日のように、リームは血肉を取られ続けた。
苦痛と恐怖の中、リームは自分の身に降り掛かっている事は全て、家族を見捨てて逃げた自分への罰だと考えるようになる。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
もしかしたら今頃、家族は自分と同じ酷い目に遭っているかもしれない。
自分が助けに戻って来るのを待っているかもしれない。
それなのに私は……。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
苦痛と恐怖。そして、家族への罪悪感でリームは毎晩泣いた。
転機が訪れたのは、それから少し経ってからだった。
偶然、リームは『聖女』が懸想している相手の夢に入る事に成功したのだ。
『聖女』が懸想している相手の名前は、安藤優斗。異世界の人間だった。
安藤の夢に入ったリームは、彼に『誘惑の魔法』を掛け、自分に惚れさせる。
そして、『誘惑の魔法』に掛った安藤を利用し、リームは逃げ出す事に成功した(その場には『聖女』だけではなく、『大魔法使い』と『魔女』も居たが、リームは彼女達からも逃げる事に成功する)。
リームは安藤と共に、テレポートでケーブ国の大森林に跳んだ。
そして、そのまま安藤を吸血鬼の部下に引き渡す。
とても短い時間であったが、安藤と過ごし、リームは彼こそが吸血鬼の求めている人間ではないかと直感した。
その考えは正しかった。安藤は吸血鬼が望む人間だった。
吸血鬼は約束通り、『静かで優しい愛』を持つ人間を連れて来たリームとその家族を解放し、自由にする。
自分の家族を無事に助けられたリーム。だが同時に、彼女は安藤を犠牲にした事に強い罪悪感を覚えた。
家族を助けた事を後悔はしていない。しかし、吸血鬼に捕まった安藤は酷い扱いを受けている。その事を、とても申し訳なく思う。
リームはもう一度、安藤の夢の中に入った。
現実が苦痛ならば、せめて良い夢を見させてあげよう。快楽にまみれた甘い夢を。
その後、安藤はきっと『よくも自分をこんな目に遭わせたな!』と私を責めるだろう。その言葉は甘んじて受け入れる。
安藤には、私を責める権利があるのだから。
だが、安藤はリームを全く責めなかった。それどころか、安藤はリームの家族が無事だった事を心から喜んだ。
こんな人間を見るのは初めてだった。いくら何でもお人好し過ぎる。
驚くと同時にリームは決意した。
このお人好しを必ず助けようと。
リームは別れ際、安藤に言った。
「私は必ず貴方を助けて見せる!」
それからリームはずっと考えた。安藤を助ける方法を。
そして、その方法を思いつく。
吸血鬼と夢魔の間には圧倒的な力の差がある。とても自分だけでは安藤を救えない。
ならば、『吸血鬼に匹敵する力を持ち、安藤を愛する者』に助けてもらえば良い。そう考えたのだ。
奇しくもそれは、カール・ユニグスが考えた方法と同じだった。
リームとカールが違っていたのは、助けを求めた相手。
カールは三島由香里に助けを求め、リームは菱谷忍寄に助けを求めた。
***
『いくつか質問をする。全て正直に答えろ』
菱谷は『言霊の魔法』をリームに発動する。
「先輩は無事か?」
リームは答える。
「無事よ。だけど、働かされたり、檻の中で酷い目に遭ったりしていたわ。吸血鬼にも血を吸われたし……」
「―――ッ!」
吸血鬼に凄まじい殺意を抱いた菱谷は、強く歯を食いしばる。
「先輩がどんな様子だったか全て話せ」
「アンドウは……」
夢の中に入った時、リームは安藤の記憶を見ている。大森林での安藤の様子を、リームは事細かに話した。
安藤の『特殊能力』についても、リームは菱谷に伝える。
「『自分を好きになる者を引き寄せる特殊能力』か……三島由香里に『聖女』。道理でうるさいハエ共が先輩に群がるわけだ」
菱谷は怒りの表情を浮かべる。
「それに加えて吸血鬼、アイビー・フラワー、ハナビシ・フルール……先輩という光に引き寄せられた新しい害虫が三匹も……」
怒りの表情から一転、菱谷は目を潤ませる。
「可愛そうな先輩。でも、安心してください。先輩に群がる害虫どもは全部私が駆除しますから……」
菱谷はリームを見る。
「次は、吸血鬼についてだ。吸血鬼について知っている事を全て話せ」
「吸血鬼は……」
リームは、自分が知っている吸血鬼の情報を全て菱谷に話した。
安藤と吸血鬼の情報を得た菱谷は、次の質問に移る。
「お前は何故、私の所に来た?三島由香里でも『聖女』でもなく、私を選んだのは何故だ?」
「……『聖女』にはどうしても頼みたくなかった」
リームは歯を強く食いしばる。
