第84話 トロッコ問題
「じゃあ、『はずれ』を引いたのは誰かな?手を上げて」
安藤は「はずれ」と書いてある紙をゆっくり上げた。
「……俺です」
「君か」
吸血鬼は安藤の手から紙を取る
「うん。確かに『はずれ』と書いてあるね」
「……」
安藤は、静かに目を閉じる。
これで終わり……なのか?
俺は、此処で死ぬのか?
怖い。怖い。怖い。全身が恐怖で震える。
心臓の音がうるさい。頭の中が白くなっていく。
この場から逃げ出したい。
だが、部屋の中には沢山の魔物が居る。出入り口も魔物達に塞がれている。
此処から逃げ出すことは決して出来ないだろう。
それにもし、逃げ出そうとすれば吸血鬼は怒り、『当たり』を引いた他の六人も殺してしまうかもしれない。
それだけは駄目だ。
どんなに怖かろうとも、助かった人達の命まで危険に晒しては絶対にダメだ。
『気を付けてな兄ちゃん。何かあれば、まず自分の命を第一に考えろよ』
カールはそう言ってくれた。だが、その約束を守ることは出来そうにない。
(すみません。カールさん……)
安藤は心の中で謝罪した。
吸血鬼は、ゆっくり安藤に手を伸ばす。そして……。
「おめでとう」
「えっ?」
安藤は思わず目を開けた。
吸血鬼は、ニコニコと笑っている。
「おめでとう。君は、助かったよ」
「えっ……えっ?」
困惑する安藤。
吸血鬼は、『当たり』を引いた他の六人に目を向ける。
「そして君達は、残念でした」
『当たり』を引いた六人に、吸血鬼は淡々とした口調で言った。
「君達は、今から僕のエサだ!」
***
「なっ!?」
「そんな!」
『当たり』を引いた者達が騒ぎ出す。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
「引いた紙に『当たり』が書いてあれば、助かるんじゃ……」
「えっ?誰もそんなこと言ってないよ?」
吸血鬼は嗤う。
「『当たり』を引けば助かる。『はずれ』なら助からない。僕はそんな事、一言も言っていないよ?」
「―――ッッ!!」
吸血鬼は、こう言った。
『このゲームに勝った人間は、無傷で檻に戻すことを約束しよう。ただし、負けた人間は……僕のエサになってもらう』
確かに吸血鬼は、『当たり』を引けば助かる。とは言っていない。
「このゲームの勝利条件。それは、『はずれ』の紙を引くことだったのさ」
「ふざけるな!」
『当たり』を引いた、金髪で背の高い女性が抗議する。
「『はずれ』を引けば助かるとも、言ってなかっただろう!」
「聞かれなかったからね」
吸血鬼は、あっけらかんとそう言った。
「というわけで、『当たり』を引いた人達の血を今から吸っていくよ。さて、最初は誰・に・し・よ・う・か・な?」
「ひっ!」
「嫌だ!」
「助けて!」
『当たり』の紙を引いた者達は逃げようとする。しかし、鎖に繋がれ、逃げることが出来ない。
その様子を見て、吸血鬼はさらに笑みを増す。
(これが狙いか!)
普通、血を吸われるのは『はずれ』を引いた人間で『当たり』を引けば助かる。多くの者がそう思うだろう。
自分が死ぬかもしれない極限状態で、もしかして『はずれ』の方を引けば助かるのでは?と疑う事の出来る人間など、まず居ない。
吸血鬼は『当たり』を引いた人間の表情が喜びから絶望へと変わる瞬間を見たくて、わざと皆が勘違いするようにゲームのルールを説明したのだ。
「良し!じゃあ、最初は君からだ」
「ひっ!」
吸血鬼は、小柄で大人しそうな女性の前に立つ。
「嫌。や、やめて!お願いです。やめてください!」
小柄な女性はガタガタと震える。
吸血鬼は口を大きく開けた。口の中に四本の長い牙が見える。吸血鬼はその牙を女性の首筋に突き立てようとした。
「いや、やめて!いやあああああ!」
小柄な女性の悲鳴が部屋中に響く。
その時。
「やめろ!」
悲鳴をかき消すほどの大声で、安藤が叫んだ。
「その人から離れろ!」
吸血鬼はピタリと動きを止め、ゆっくりと安藤を見た。
「君……今、なんて言ったの?」
暗くて冷たい、何の感情も籠っていない吸血鬼の声。
人間は勿論、吸血鬼の配下である魔物達でさえも、その声に身を震わせた。
安藤はゴクリと唾を飲み込む。
「その人から離れろ。と言いました」
「ふむ……」
吸血鬼は小柄な女性を放すと、今度は安藤の目の前に立った。
「君、震えているね」
吸血鬼の言う通り、安藤の体は小刻みに震えている。
「君は僕を怖がっている……なのに、君は僕に意見を言った。何故?」
「その人が殺されそうになったからです」
吸血鬼に血を吸われそうになった小柄な女性は「ハッ」とした表情で安藤を見る。
「つまり、君はこの女を助けたいわけだね」
吸血鬼は自分の顎を撫でた。
「この女は君の母親?それとも姉か妹?それとも親戚かな?」
「違います」
「違う……だったら、友人か恋人?」
「いいえ」
「もしかして、他人なの?」
「……はい」
安藤はきっぱりと答える。
吸血鬼は、小柄な女性に目を向けた。
「今の本当?」
「あ、あの……」
「答えて」
「ほ、本当です!その人とは、初対面です!」
恐怖に怯えながら、小柄な女性は言った。
「つまり君は、初対面の人間を助けようとしているのだね……」
吸血鬼は首を傾げた。
「何故?どうして、見ず知らずの女を助けようとするの?助けた見返りに、後でこの女に何か要求するつもりだった?金とか、肉体とか……」
「違う!」
安藤は叫ぶ。
「殺されそうな人を助けるのは、当然だ!」
部屋の中がまたしても静まり返った。
「フム。なるほど、なるほど」
吸血鬼は首を縦に振る。
「よし、ならこうしようか。君の言う通り、この女の血は吸わないでおいてあげるよ」
「えっ?」
小柄の女性は目を大きくする。
「そして、『当たり』を引いた他の人間も助けてあげる」
『当たり』を引いた者達がざわつく。
「ほ、本当か?」
金髪で背の高い女性が声を上げた。
「ああ、本当さ。約束しよう」
吸血鬼の言葉に、『当たり』を引いた六人は再び喜びの声を上げた。
「やった!」
「助かるのか?」
「よおおおし!」
喜びの声を上げる『当たり』を引いた者達。
「ただし!」
吸血鬼は安藤を指差した。
「彼が自分をエサとして差し出す。というのが条件だ」
***
「……はっ?」
「どういうことだ?」
「そ、それって……」
困惑する『当たり』を引いた者達。
吸血鬼は続ける。
「『はずれ』を引いた彼には助かる権利がある。だけど、その権利を放棄して僕のエサになると言うのなら、『当たり』を引いた他の六人は助けてあげる。ということさ」
「な、なんだよ。それ……」
金髪で背の高い女性が声を上げる。
「そんなの……そんなの、自分が助かる方を選ぶに決まってるじゃねぇか!」
六人の命と自分の命なら、自分の命を選ぶに決まっている。と金髪で背の高い女性は言う。
「そうだ……」
「自分が助かる方を選ぶに決まってる」
「終わりだ。今度こそ終わった……」
『当たり』を引いた六人は、またしても絶望に顔を歪めた。
吸血鬼はニヤリと嗤い、安藤に問う。
「『はずれ』を引いた君は、本来なら死ななくて良い人間だ。それなのに、その身を犠牲にして他の六人を助ける事が出来るかい?」
安藤が自分の身を差し出せば、他の六人は助かる。
だが、もし安藤が自分の命を優先すれば、他の六人が死ぬ。
(これって確か昔、三島が……)
安藤は昔、三島とこんな話をしたのを思い出した。
***
『優斗、トロッコ問題って知っているかい?』
【トロッコ問題】
ある時、線路を走っていたトロッコ(電車)のブレーキが壊れ、制御不能になった。
線路は二手に分岐しており、片方の線路には五人の作業員。もう片方の線路には一人の作業員が居る。
このまま進むとトロッコは、五人の作業員に突込み、五人の命が失われる。
貴方は、分岐点の線路を切り替えられるスイッチを持っており、スイッチを押せば線路は切り替わり、五人は助かる。
だが、切り替えたスイッチの先に居る一人の作業員はトロッコに轢かれ死んでしまう。
貴方は、線路を切り替えますか?