「吸血鬼はずっと昔、今の『聖女』の先祖に封印された。本当なら、『聖女』に頼むのが一番良かったと思う。だけど、どうしても『聖女』だけには頼みたくなかった。私は『聖女』に苦しめられたから……」
菱谷は無表情でリームに問う。
「三島由香里ではなく、私の所に来たのは?」
「貴方は『言霊の魔法』を使える。吸血鬼は不死身。殺す事は出来ない。でも、殺せなくとも吸血鬼を操る事さえ出来れば、安藤を助けられる。そう思ったから貴方を選んだの」
「……先輩が吸血鬼の所に居る事を、三島由香里にも話すか?」
「そのつもりはないわ」
リームは首を横に振る。
「『大魔法使い』と貴方が出会えばきっと殺し合いになる。それで共倒れになったら安藤を助けられない」
でも……。とリームは呟く。
「もしかしたら、カール・ユニグスが『大魔法使い』の元に向かっているかもしれない」
「カール・ユニグス……『特殊能力』の事を先輩に教えた男だな。そいつが三島由香里の所に向かっているとは、どういう事だ?」
「私は貴方が何処にいるのか知るために、色んな人間の夢の中を渡って情報を集めた。その時に知ったの。カール・ユニグスが『大魔法使い』を探しているって」
リームが安藤を助けようと菱谷を探し始めた後、カール・ユニグスは解放された。
有能な商人だったカールは、その人脈を使い三島を探していた。
「ひょっとしたら、カール・ユニグスは私と同じ事を考えているのかもしれない。アンドウを助けるために、『大魔法使い』の元へと向かったのかも……」
「………」
菱谷は少し考える。
「お前の存在をカール・ユニグスは知っているんだったな?」
「うん。アンドウが話したから知っているよ。だけど、私が貴方を探していたのは知らない」
「そうか……」
菱谷は唇の端を歪める。
(もし、カール・ユニグスが先輩を助けようとして三島由香里を探しているとする。カール・ユニグスと接触し、先輩の情報を聞き出した三島由香里はその後どうするか?きっと、三島由香里は私や『聖女』に情報が漏れないようカール・ユニグスを口封じに殺すだろう。カール・ユニグスを殺した三島由香里は、自分だけが先輩の情報を掴んでいると思い込むはず)
これは菱谷にとって、大きなアドバンテージだ。
「さて、では最後の質問だ」
凄まじい魔力が菱谷の手に集中する。
「お前は私に全て話した後、殺されるとは思わなかったか?」
菱谷は虫を見る様な視線をリームに向ける。
「先輩を連れ去ったお前を私が許すとでも?先輩の情報を私に伝えれば助かるとでも思ったか?」
「……思ってないわ」
リームは首を横に振る。
「貴方が私を許すはずなんて絶対に無いと思っていた。それくらい分かる」
額から汗を流しながらもリームは笑う。
「だけど、私は死ぬつもりは無い」
「逃げられると思うのか?【ノイズ】」
菱谷はテレポート妨害魔法【ノイズ】を発動する。
周囲の空間にノイズを発生させる魔法。これにより、テレポートを使おうとする際に行わなければならない座標の計算を、妨害することが出来る。
菱谷や三島、ホーリーのように、【ノイズ】による妨害すらも座標の計算に組み込みテレポートが出来る者に対しては、効果はない。
しかし、リームならば【ノイズ】によりテレポートを妨害する事が出来る。
「あの時、お前が逃げられたのは先輩を利用したからだ。先輩が居ない今、お前は逃げられないぞ?」
「私は死なないわ」
「……そうか」
菱谷は軽く息を吸い、『言霊の魔法』を使う。
「『死ね』」
これでリームは自分で自分を殺すはず。しかし、リームは死ななかった。
「残念だったね」
リームはフッと笑う。
「なるほど……」
菱谷は周囲を見渡した。
「此処は夢の中か」
「そうよ。此処は貴方の夢の中。現実の貴方は今、ぐっすり眠っている」
菱谷は手のひらをリームに向けた。炎がリームを包む。
「無駄よ」
業火に包まれながらも、リームは無傷だった。
「此処は貴方の夢の中だけど、今は私の支配下にある。夢の中の私に魔法は効かない」
「今までは『言霊の魔法』による支配を受けていたフリをしていたというわけか……」
「そういう事。でも、安心して。貴方を傷付けるつもりは無い。それに、さっき教えた情報は全部本当よ」
「お前の本体は近くに居るのか?」
「さぁ?」
リームの姿が徐々に消え始める。
「あと数時間で貴方は目を覚ます。その時、貴方は『話の内容』は記憶しているけど、『誰と話したのか』は忘れている。アンドウと吸血鬼の情報は覚えているけど、それを教えたのが私だという事は覚えていない」
リームは菱谷だけ夢の中に残して現実に逃げる気でいる。テレポート妨害魔法【ノイズ】では、現実に戻るリームを阻止出来ない。
菱谷が目を覚ますのは数時間後。たとえリームの本体が菱谷の近くに居たとしても、数時間もあれば遠くに逃げられる。
しかも、目を覚ませば菱谷はリームと話した事を忘れてしまう。
「伝える事は全部伝えたわ。必ず……必ずアンドウを助けてね」
リームの姿はほとんど透明になっている。あと数秒で完全に消えるだろう。
「……勿論だ。先輩は必ず助ける。だけど、その前にしなくてはいけない事がある」
「しなくてはいけない事?」
「ああ」
菱谷は軽く手を振った。
「お前を殺す」
「きゃっ!」
悲鳴を上げ、リームは倒れた。
リームは自分の体を見る。消えかけていた体が元通りハッキリ見えるようになっていた。
「な、何?一体、何が……」
目を見開くリームに、菱谷は手のひらを向ける。
すると、何もない空間に突如として四本の黒い槍が出現した。
四本の黒い槍は、まるで昆虫の標本を作る際に使われる昆虫針のように、リームの手足を貫き床に固定した。
「あああっ!」
激痛がリームの体を走る。リームは激しく混乱した。
「痛い、痛い、痛い……なんで?どうして?この夢はまだ私の支配下に……」
「違う」
菱谷はリームの言葉を否定する。
「さっきまでは、確かにお前が私の夢を支配していた。だが、今は違う。今、この夢は私の支配下にある」
「―――ッ!そ、そんな!どうやって?」
「夢魔に対抗するために創った新魔法を、寝る前に自分の体に掛けていただけだ」
『ドリーム・ドミネーション』
菱谷が夢魔に対抗するために創り出した新魔法。
寝る前にこの魔法を自分に掛けておけば、好きなタイミングで他者に支配された夢を自分の支配下に戻す事が出来る。
「ここしばらく、私は先輩を見付ける事とお前を殺す事だけを考えていた。お前を逃がさないために、あらゆる事態を想定したよ。当然、お前が私の夢の中に入って来る事も想定していた。だから、それに対抗する魔法を創っただけだ」
「―――ッッッッッ!!!」
リームは言葉を失う。
確かに夢魔を相手にしようというのなら、夢の中に入られる事態は予想して然るべきだろう。
しかし、だからと言って夢魔が支配した夢を、さらに支配する魔法など、創り出そうとして創れるものではない。
ましてや、こんな短期間に……。
「じゃあ、貴方は最初から此処が夢の中だと自覚して……」
「私に気付かれているとも知らず、『言霊の魔法』に掛ったフリをしているお前は実に滑稽だったよ」
リームは『言霊の魔法』に掛ったフリをしていたが、菱谷は此処が夢の中であると気付かないフリをしていた。
(……ば、化物!)
安藤の夢の中で、リームは菱谷の記憶を見た。それで菱谷を理解したつもりだった。
しかし、リームの目の前に居る『魔女』は、想像を遥かに超える怪物だった。
「くっ!」
リームは菱谷の夢から脱出しようと試みる。
しかし、リームの精神体は夢の中から出られない。
「無駄だ。言っただろう?此処はもう私の世界。私が許可しない限り、お前は夢の中から出られない」
リームの手足に突き刺さった黒い槍がまるでドリルのように回転した。黒い槍が容赦なく、リームの肉をえぐる。
「あああああっ!痛い!やめてぇええ!」
「夢魔について、私は徹底的に調べたよ」
泣き叫ぶリームを前に、菱谷は淡々と話す。
「夢魔は自分の精神体を人間の夢の中に送り込み、相手の精気を吸う。精神体は本体と魔力で繋がっているから、此処で受けたダメージは全て本体へ向かう。つまり、
「―――ッ!」
「もし此処が現実だったなら、私は今すぐに先輩の所に行かなくてはならなかった。お前を拷問する暇は無かっただろう。だが、此処は私の支配する夢の中。時間は好きなように操作出来る。お前を拷問する時間もたっぷりあるというわけだ」
菱谷は邪悪な笑みを浮かべる。
「ありがとう。私の悪夢の中に入って来てくれて」
「ヒッ……!や、やめて!」
リームは涙を流し、恐怖に顔を引き攣らせる。
「し、死にたくない!やめて……お願い、許して……お願い……いや……いや……いや、いやああああああああああああああ!」
涙を流しながら、命乞いをするリームに菱谷は冷たく言い放つ。
「私から先輩を奪った罰だ。存分に償なわせてやる」
*****
夢の中で一週間、現実世界で数秒後。
菱谷は目を覚ました。
その近くには、無惨な姿で息絶えたサキュバスの死体がある。
血まみれで傷だらけの死体に、可憐なリームの面影はどこにも残っていない。
菱谷はリームの死体から顔を背けた。
頭の中には、もう安藤しか居ない。
菱谷は明るく微笑む。
「待っていてください先輩!もうすぐ私と会えますよ!」
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