それとも、何もしませんか?
『これが、トロッコ問題だよ』
三島は安藤に尋ねる。
『優斗だったら、どうする?』
『俺は……』
難しい問題だ。安藤は考える。
何もしなければ五人が死ぬ。だけど、自分が線路を切り替えれば一人が死ぬ。
一見、五人を助けるのが正しいように思える。だが、五人を助けるために犠牲となるその一人は、本来なら死なずに済んだはずの人間だ。
線路を切り替えるという事は、その一人を殺す事になるのではないだろうか?
悩んだ末、安藤は答える。
『俺は、線路を切り替えて五人を助ける』
本当は全員を助けたい。一人だって死んで欲しくない。
だけど、それが出来ないのなら、せめて数が多い方を……。
『なるほど』
三島は頷く。
『じゃあ、トロッコ問題の別バージョンをもう一問出すね』
【トロッコ問題㊁】
ある時、線路を走っていたトロッコ(電車)のブレーキが壊れ、制御不能になった。
線路の先には五人の作業員が居る。
貴方は、橋の上からそれを見ている。
そして、貴方の隣には体の大きな人が居る。
この人間を橋の上から線路に突き落とし、トロッコに轢かせれば、トロッコは確実に止まるものとする。
ただし、突き落とした人間は当然、死ぬ。
貴方は、隣に居る体の大きな人を橋から突き落としますか?
『優斗だったら、どうする?』
『俺は……』
安藤は答える。
『……突き落とさない』
『どうして?さっきは線路を切り替えて五人を助ける。って言ったのに』
『それは……』
安藤は答えられなかった。
線路を切り替え、五人を助けるのも、橋の上から体の大きな人を突き落として、五人を助けるのも、『一人を犠牲にして、五人を助ける』という点では同じだ。
なのに、最初の問題は『線路を切り替える』ことを選んだのに、『橋の上から体の大きな人を突き落とす』という選択は選べなかった。
同じ一つの命なのに。
三島はニコリと微笑む。
『トロッコ問題には様々な派生がある。そして、色んな事を問い掛けている』
・多数のために少数を犠牲にして良いのか?
・少数を犠牲にする選択をしたとして、常に少数側を犠牲にして良いのか?
・多数が犯罪者で、少数が善人だった場合はどうか?
・多数が老人で、少数が子供だった場合はどうか?
などなど……。
三島は最後にこう言った。
『トロッコ問題に正解は無い。だから、命について深く考えさせられるんだ』
***
「さぁ、どうする?」
吸血鬼は、安藤に問う。
「もしも、君が自分だけ助かりたいと言うのなら、他の六人は……」
「俺の血を吸ってください」
「ん?」
「俺の血を吸ってください。その代わり他の六人は助けてください」
「―――ッ!」
『当たり』を引いた他の六人は、目を見開く。
「それで良いのかい?」
吸血鬼は、再度問う。
「……はい」
「そんなに震えているのに?」
安藤の震えは先程よりも大きくなった。
当然だ。死ぬのが怖くない人間など、ごく少数しか居ない。
「今なら、答えを変えても良いよ。そうすれば、君を助けて……」
「絶対に変えません」
力強い目で、安藤は吸血鬼を見た。
今のこの状況は、『トロッコ問題』のさらに別バージョンと言える。
【トロッコ問題㊂】
ある時、線路を走っていたトロッコ(電車)のブレーキが壊れ、制御不能になった。
線路の先には『六人』の作業員が居る。
そして、もう片方の線路の先には『貴方』だけが居る。
このまま進むとトロッコは、『六人』の作業員に突込み、『六人』の命が失われる。
貴方は、分岐点の線路を切り替えられるスイッチを持っており、スイッチを押せば線路は切り替わり、『六人』は助かる。
だが、切り替えたスイッチの先に居る『貴方』はトロッコに轢かれ死んでしまう。
貴方は、線路を切り替えますか?
それとも、何もしませんか?
安藤の答えはこうだ。『スイッチを押して線路を切り替え、六人を助ける』。
「俺は、自分の答えを絶対に変えません」
「……そうかい」
吸血鬼は頷くと、今度は『当たり』を引いた六人を見た。
「なら、次は君達に訊こう。彼の他に『自分が犠牲になるから、他の六人を助けて欲しい』って人間は居るかい?居るなら手を上げて」
「………ッッ」
皆は沈黙し、誰も手を上げない。
それを見た吸血鬼は、安藤に言う。
「君は言ったね。『殺されそうな人を助けるのは、当然だ!』って。だけど、君以外の人間は皆『自分だけ助かれば良い』という奴らばかりだよ?」
吸血鬼の言葉に『当たり』を引いた六人は無言で顔を伏せる。
「良いのかい?こんな人間達のために、犠牲になるなんて」
「……」
「最後のチャンスをあげるよ。答えを変えるなら……」
「変えない!」
安藤は首を大きく横に振る。
「もう一度言います。俺は自分の答えを絶対に変えたりしません!」
「君が助けようとしているのは、自分が助かる事しか考えていない奴らなのに?」
「俺は、『自分だけが助かりたい』と思う事が、悪いとは思いません」
『トロッコ問題』に正解は無い。
線路を切り替えない選択だって、間違いじゃない。
自分の命を守る選択だって、不正解ではない。
安藤は、他の人間を犠牲にして自分一人だけが助かる。という選択を『選べなかった』だけなのだ。
「……分かった」
吸血鬼は笑う。
「君がどうしても答えを変えないと言うのなら……望み通りにしてあげよう」
吸血鬼は安藤の首筋に噛み付こうとする。
「あ、あの!」
すると、先程、吸血鬼に血を吸われそうになっていた小柄な女性が叫んだ。
「ん?何?」
「わ……私、私が……その人の代わりに……」
小柄な女性は、手を上げようとする。
「ダメだ!」
安藤の声に小柄な女性はビクッと震え、動きを止めた。
「絶対に、手を上げちゃダメです!」
「で、でも。そしたら貴方が……」
「俺の事は気にしないでください!」
「だけど!」
「いいんです」
安藤は小柄な女性に、ニコリと微笑む。
優しく、穏やかに。
「貴方は生きてください」
「―――ッ」
小柄な女性の目から涙が流れる。
「他の皆さんも、俺の事は気にしないでください。これは俺が決めた事です。皆さんは、自分の命を第一に考えてください!」
安藤がそう言うと、皆が頭を下げた。
「すまん……」
「悪い……」
「ごめん。ごめんよ」
「ありがとう。ありがとう」
皆が、涙を流しながら安藤に謝罪や礼の言葉を言う。
安藤は静かに頷いた。
「さぁ、早く俺の血を吸ってください!その代わり、約束通り他の六人は助けてください」
「分かっているよ」
吸血鬼は、安藤の首に顔を近づける。
「僕は、約束は必ず守る」
そして、吸血鬼は安藤の首筋に牙を突き刺した。
「がっああああああああ!」
凄まじい痛み、苦痛、そして、恐怖。
自分の体から血がどんどん抜けていくのが分かる。
(すみません。カールさん。『何かあれば、まず自分の命を第一に考えろよ』ってアドバイス。守れませんでした)
安藤は、心の中でカールに謝罪する。
(でも、もうこれ以上、目の前で人が死ぬのを見たくなかったんです)
安藤は目を閉じる。
すると安藤の脳裏に昔の記憶が、凄まじい速さで流れた。
(これが、走馬灯……か)
忘れていた幼少の頃の記憶、親の記憶、妹の記憶。色々な記憶が流れては消える。
「先輩」
「優斗」
「ユウト様」
そして、三人の女性が安藤に微笑んだ。
(三人は俺が死んだら、どうするだろう?)
悲しむか。それとも怒りまくるか……。
(でも、俺が死ねば、もう三人が争う理由は無くなる)
安藤は、かすかな笑みを浮かべた。
走馬灯が消えていく。同時に意識も薄らいでいく。
どうか、皆……幸せ……に……。
安藤の意識は、そこで途切れた。
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